エピローグ

 公園のベンチに、いつかのように2人で腰掛ける。その『いつか』のときは、3人だったけど。


 彼は、お姉ちゃんが崖から落ち…、あの日に下げていたカバンに入っていたとい

う、一冊のノートを私に差し出した。


 「躊躇ったんだ」


 気後れしていた彼の顔は、しかし、どこか大きな覚悟を決めたように勇ましくもあ

った。


 「でも、君に見てほしい。殺したのは僕だけど、君のお姉さんが亡くなる前日まで

書いていたものだから」


 私に気を遣っているのか、お姉ちゃんのことを『君のお姉さん』とやけによそよそ

しく呼ぶ白木さんは、どこか後悔しているようにも見えた。


 何気なく開いた私は、そのノートから目を離せなくなってしまうなんて、開く前は

思いもしなかった。




 みんなへ

 みんながこれを読んでいる時には、私は多分、もうこの世の中にはいないでしょう。


 いわゆる、「遺書」っていうやつですね。ドラマみたいでカッコいい、なんて場違

いにも思ってしまうのは恐縮ですが、それでも、そう思っていないと、私は、これを

書くことが出来なかったかもしれないです。


 私は、いろんな人から、強いとか、優しいとか、友達想いだとか、評価してもらっ

てたけど、私は、実はそんなことはなくて、自分勝手で、わがままで、実は誰かに優

しく接している自分が利口だなんて酔いしれているだけの卑怯者なんです。そう、卑

怯者。誰かによく見られたいのが本音でした。


 でも、私が言う『みんな』には、ありのままの自分でいられる。何の計算もなく、

何の疑いもなく、うまく言えないんだけど、この人は大切だなって思えるから。


 なんて、すごく恥ずかしいことを言ってるから、そろそろ締めにしたいかな。こん

な何十ページもあるノートの1ページも埋められないほど短い文章だと、なんだか自

分の人生の厚みを否定されているようで寂しくもなるけど、みんなと楽しく笑い合え

た日は、死んでからもずっと、永遠に、忘れない。


 ありがとう。


 唯花。


 お父さん。


 お母さん。


 圭くん。






 「おこがましかった」


 ノートを読み終えて、一旦顔を上げた私に、白木さんは言った。


 「僕の名前を乗せてくれた彼女を、僕が殺し…」


 「違いますっ!!」


 私は否定した。


 鼻の奥が沁みるように痛くて、目に映る白木さんの顔が水の中にいるようにぼやけ

て見える。


 「そんなっ、そんなこと、言わな、いで!」


 息苦しくて、声がつっかえる。


 「唯花ちゃん…」


 「くだらないやつが、いたんでしょ! お姉ちゃんのことを、表面でしか知らなく

て! 知らなくて!!」


 うっ、と嗚咽を何度も漏らし、息苦しくなりながらも、言いたいことは尽きない。

訴えたい言葉は山ほどある。


 「そいつらの名前くらい…書いててよ…」


 「でも、とどめを刺したのは僕だ、改めて謝る。君のお姉さんを…」


 「名前で呼んでよ!!!」


 さっきから、苛立っていた。なんでこの人は、変なところで気を遣って、自分だけ

が苦しむ方向へと勝手に一人で歩いて。


 「お姉ちゃんは、あなたに名前を呼ばれてる時、すごく嬉しそうだったんだよ。そ

れに、お姉ちゃんは、あなたのことを…」


 これ以上先は、言えなかった。


 この先は、墓場まで持っていく。私が伝えるのは、違う気がするから。


 「唯花ちゃん…」


 気付くと、号泣する私に同調するように、静かにすすり泣く白木さんの顔があっ

た。


 「ありがとうっ…」


 白木さんが私の手を取った。


 嫌な気持ちには、全くならなかった。


 灰岡のように、胸が飛び上がるような感覚はしなかった。


 ただその手は、思いやりの温もりでいっぱいで、相手の心を満たしてくれる優しさ

で溢れかえっていた。


