第14話 旅へ ①
ヘンリー・ノックス将軍は総司令官室に呼ばれた。
先のバンカーヒルの戦いで奮闘したノックスは(ロチカとオリーの大活躍のせいですっかり彼の業績は影を潜めてしまったが)、新しく発足した正規軍の総司令官に選ばれた人物と馴染みが深い。
わざわざ総司令官室に呼ばれるということは、何か大事な話があるのだろう。
総司令官室は本部の隅にある小さな小屋だった。総司令官とはこの戦争の責任者であるため、もっと豪華な部屋で暮らすのが適当だと思うが、彼は頑なに質素な小屋を譲らなかった。
……そこだけ聞けば、謙虚な人物だと思うかもしれない。
ノックスが小さな家のドアを叩くが、返事はなかった。ドアを開けて入る。いつものことだ。彼は面倒くさいことをしない。必要なことすら面倒くさいと言ってやらない。
……そこだけ聞けば、怠惰な人物と思うかもしれない。
部屋の中は暗かった。ランプが一つだけ机の上に置かれ、他に明かりはない。窓も全部閉ざされ、黒のカーテンでとことん日光を遮っていた。
ノックスが中に入ると、机の後ろで座っていた影が動いた。ランプの明かりに照らされて、青白く覇気のない顔が現れた。
男。顔自体は美青年と呼ばれるような、整った顔立ちと澄んだ瞳であったが、とにかく栄養と日光が足りていない印象が強い。ノックスは見慣れていたが、初めて見る人はあまりの不気味さに腰を抜かすだろう。そのくらい頬は痩せこけ、目の下のクマは大きいのだった。これが彼の普段の姿だ。
大陸軍総司令官 ジョージ・ワシントン
後のアメリカ合衆国初代大統領である。
ワシントンはノックスに言った。
「太ったな」
予想外の攻撃。ノックスはうめく。確かに太ったが、普段のワシントンならこんな無駄な話をすることはない。だからこそわざと言ったのだ。
狼狽するノックスを見て、ワシントンは笑った。笑った彼の声は乾燥していて、妙に部屋にこだまする。笑い声はとても長い時間続き、突然消える。何かが切断されたようにプツンと消えるのだ。そして低い声で、時々声を裏返しながら本題に入る。その間顔の表情は一切変わらない。ただ笑っているだけなのに、不気味だ。
「バンカーヒルで我々は負けた」
ワシントンは地図上のチャールズ半島に大きくバツ印を書いた。
「はい、力及ばず申しわけありません」
ノックスの謝罪を完全に無視して彼は続ける。
「故に、ボストンは再び膠着状態になっている。このまま敵が補給を続けて強大になっては、後々厄介の種になるのは間違いない。早めにつぶしたい」
「はい」
ワシントンは、自分の指を地図上でボストン市の南側に移動させた。
「次はドーチェスター高地を狙う」
ドーチェスター高地も、バンカーヒルと大体同じような効果が期待できる。ドーチェスターに砲台を置けば、ボストン市に大砲で容易に攻撃ができるのだ。最初からこちらに陣を取っておけば良かったくらいだ。
ノックスは腕を組みながら頷いた。
「それでは私にドーチェスターでの指揮を?」
「違う」
ノックスは腕を組みながら頷いた。努めて真顔を保つ。
ワシントンは続けた。
「この作戦には、一つ問題がある」
「はい」
思いつかなかった。
「大砲がない」
「え?」
大砲を置くには格好の場所が存在するが、肝心の大砲がないということだ。バンカーヒルの戦いでは多くの大砲が破壊され、やむを得ず放棄していた。大砲がなければ意味がない。ノックスは先を読む力が乏しかった。
「それでは、どうすれば」
ワシントンの顔に怒りがよぎった。
「大砲は、タイコンデロガにある」
ノックスにとってこの地名は記憶に新しかった。
この戦争が始まってすぐ、イギリス支配下にあったタイコンデロガ砦を植民地軍が攻略したのだ。ノックスもワシントンもその場にいた。
確かに思い返せば、大砲があったような、なかったような。
「そこに約六十門の大砲があるという情報だ。ノックス、全部持ってこい。とにかく、早く」
ノックスは固まった。ワシントン直々の命令であるから拒否権はない。そして失敗も許されない。失敗したら容赦なく処断されるだろう。
タイコンデロガに行くこと自体は問題ない。しかし、六十門もの大砲をどう持ってこればいいのだろうか。季節は冬。軍の機動力は落ちるし、毎日ワシントンからの圧力を感じなければならないのだ。
嫌だ。そう言いかけた口を、慌てて抑える。
「どうした、何か質問でも?」
ワシントンは既に別の仕事に取り掛かっていた。今ノックスが前にいることは、彼にとっては邪魔でしかなかった。彼の怒りがノックスに伝わった。彼が怒ると何をしでかすかわからない。
早く宿舎から出ていこうとする体の動きと同時に、ノックスの頭の中を様々な不安が走った。その一瞬だけで心の臓が止まりそうだった。
不意に、二人の男の姿が見えた。戦場。人間離れした活躍を見せる二人の後ろ姿だ。絶望を、希望に変える後ろ姿。
考えるより先に、口が動いていた。
「あ、あの……二人ほど、連れていきたい兵士がおりまして」
「好きにしろ」
ワシントンは目も合わせず冷たく言った。
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