第20話 旅へ ⑦

 刹那、洞穴を覗いたカスイが悲鳴を上げた。それと同時に穴から巨大な影が飛び出す。

 カスイは吹き飛ばされた。

 どう見ても人間界の生き物ではない。クマの倍はあろうかという巨体に巨大な四本の腕と四本の足、背中には岩石のような数多のコブ、尻尾は大きな扇の形をしていた。中でも一番印象深いのは、怒り狂った獅子の何十倍もの恐怖を与えるような面もちであった。ロチカを見て笑ったように見える。

 獣は圧を発した。恐怖を含有する圧だ。オリーでさえも身動きがとれない。固まった人々に向かって獣が突進する。

 ロチカは必死で微々たる魔力をかき集め、環状の青き盾を獣の前に生成した。獣、激突。激しい衝撃と共にロチカは後方に飛ばされ、岩石に打ちつけられた。

「川まで逃げなさい!」

 キャチューの一声で、目が覚めたかのように兵士が一斉に走り出した。

 オリーは獣の死角を駆け抜けて、倒れているロチカを担ぎ上げた。間一髪で獣が突進してきた。飛び散る岩石から逃げるオリー。獣はとどめを刺し損ねたことで怒りの雄叫びを上げる。

「狙いは俺だ」

「わかってら」

「下ろせ」

「下ろすか」

 もがくロチカを押さえつけ、オリーは獣の気が他の皆に向かないようにジグザクに走った。

 四本の腕で地面をえぐり、土砂を降り注ぎながら獣は猛烈な勢いで走ってくる。上からの土にもまれながら全力で走るオリーだったが、獣は気がつけば頭上にいた。ひとっ走りでオリーの全力疾走を超えたのだ。オリーは横っ飛びで転がり回避、獣のかぎ爪が地面を切り裂く。

 もがくことをあきらめたロチカにオリーが叫んだ。

「ジャンプするから、ちょっと浮かせて」

 ロチカが手を添えると心なしか体が軽くなったような気がした。あえて獣を挑発しながら、オリーは渾身の力で宙に向かって飛び立つ。

 足元にトランポリンでもあったかのようだ。オリーは宙で一回転し、大きな岩の上に降り立った。途端に衝撃。獣が岩に大激突した模様。揺れる岩の上でオリーが叫ぶ。

「あいつ俺より馬鹿だ。突っ込むことしか脳がないぞ」

 身動きが取れない獣にロチカが一撃お見舞いする。ロチカが人差し指を立てると、空の彼方から一筋の細い稲妻が一直線に獣の体に突き刺さったのだ。悲鳴をあげる獣。

「何だそれ、凄いな!」

「死にそうなくらい疲れる」

 一方、キャチューたちは川に到達していた。昨日の雨で川は増水しており、茶色のうねりが爆音を上げていた。前方に橋。橋があることに一瞬喜びかけたが、近づいてみると情けないくらい軟弱な橋だ。そんな橋を大人数で慌てて渡ったため、当たり前のように橋の底が抜け、手すりがはじけ飛ぶ。

「壊れるぞ!」

 カスイの下の板が抜け、悲鳴と共に彼女の姿が消える。咄嗟に腕をつかむキャチュー。何とか引っ張り上げ、陸にカスイを投げ飛ばした。眼前で橋は荒波に呑まれて消えた。

 一息つきかけた部隊に向かってキャチューが怒鳴る。

「総員、攻撃準備よ!」

 獣が痺れて動けないでいるうちに、オリーとロチカは川に向かって急いだ。しかし、前方に橋はない。

「ロチカ、もう一回頼むぞ」

「あぁ」

 獣は痺れを振り払い、再びロチカに向かって突進してきた。やはり一歩が違う。川を飛び超えられる距離に二人が到達するより先に、獣のかぎ爪が背中をえぐれそうだ。獣が飛び掛かった。

「発砲」

 キャチューの号令が轟く。左右に分かれた軽量級部隊が一斉に獣に向かって射撃を開始した。獣にとっては微々たる痛みに過ぎないが、一瞬の油断は生じる。ありがたき一瞬だ。獣の足が止まった隙に、オリーが飛ぶための助走に入った。

「飛べ!」

「飛べぇ!」

 周りの懸命な叫び声を力に変え、オリーは思い切り大地を踏み切った。

 時間の流れが遅くなったようだ。ロチカの手助けがあってなお、着地地点は川が土かのきわどいところ。オリーは宙で必死に足を動かし、飛距離を伸ばそうとする。だが、届かない……。

 虚しく川に落下しそうなオリーに向かって、キャチューとファンが手を伸ばす。

 オリーは息を荒げて地面に転がった。隣にはロチカもちゃんといる。空気が、空気が欲しい。心臓の鼓動に合わせて体が膨張するようだ。頭も痛い。肺が破裂する。オリーは地面で苦しみながらのたうち回った。呼吸のことなどすっかり忘れていた。

 無論、獣にとって川を超えることは造作もない。川を越えただけで大丈夫だと思い込んでいる一行を嘲笑い、獣は優雅に川を飛び越える。実際、川を越えた後の策略を誰も持っていなかった。

 誰しもが川を華麗に飛び越える獣の影を呆然と見上げる中、ロチカだけが獣の着地地点に仁王立ちした。青ざめた顔色ではありながら、佇まいには絶対の自信を感じさせた。これが本来のロチカだと、全員がはっきりと感じ取った。

 ロチカが指を鳴らすと、地面から白銀に輝くナイフが一瞬で生えてきた。獣の目が見開く。方向転換しようとも、重力には逆らえない。そのままそのナイフに向かって落ちていくしかなかった。

 生生しい音と共に、獣の体は二つに裂かれ、黄土色の鮮血がそこら中に飛び散った。獣が再び地面に足をつけたとき、獣は既に生物ではなくなっていた。ただの、肉。

 血の雨を浴びた一行はしばし呆然と立ち尽くした。走った疲れ以上の疲労が体をめぐっているようで、皆の肩は激しく上下していた。

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