第46話 今の

 10月の空気は、思った以上に静謐だった。


 走って外に出た足は、そのまま帰路に続く坂の方へと進んだ。


 白木くんの『チカラ』を肯定した坂。


 誰かを助けるために摸索しながら、時には笑い話にも興じた上り坂。


 暖かい季節とは、また別の場所にいるようで、しかし、変わりようのない、代わり

のない、私の思い出の場所だった。


 ここに来るまでずっと黙っていた白木くんが口を開いた。


 「『お相手さん』」


 「っ…!」


 息が詰まった。


 なにを言われているのか、すぐに理解できなかった。


 「あの時は、さよなら、なんて言って、ごめん」


 「あなたは…」

 思い出す。



 あの日の絶望的な孤独と退屈を変えてくれた遊び。


家族への小さな反抗をという思いから忍び込んだマンションの管理室に置かれたノー

ト。落書きしようと企んだ私を驚かせた先客。


そこから始まった、私たちの交換日記。

顔も名前も、何号室かも知らない、私たちの遊び。


ある日、急に居なくなった『お相手さん』。


肩を落として、失意に溺れる『お相手さん』の背中。何かに打ちのめされたような

『お相手さん』の顔。


彼が去った後、開いた交換日記に書かれた『さよなら』の四文字。


「ずっと、謝りたかったんだ。あの日のことを」


私は、下を向く。


 拳を握り締めたまま、固まってしまう。


 「…さら…。今さら…そんなこと言われても、迷惑です!」


 涙が溢れだした。彼の胸倉を掴み、その涙を拭うことなく、相手の都合などお構い

なしに、わがままを吐き出してしまう。


 「私が、どれだけ寂しかったか…、ずっと、ずっと…、苦しかった!! …あなた

だけが、生きがいだったから…」


 彼のことを本屋で見かけては、記憶が消えて、彼のことを思い出すたびに嬉しさで

溢れそうだったけど、また記憶を消されることへの恐怖だって十分あった。正確に、

彼に伝えてやりたかったのに、感情が先走って、詳細を伝えられない。彼への抑えき

れない気持ちだけが先行する。


 あの時は、恥ずかしくて、照れくさくて、私の顔なんか知らないだろうと思ったか

ら、読んだことのない本を見て、思い出したフリをして誤魔化したことも、知らない

くせに。


 顔をくしゃくしゃにして、涙で濡れた視界は靄が掛かったように白木くんを映し出

す。


 背中に、彼の手が触れた。


 「ごめん…。思い出すのに、時間が掛かった」


 「っ!?」


 彼の胸の中で、動揺する。心拍数が跳ね上がる。


 私のことを、思い出した…?


 「顔は見たことなかったけど、ずっと、僕の中では、印象的だったから。まんまる

とした丸文字が」


 「あ…」


 「初めてテスト勉強した時に、君がノートを広げた瞬間に、全部思い出した。僕を

応援してくれた、あの丸文字を」


 彼が、少しだけ強く私を抱きしめる。


 嬉しかった。


 でも、今感じているものは、それだけではなかった。


 「でも…でも…、白木くんには唯奈さんがいる…。私は、あの人には勝てない…! 

勝てないから、私のことなんか、放っておい…」


 「それは…、否定もできないし、肯定もできない。僕のせいで死んでしまった彼女

に対して、何を言っても失礼で、気分を悪くしてしまうかもしれない。でも、僕

は…、少なくとも、『今の僕』は、このまま君と、ずっと一緒にいたい。半端なこと

は、したくない」


 うっ、と嗚咽を漏らし、私は、手を彼の背中に回した。


 その後は、言葉もなく、ただただ涙を流しながら、気が済むまでに彼の胸の中に埋

もれて、嗚咽と涙声を漏らし、日の沈みかけた薄暗い空の下、秋の夜風に吹かれなが

ら、私は私を思い出してくれた『お相手さん』に包まれながら、甘美と苦渋、明るさ

と後ろ暗さを湛えた、混沌かつ濃密な数分を過ごした。




 十一月。


 寒々しい空の下、春流と坂道を下る。


 「圭くん圭くん!」


 僕の肩をゆする彼女が、嬉々とした表情で僕にスマホの画面を見せる。


 「あっ!」


 僕は、画面に映る人物に驚愕する。


 「青島ちゃん、彼氏できたんだって!」


 「そうなんだ…!」


 驚愕にようやく喜びが追い付いた僕は、感極まってまともな言葉が出てこなかっ

た。


 「がっかりした?」


 「なんで?」


 「白木くんの好みだったでしょ? 青島ちゃんみたいな人」


 「そんなことないから!」


 「へえ~」


 信じられない、というような目で、僕を怪訝そうに見やる彼女に、僕はどうすれば

いいんだよと、言ってやりたいのをグッとこらえ、ため息を漏らす。


 「僕は…」


 チナツみたいにからかう春流はどこかご満悦な顔をしていたから、僕は少し向きに

なり、一か月前から交際し始めた彼女に、言ってやった。


 「春流のことが、好みだから…っ!」


 言ってしまったことを後悔した。


 「へえ~、圭坊も言うようになったじゃ~ん」


 と、チナツ。


 「こんな寒い中、お前らはお熱いことで」


 と、信隆。


 「立ち聞きすんなっての! お前ら!」


「ごめんごめん。付き合いたてのカップルが新鮮だったから、ちょっとからかい…、

いや、幸せを分けてほしかっただけよ」


「本音漏れてるぞ」


 「えー! 別にいいじゃん、減るもんじゃないし…、ねー、春流ちゃん…、あ

ら…」


 「桃井?」


 「も、もうっ! どうしてみんなして!! そんなに! こっちはすごく、照れく

さいんだから…」


 「春流…!?」


 顔を真っ赤にして、本当に照れくさそうとする彼女に、僕もまた、気恥ずかしく

て、目を逸らしてしまった。


 「ほ~ら、この間の文化祭、みんなで桃井ちゃんのコスプレ隠し撮りしてたじゃ

ん? あの時の白木くんったら、鼻の下こーーーーんなに伸ばしちゃってさ」


 「こらっ! チナツ!!」


 唇の上をつまんで下に伸ばしながら僕を茶化すチナツにツッコミを入れていると、

クスッと控えめで柔らかい声が聞こえた。


 視線を注ぐと、いつか、僕の『チカラ』を受け入れ、その『チカラ』を使って誰か

を助けようと、小さくも心強い手を差し伸べてくれた桃井春流が、あの時と同じよう

に、いや、いつものように、優しい光を放つようにして笑っていた。

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