第49話 美しい名前

 ______9年前


 俺には家族が居た。


 妻は近所でも有名な美人だった。

 俺よりも二つ上で名前は佳世子と言った。


 当時でもすでに30歳を超えていた妻だったが、よく町ではナンパをされていた。

 佳世子の事を学生だろうと声を掛けて来ていたのだ。俺を見ると舌打ちをして帰っていった。

 性格もよく、俺には勿体ないと誰もが口を揃えて言った。俺もそう思った。

 逆向きに脱ぎ散らかした洗濯物を黙って洗濯機に入れ、使い終わった食器を黙って下げ、お茶を出してくれる。そんなできた妻だった。


 佳世子は22歳の時に娘を生んだ。

 俺はまだ20歳だった。幸せの絶頂ってやつだ。



 当時の俺はというと、高卒で入った会社での仕事に慣れてきた頃だった。

 毎晩帰るのが楽しみだった。

 美しい妻とかわいい娘が俺の全てだったんだ。



 娘が三歳になってからは、妻もパートタイムで働くようになった。

 娘は幼稚園に通うようになり、我が家は一層騒がしくなった。

 それから俺も家事を覚えた。

 二人の為にしてやれることが嬉しく感じられようになっていた。



 娘も妻の美貌を受け継いでいた。

 成長するにつれ、その美しさは増していき、近所での評判は芸能事務所にまで届いた。

 突然スカウトマンが訪ねて来ることも珍しくなかった。

 テレビの取材で取り上げられることもあった。地方局のバラエティー番組だ。


 俺はいい気になっていた。

 それが招く危険性なんか、考えたことが無かったんだ。



 週末は近くの公園に出掛けた。


 やはり娘はモテた。

 同級生ぐらいの男子が、娘を気にかけながらボール遊びをしている。

 それならばまだ良いのだが、中学生や高校生ぐらいの男子も、娘を見ると美少女だの将来が有望だのと話しているのが耳に入ってくる。

 世の中には幼児性愛者もいると聞く。

 だが、そんなことはまるで都市伝説かの様に思っていた。




 娘が8歳の時、事件が起きた。


 下校途中の娘が何者かに攫われたのだ。


 ある夕方、妻から電話がかかってきた。

「あの子が居ないの!!」

 慌てふためく佳世子。その様子は尋常じゃない。


 俺は急いで家に帰った。道中、まるで生きた心地がしなかった。

 妻もそうだっただろう。

 一晩中、警察と探し回った。


 かねてから、近所に不審者が出たという情報があったにはあった。だがどこか他所事の様にしか思っていなかった。

 俺は自身の認識の甘さを恥じた。そしてあろうことか佳世子にあたり散らした。

 佳世子も取り乱し、普段では決して言うことの無い汚い言葉を吐いたりした。

 交番の警察官だけが冷静だった。俺たちを勇気づけてくれていたのだが、それすらも腹が立った。


 俺は無力だった。さんざん騒ぎ立て周囲に当たり散らすだけの情けない男だった。

 今でも思い出すだけで吐き気を催す。


 娘は無事に保護された。

 奇跡だと思った。

 どこか最悪を想定していた俺は、胸をなでおろすどころか、虚脱感と自己喪失感に襲われた。

 結局のところ俺には何もできなかったのだ。


 泣きべそをかきつつも無傷の娘を見た途端、力強く抱きしめた。

 そして妻と三人大泣きをした。



 その晩、俺たちは三人で一緒の布団で寝た。

 娘がそうしたがったからだ。



 この事件は犯人の死と共に終結した。

 犯人の死は他殺だった。それもように無くなっていたのだ。

 謎は深まるばかりだったが、現場になったあのアパートには犯人と娘しかいなかったのだ。

 容疑者を上げるとすれば、娘になるのだろう。しかし8歳の少女が大人の血液をすべて丸々と抜き取るだなんて不可能だ。

 もしそれができたとしたら吸血鬼の仕業か、呪いの魔術か、そんな非現実な推測は誰もが頭から捨て去った。

 そして捜査は打ち切られたのだった。



 俺たちは元の幸せな家族に戻った・・・・・・

 いや、そうはいかなかった。



 この事件をきっかけに佳世子は変わってしまった。


 佳世子は俺のことを嫌うようになった。

 それはきっと事件の最中、取り乱した俺の言葉や行動に不信感を抱いたからだろう。

 それは俺の責任だ。

 俺は挽回しようと、より一層家族の為に働いた。

 今思えばそれがダメだったんだろう。

 俺が仕事に出ている間、妻は何かに関する不安を高め続けた。

 全身の血を抜かれた死体の謎も、得体の知れない恐怖として弱った佳世子に付きまとうこととなった。

 美しく聡明な妻の姿はだんだんと失われていくのだった。


 元々は他人同士。一度綻びた夫婦の溝は、とうとう埋まることはなかった。

 俺たちは夫婦関係を解消した。


 それから佳世子は娘と二人で暮らした。


 俺は耐えられなくなった。

 有ろうことか、二人から離れるために他県に移った。

 同年代の男が一度は誰もが思うように、何もかも捨ててしまいたかったんだ。



 それから9年間二人には一切会っていない。




 ______ところが。


 運命とは無情なものだ。


 今、目の前に立っているのは紛れもなく生き別れた娘の姿であった。

 顔を見ればすぐにわかる。

 お母さんそっくりに美しく成長している。



 だが、再開の場所がここオルテジアンとは。

 何がどうなっているんだ?

 連れて来られたのは俺だけじゃなかったのか?


 娘はじっと俺を見つめていた。

 そのアーモンド形の美しい瞳は一体何を考え、何を思っているのだろうか。


 俺は17歳の少女に、生き別れた娘に、話しかけるのが怖くなっていた。


 けれど、娘が俺に言った言葉を俺は聞き逃さなかった。


『お父さん』


 確かに娘はそう言った。9年間も放っておいた男に対してそう言ったのだ。

 俺はこの9年間も、目の前の美しい彼女の父親だったのか・・・・・・。

 自分の人生もろくにこなすことができなかった自分が、一人の少女の父親であり続けることができたのだろうか。

 いや、それは驕りだ。

 俺に父親を名乗る資格はない。

 家族を繋ぎとめることができず、逃げるように消えた男がこの俺だ。




 もう一生、俺は娘の人生に関わってはいけないのだ。


 そうだ、人違いのふりをすればいいんだ。

 こんなところで生き別れた父親に会う事なんてあるわけがないのだ。

 ここは日本じゃないんだ。

 そして、俺の体の半分は魔族のものだ。

 俺は復讐の魔王なのだ。

 そんな血塗られた運命に関わらせられるわけないだろ?



 終わりだ。



 俺は踵を返す。

 そして一歩踏み込んだ。


 その時、背中に衝撃が走る。

 続いて新芽のような爽やかな香りが俺の背中を包んだ。

 耳元で、せがむように甘えた声で

「お父さん!! お父さんだよね? 会いたかったよーーーー!」


 17歳になった彼女は、大好きなお父さんの背中に抱き付いた。

 場所もはばからずに泣き出す彼女。


 俺は、9年間の距離をハグで一気に詰めてきた彼女に感謝した。

 そして、こらえきれずに涙を流した。

 そのあと俺は、涙を拭い彼女に向き直る。


 そして、世界一美しい彼女の名を呼んだ。



「大きくなったな。帆乃佳ホノカ!」

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