第19話 山場

 彼の記憶を、僕は消した。


 「本当に、消えたのか? これ」


 「うん」


 「実感ねえな」と、あまりの変化の無さに逆に違和感を感じる蓮井君に、僕は問う

た。


 「じゃあさ、去年の秋の新人戦。初戦は勝ったっけ?」


 「うーん。勝ったんじゃね? てか俺、なんで野球部やめたんだっけか?」


 『チカラ』が正常に作用していることを確認する。一日分の記憶はいつも通り、当

たり前に消えてくれている。


 肝心なのは、ここからだ。


 僕は、グローブを見せた。彼が野球部で使っていた、あの日にエラーをした時に付

けていたグローブ。


 野球というそのものが、彼が最も大切だとするものだったら、ここで失敗に終わ

る。ホームランの約束の前に、実践しておけばよかった。自分の詰めの甘さに、ほと

ほと呆れる。


 「なに? それ俺のだろ? 借りたいの? …つーか、俺、約束通りサッカーじゃ

なくて野球に参加するんだから…。てか、なんで俺、サッカーなんて希望してたっ

け?」


 「いや、僕はよくわかんないけど…、練習しすぎて、野球に飽きてきたんじゃな

い?」


 僕は慌てて話を逸らす。


 「そうだっけか…。そうなのか…。確かに、そんな気もする」


 それからさらにボールやバット、グラウンドで他のチームの試合を見せるが、彼に

変化なし。


 「はあー」


 思わず大きく息をついた。


 安堵する。


 全ての山場を越えた。


 ホームランを打つことも至難の業だったけれど、それ以上に、『チカラ』を使って

も、彼が一番大切なもの、もしくは人を目の当たりにして『あの日』を思い出してし

まうことが何よりも不安だった。


 ホームランは、運だけではなく僕の努力も必要だったのに対し、『チカラ』の方

は、どうしても蓮井君本人の問題だったので、完全に運試しだった。


 ひとまず、野球という漠然とした分野が『引き金』ではなくて助かった。


 しかし、まだ一山超えただけで、完全に事故を防げたわけではない。彼の記憶を取

り戻す『引き金』に、悪いタイミングで出くわさないようにしたいのだが、おそらく

彼らの内の二人が…。


 彼の人生大きく変えてしまった、同じ野球部員の茶坂と、そして…。


 「あっ、そろそろ二組の試合じゃない? 急がないと!」


 僕は、彼を試合へと行かせる。


 「ああ、そうだな。お前のホームランよりも、すごいの打ってやるよ。てか、なん

で俺、お前にホームランなんて打たせようとしてたっけ? そんでもって、記憶

を…」


 「細かいことは良いんだよ! ほら、男の子なんだから、目の前の相手に集中集中

っ!」


 生まれて初めて、体育会系の生徒の背中を強く叩き、前方に押し出した。


 そして、待ちに待った試合。


スマートフォンで見るのはもったいないくらいに、蓮井君の動きは、まるで別人だっ

た。


素人から見ても余裕で外野を抜けるような辺りを、軽々と捕球するほどの反応と脚の

速さ、判断力。打ってはホームラン2本に、ヒットが一本。


目を奪われた。


僕があれだけ奮闘して得た結果を、彼はいとも容易く、軽々と越えてしまった。


 運動神経や野球のセンス以上に、日常の努力と、あの日の失敗に立ち向かってきた

根性によるものだと、彼のことを、まだほとんど知らない僕でも、感じることが出来

た。


 自分の学校の同級生に対して、こんな人間になりたい、と心が落ち着かなくなるく

らい憧れてしまうのは、初めてだった。


 チナツは、彼の、必死に努力して、きちんと結果を出すところが、好きだったのだ

ろう。


 そんな彼女に、『チカラ』の効力を無くす『引き金』の可能性があるからと、彼の

試合を観せることが出来ないのが、なんだか申し訳ない気持ちになる。


 しかし、彼が、あの日のエラーを克服し、野球部に戻ってくるのが、チナツの願い

であったため、僕の『チカラ』については何も文句を言わなかった。


 このまま、何も起きないまま、蓮井君が勝ち続けてほしい。


 野球で出場しているくせに、僕は相手チームである彼のクラスの優勝を祈った。

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