 あの日、この公園で、お姉ちゃんと私を守ってくれた白木圭が、私の世界に帰って

きた。


 いや、逆だ。


 真っ暗で、出口の見えない復讐の闇の中に囚われた私を、白木圭の手が優しい光の

世界へと引っ張ってくれた。




 『よかった。二人が仲直りできて』



 お姉ちゃんの安堵した声が、聞こえたような気がした。





 文化祭から数週間後の日曜日。


 私は、大きな公園のベンチで、ぼんやりと絵を描いていた。


 『目黒さんの絵のおかげだね!』


 『めっちゃうまかったもんあれ!』


 教室内で展示をすることになっていた私のクラスで、ドアの前に掛ける看板のデザ

イン。


 私は勇気を出して、自分が描くと名乗り出た。


 できるだけ目立たないように生きてきたのに、周りのために初めて自分の絵を役立

てたいと思った。


 自分が当たり前のように描いてしまう絵は、まるで大儀であるかのように、褒めら

れ、評価され、顔を赤くして興奮する人もいて、私は少しだけ嬉しかった。


 処分しないとな。


 白木さんが死ぬ絵を、いくつかいただろうか。それだけで個展が開けてしまうほど

に描いたあの絵たちは、今の私にはもう必要のないものだった。


 だから今は、彼に初めて出会った時の絵を描く。


 一人でいるのに大きなブルーシートを地面に引いて、そこに座らずに近くのベンチ

に腰掛け、そこに座っている幼い私たち三人の空想を描く。


 「ちょっとカッコよく描きすぎたかな」


 白木さんの目鼻立ちが実際よりも整ってしまうと、思わず笑ってしまう。近くにい

る小学生たちの視線を気にして、慌てて顔の筋肉に力を入れて我慢する。


 「よお…」


 すると、後ろから控えめな声が聞こえた。


 「灰岡さん!?」


 「ああ…。別人に見えるか?」


 振り返ると、髪を短くした灰岡翔が、照れくさそうに立っていた。 


 「…はい」


 「そうか、だよな。結構バッサリ言ったもんだから、慣れねえんだよな。感触も、

周りの目も」


 「どうかしたんですか…?」


 「髪を切ったくらいで大げさだな。まあ、ちょっとだけ大げさな変化があったから

さ。もう、無理しなくてもいいかなって…」


 灰岡さんは、そのまま言葉を続けた。


 「強く、なりたかった」


 「えっ?」


 「バカみたいだろ?」


 彼はこちらから見ても分かるくらい、無理して笑った。


 「俺、小学校の時にさ、同級生に、いじめ、みたいなことされてさ」


 彼の口からは、初めて聞くような言葉に、私は唖然とした。


 「毎日大変だったよ。教科書隠されたり、給食にハエの死骸入れられるし、それら

のいたずらが先生に気付かれたら、その後で腹を殴られるし、あることないこと、好

き勝手言われるし、泣いてる俺を下級生の教室に放り込んで晒し物にされるし」


 彼は飄々と、まるで他人事のように、自分がされてきたことを話した。


 「兄貴が一人いてさ。でも、兄貴は俺みたいに弱くなくて、いつも強かった。喧嘩

も強いし、頭がいいし、友達もたくさんできるし、女子にも大人にも人気があっ

て…」


 彼は、続ける。


 「そんな兄貴は、弱い者いじめが好きだった。暴力と仲間の数を利用して、よく話

してくれたよ。今日はクラスのやつの腹を蹴ったとか、公園で小学生をからかってや

ったとか」


 少しだけ言い淀む彼は、まだ続ける。


 「怖かった」


 本当に怖がっているように、彼の身体は小さく震えていた。


 「教室で誰にも文句を言われない兄貴が、もし俺が、学校でいじめられていること

を知ったら、って考えると、怖かった。俺もその弱いと思ってる人たちと同じような

目で見られるのかなって」


 すると彼は、握り締めていた拳をゆっくりと解いて、またしても力なく笑った。


