第21話 俺なんか

 クラスマッチも、いよいよ大詰め。


 僕たちのクラスは、優勝するかと思われたが、そんなことはなく、二回戦で三年生

たちの強いチームに圧倒的に点差を付けられ、敗退した。


 一方で、蓮井君のチームは、蓮井君の奮闘により決勝までコマを進めた。野球未経

験の男子が大きな当たりを打たれても、軽快な守備と、相手の攻撃を倍にして跳ね返

すほどの打撃で、勝ち上がってきた。


 そして始まった決勝戦。


 蓮井君が、もうほぐれているはずの身体と心の凝りを、ストレッチで入念にほぐ

す。こういう緊迫した『本番』は久々なのだろう。


 そして彼は、グラウンドを見据える。


 あと三分で、試合開始だ。


 相手のクラスには、三年生の野球部員が三人。あの茶坂先輩がいたが、蓮井君は彼

のことを目視しても、何も思い出さなかった。


 「よかった…」


 状況は、僕が奇跡的にホームランを打ってから好転している。


 このまま、彼が優勝して、自身を付けて、記憶が戻った状態でも、気兼ねなく野球

ができるようにするんだ。


 そんな願いに呼応するかのように、小柄で髪の短い女子が、遠くからではよく分からなかったが、たぶん女子が、ベンチに置かれた蓮井君のグローブに立てかけるようにして小さな何かを置くところが見えた。


