第2話 少女

 「えー、次の問題を、白木」


 英語教師に名前を呼ばれて、僕は席を立ち、例題に書かれた三人称単数現在形の動

詞を、『昨日』という時系列に合わせるために、過去形へと変形させる。


 「正解だ」


 教師のどこか喜ばしい声音を聞き流しながら、僕は、ゆっくりと席に着く。


 英語は、まあまあ好きだった。国語と同じで文章の中にちゃんと意味があって、そ

れでも国語とは違って、最初は意味が分からないものを、ちゃんと思考して、その意

味を、話者の意図を紐解くような瞬間に、靄が晴れたような清々しさを覚える。ま

あ、それは学校にいる間の話だけで、家に帰れば、パソコンでアニメを見たり、漫画

を読んでいる方がよっぽど愉快なのは変わりはないのだが。


 この退屈な空間と時間の中では、まあマシだというだけで。


 一度回答したことで教師の注意から外れた僕は、ふと机の引き出しを覗く。


 『世界で最も望まれない恋』。


 昨日、翔が鼻で笑った本。


 もとい、僕が数ある本の中から、特に何の思い入れもなく、なんとなく選んだ本。

もとい、万引きした本。


 僕は、その本を、大事に持っている。


 興味がある、という訳ではなく、汚したり破れたりしないように、大事に扱わない

といけない。


 読むのなんて言語道断。


 だって…。


 「白木。おい、白木」


 「はい!」


 「なにボーっとしてるんだ? お前はテストの成績は良いけど、ケアレスミスが目

立って詰まらない減点が多いからな。ちゃんと目の前のスペルを目に焼き付けとけ

よ?」


 「はい、すいません…」


 思いにふけったせいで、教師に気付かれ、咎められた。






 今日は、翔はいない。


 二週間に一回だけの万引き。翔にはそう約束している。


 さすがに今までにバレたことは無くても、頻繁に行っていれば、特定されかねな

い。大事なのは、時間差だ、と適当に言いくるめている。こんな僕でも、物を盗ると

きは良心というものがあって、胸が苦しくなるから。


 それに、彼には『チカラ』があると言うことを、僕は打ち明けていない。


 『チカラ』があるなんて彼に言ったところで、そんな奇天烈なことをまず信じるわ

けがないし、過去の経験や出来事からそれを結びつけることで信憑性を確かめるわけ

でもないけど、もし、彼が知ってしまったら。怖かった。


 また、あの時みたいに、大事な友達を傷つけてしまうことが、たまらなく怖かった

のだ。


 そして、木造建築の、今にも朽ちてしまいそうな外装の本屋へとたどり着く。


 手すりまで木造の、本当に築何年なんだと感心すら覚えるような年季が入った扉を

開けて、例の本棚の方へと歩いていく。


 カバンから、例の本、『世界で最も望まない恋』を取り出し、右手に持った。


 戻すのだ。


 この間、万引きしてしまった本を、この手で戻す。


 汚してないし、傷つけてもない、ましてや、読んでもない。何もなかったように、

戻してあげれば、罪だってない。犯罪者から、普通の人間に戻れる。


 すると、どこか見覚えのある人物が、僕を見た。


 その少女は、注視するように、目の前の僕を見据えるように眺めて、はっと何かに

目覚めたように、次は僕の手元にある本を凝視した。


 「っ!」


 何か言いたそうな少女は、しかし僕から目を逸らし、別の本棚の方へと歩き出そう

とした。


 「あの」


 声が、勝手に出てきた。


 もしこの本が目当てなら、僕が本棚に戻した後にでも、再び本棚から引き抜けばい

い。そう思い、そのまま昨日抜き取った場所へと本を入れようとしたのに。


 まるで、何かを逃してしまうような恐怖を感じて、声が勝手に出てきた。


 「は、はい…」


 少し明るい髪色の彼女が振り返った。耳は隠れているが肩までは届かない長さの髪

に、白い肌と、童顔。か弱い、という言葉が簡単に似合ってしまいそうな小柄な女の

子。


 驚かせてしまっただろうか。


 本を戻そうとした過程を目撃されているのだから、僕が戻して店を出れば、彼女は

それで本を手に入れることが出来ただろうに。


 なのに僕は、彼女に声をかけた。


 ちゃんと声をかけてあげるのが親切だと、きっとそう思ったはずで、他意はない。

他意なんか…。


 「えっと、これ…」


 「はい…」


 少し身構えて言葉の続きを待つ彼女。


 昨日目撃した万引き少年を前に、逃げ出さないことが唯一の救いだったが、声をか

けてしまったことにはやはり後悔するほどに、身体が震えて、心臓が大きく、早く、

脈打った。


 「この本は、まだ、読んでなくて…、その…」


 「返しに来た、んですよね?」


 堂々と区切りよく喋れない僕の言葉を遮る。彼女もまた、少し困ったような様子だ

ったが、それでも僕を、こんな僕を思いやるような声で、言葉を繋いだ。


 「その小説、返しに来たんですよね? いつも、そうしているから」


 彼女は、覚えていた。


 僕以上にこの店に通う彼女は、僕のことを、覚えていた。


 何度となく『チカラ』を使っても、しかし彼女は、僕のことを覚えていた。僕がこ

の店に通っていることを思い出していた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る