 「だからって、外見だけを強面にしたってダメだよな。親には適当に理由つけて本

来行くはずの中学よりも、少し遠い今の学校を選んで、俺を知らないやつらに、俺は

強い人間なんだよ、って知らしめたくて。そしたら、あっという間に俺は嫌われ者に

なった。弱そうだからって下に見ていた白木にも、結局、俺の無力さを見抜かれて、

一人になった。強い人間は孤独だってよく聞くけど、本当に孤独なのは、人から求め

られるものを持ってない、弱い人間なんだよな、って、心の底から思ったよ」


 彼の目は、誰かに対して怒るでもなく、暗い過去に涙することもない。


 ただ、生気を失っていた。


 『『俺だけ』があいつを殺したことにして、俺は自ら命を絶って死ぬ』


 私は、彼との『賭け』を思い出した。


 彼は、死にたかったのだろうか。だから、あんなことを平気な顔で言えて、それか

ら、白木さんを庇って自分が落ちて。


 でも、彼は自分の内側にある闇を今日まで見せなかった。きっと白木さんにも言わ

なかった。


 理解者なんていないんだ、と被害者ヅラして、白木さんへの復讐が正しいことだと

信じて疑わなかった私なんかよりも、私たちの前では笑顔を貫いてきた彼は本当に器

の大きい人間だった。


 馬鹿にしていた彼の痛みに気付くことなく、心ない非難を浴びせ続けた私の方が、

本当の馬鹿だった。


 「だからさ、もう俺とは、関わらない方がいい」


 「えっ…」


 「絵、文化祭で活躍して友達増えそうなんだろ? 良かった。もう、嫌われ者と一

緒に居たらだめだろ? だからさ、せめて今日までは、俺と一緒にいてく…」


 「嫌です」


 「えっ…?」


 次は彼が驚く番だった。


 私は、怒っていた。


 「今日までなんて、絶対嫌です」


 「でも、お前の幸せは…」


 「勝手に決めつけんな!」


 珍しく弱気な彼の言葉を遮り、私は訴えた。


 ありのままの気持ちを。


 微塵の恥も、感じることなく。


 「私は、嫌われ者は大嫌いだけど、カッコばっかりつけるけど実は不器用で、たま

にムカつくこと言うし、鬱陶しいなって思うところもあるけど、私の幸せは、そんな

嫌われ者のあなたに憎まれ口を叩くことです」


 「目黒…」


 「だから、今日からは、自分だって辛いだろうに、それでも私に笑顔を見せ続け

た、すごく、ものすごく優しいあなたの…隣にいたいです」


 言ってしまった。


 それから数秒は、どちらも口を開かないまま、立ち尽くした。


 近くにいる小学生たちの嬌声がよく聞こえてくる。


 最初に動いたのは彼だった。


 踵を返し、私に背中を見せた。


 「あっ」


 間の抜けた声が出てしまった。


 広げたブルーシートにドカッと勢いよく座り込み、空を仰ぐ。


 はあああ、と大きく息を吐き、両手で自分の頬を強く叩いた。


 そして、真っすぐと私を見つめる彼の顔は、笑っていた。さっきみたいな作り笑い

ではなく、心の底から、まるで昼間から遠慮なく照り付ける日差しのように、笑って

いた。


 「じゃあ、今からさ…」


 そんな彼は、口を開いて言った。


 「描いてくれよ。唯花の大好きな嫌われ者を」


 隣で、と付け足す彼は、相変わらず他人をからかうような調子で私に笑顔を向けて

きた。


 「ほんっと、アホみたいな顔してかっこつけて、相変わらず…」


 翔さんは、と付け足した私の声は、誰の耳にも届かず、11月の冷たい風に乗って

どこかへ飛んでいった。

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人を殺した魔法使いは、幸せになれない ヒラメキカガヤ @s18ab082

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