 その小さな生徒よりもずっと小さなものが何なのか。


 僕は、直感して、思考が止まって。


 あの日、チナツが彼に渡したというお守りを見て、身体中の震えが止まらなかっ

た。






 「っ…!」


 ボールが、グラブからするりと抜け落ちた。


 「おい、大丈夫か?」


 「あっああ、わりい…。打撃で返すわ」


 「気にすんな」


 思い出した。


 思い出したくない記憶を、思い出してしまった。


 すっぽりと抜けていた、あの日の思い出が、こんな形で、戻ってしまった。


 野球部を止めて草野球チームに入団した理由と、試合中の、野球部員たちによる俺

への訳の分からないヤジの理由を、あれを『見てしまった』ことにより一気に思い出

した。頭の中の、すっぽりと抜けた真っ白な空間が、一気に埋め尽くされていく感

覚。


 「まさか…な…」


 最近知り合った男子、白木圭の『チカラ』によって失っていた記憶。それを解除に

は、自分にとって最も大切な人、あるいはものだったが…。


 その『引き金』は、あの日、チナツからもらった、お守り。


 顔も知らない女子が、チナツのために持ってきたというお守り。いつの間にか、カ

バンから消えていたお守り。


 「ふんっ」


 攻撃側でベンチに座っていた相手チームの茶坂先輩が、こちらのミスに対して、目

を合わせたくもないような嫌な表情で笑う。


 あの日から、この人の目を見るのが怖かった俺は、つい目を逸らした。


 踏まれた足が、再び痛くなるような錯覚を覚える。


 守備に戻ったら、また何かをされるのだろうか、と考えると、吐きそうになってく

る。


 「行ったぞ!」


 俺の守備範囲の外で、打球が内野の壁を抜けて、追加点が入る。


 「ごめん…、俺のせいで」


 「そんなことねえって! ほら、打って返すんだろ?」


 昔を思い出す。


 今まで以上に、毎日ずっと思い出していた時のように。


 そして…。


 「のぶくん!!!!」


 遠くから、声が聞こえた。


 大きな声だった。一試合目の白木のフルスイング以上に、周囲の人間を釘付けに

し、数百人もの人がいるグラウンドが一気に静まり返った。


 「ずっと…、ずっとずっと…、頑張って来たもんね!?」


 顔が小さくしか見えない距離でも、泣いていることは声から分かった。


 「こんなところで、負けたりしないって信じてる! でもね…でも! のぶくんが

辛かったら、止めてもいいから。野球だって! 私と一緒にいることだって!」


 チナツは、心配しに来てくれた。


 このお守りを目にしたことで、記憶が戻ってしまうことを思って、息を切らして、

ここまでやって来た。


 だから俺は、嬉しかった。


 ずっとずっと、大好きだったチナツが、こんなにも、俺なんかのことを大事に思っ

てくれることが、夢みたいで、嬉しすぎてどうかなりそうだった。


 俺は、固めた拳を天高く掲げ、それを彼女に見せつけた。涙声が、彼女にバレたく

なくて、声は、出さなかった。


 「心配いらねえよ…」


 チナツ以前に、他の誰からも聞こえない声量で、俺は、自分の心境を再確認した。


 やがて、プレーが再開する。


 何かの巡りあわせだろうか。ボールは、俺の背後へと勢いよく飛んでいこうとし

た。俺の方向へ飛んでくるボールは、『この回で初めて』だった。


 さっきエラーしたクラスメートの気持ちを励ますために、俺は全力で走った。


 地面に落ちそうになる白球に飛びつき、グラブを目いっぱい伸ばす。


 安心した。


 記憶の『引き金』が、家族と同じくらい大切な人からもらった、自分の命よりも大

切なものが、あのお守りで、本当に良かった。


 俺は、俺の心は、エラーなんかしてない。


 あの日の、たかだかあんなミスで落ち込んでいた俺が、なんとも馬鹿らしい。


 そんなことよりももっと、失ったらもう二度と立ち直れないくらい尊い存在が、こ

んなにも身近にあったのに。


 「蓮井君っ!」


 「のぶくん!」


 「いっっっっっっっっっっ!!! けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」


 ここまでボールを追いかけたのは、野球部に所属していた時ですらなかったかもし

れない。


 このボールを取ったら、俺は新たな一歩を踏み出せそうな気がしたから、いつも以

上に、今まで以上に、しがみついた。


 失った充実に縋り付くように、どうか届くようにと、手を伸ばして…。


 「アウトっ!!」


 再び、会場が静寂に包まれる。


 その数秒後に、大気中を揺るがすほどの歓声が、グラブにボールを入れた俺一人に

向って飛び交った。


 「うおおおおおおおおおおお!!!!!!!」


 野球経験者として、本来ならもっと毅然としていたかったのに、そんな気持ちなど

を軽々と越えてしまうくらいの喜びが、激流のように湧き上がり、雄たけびを外に漏

らさずにはいられなかった。


 仰いだ快晴に、一筋の飛行機雲が見えた。





 クラスマッチがあった日の夕方。


 「オーラーイ」


 蓮井君は草野球チームで、野球をしていた。


 日中、あれだけ暴れていたのに、よく疲れないな。僕なんか、おもりが乗っている

かのような疲労感を感じてまともに動けないのに。


 「よっ」


 しばらくすると、急に現れたチナツから肩を叩かれた。


 「お疲れ様」


 「ああ、お互いにね。チナツもアホみたいな声で応援してたのが、蓮井君には力に

なって届いたと思うよ?」


 「もうっ!」


 僕の頭を軽く叩き、本当に照れくさそうにする彼女は、いい加減なところがあるけ

ど、繊細な心を持つ乙女なんだなと、感心する。


 そうこうしているうちに、練習が終わり、僕たちに気付いた彼が駆け寄ってくる。


 今日の叫びで、おどおどと慌てる彼女は、それでも平常心を努め、彼に微笑む。


 「お疲れ様。のぶくん」


 「ああ…、ありがとな…。チナツのおかげで、大事なもん思い出せた」


 「そんな…、頑張ったのは、圭坊と、のぶくんだよ」


 何もできなかった自分を悔いるように、下を向く彼女。


 その彼女の震える手を、蓮井君は両手で包み込むように掴んだ。


 「そんなことない。もちろん、白木の『チカラ』と、ホームランがありきなところ

はあるけどさ、…ええと、何というか。…チナツがいたから、これまでずっと頑張れ

たし、野球部やめても、ここで頑張れたし…」


 彼は、息継ぎして、真っすぐ彼女を見据えたまま、言った。


 「チナツの想いは、今日一日だけじゃなくて、ずっと前から、出会った日から、俺

の力になってる」


 「のぶくん…」


 彼は、優しく笑った。


 「こんな俺だけどさ、これからも、よろしくな!」


 恥ずかしそうに、はにかむ彼に同調するように、涙ぐんだチナツも、顔をくしゃく

しゃにしながら笑った。


 「ありがとう…、のぶくん…!」


 縋るように、蓮井君の手に額を乗せて、肩を震わせるチナツ。


 「あっ、僕、今日は苦手科目の数学のプリントがあったんだった。さっそくかえっ

て取り掛からないと…」


 「白木っ!」


 空気を読もうとして、この場を抜け出そうとする僕を、野球少年が呼び掛けて止め

た。


 「お前に助けられた。ありがとな」


 「…っ!? …うん…」


 「また明日な」


 ありがとう。


 また明日。


 その言葉に、僕もまた、泣いてしまいそうだった。


 人殺しになってから、ずっと聞いていなかったその言葉は、僕の心の中の芯に、優

しく、暖かく浸透していった。

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