美しき三年生

「先ほどは不快な思いをさせたわね」


 その日の放課後、わたしの前にアマリエ先輩が姿を見せた。

 ちょうど下校をしようと、第一校舎から出たところだった。


「い、いえ」


 美しい生徒副会長の登場に、早くもわたしの心臓が止まりそうだ。

 わたしはハッとして周囲を窺った。


「いまはわたくし一人よ」


 わたしの挙動不審っぷりがおかしかったのか、アマリエ様がほんの少しだけ口角をもちあげた。ああ、なんて子供っぽいのだろう。呆れられてしまったかもしれない。


「あの子たちにもきちんと言ったわ。わたくしのことで今後また不快な思いをすることがあれば、遠慮なくわたくしに言って頂戴」


 公平で静かな声。

 二つの学年が違うというだけで、どうしてこんなにも大人っぽいのだろう。


 はちみつ色の美しい髪の毛やすぺすべの白い肌。形の良い唇はふるふると潤っている。

 彼女のような人がリオルク様の隣に立つには相応しいのだと思わずにはいられない。


「いえ。もともとはわたしのような小娘がリオルク様の婚約者であることがおこがましいので、先輩方が納得されないのも無理はありません」


 わたしはつい自分を下げる言い方をしてしまう。

 圧倒的な気品と美を前に、心が委縮をしてしまう。


 お互いに利害関係の一致というだけの婚約だから、余計に悪いことをしているような気になってしまうのかもしれない。


 ああでも、利害の一致というにはわたしの平穏な学園生活は脅かされすぎているような気もする。お金目当ての野心家からは追い回されずに済むかもしれないけれど、学園生活では今日のような意地悪に晒されるかもしれないのだ。


 そのことを思うと、やっぱりこの婚約は早まってしまったのかもしれない。


「婚約は双方の家が互いに納得をして決める契約事項よ。フロイデン家とバルツァー家が合意をしたというのなら、それを第三者がおかしいと糾弾することのほうが間違っている。そうではなくって?」


 アマリエ様は正論をおっしゃった。


 たしかにそれはその通りだ。今日わたしに意地悪を仕掛けた先輩は、わたしたちの家とは何の繋がりもない。この婚約に異議を唱えたいのなら、それだけの根拠を携えて両家の当主に直談判をすればいいのだ。


 薄緑色の瞳に射抜かれたわたしは固まったままだ。

 目を逸らすこともできない。彼女はわたしの返事を、意見を待っている。それを感じるくらいにはわたしだって、空気は読めると自負している。


 けれど、だからといって彼女を前に自分の言葉が出てくるかといえば、それは別問題であって。


 沈黙が居心地悪く感じる。

 わたしは舌ですこしだけ唇を湿らしつつ、視線を斜め下に逸らした。


「……それでも……わたしはリオルク様に相応しくは無いのでしょう……」


 こんな風に自分を卑下することしかできないのだ。

 目の前に佇むのは優雅さと気品さを備えた美しくも完ぺきなご令嬢。ご実家は公爵家で、学園でも成績優秀で生徒会副会長を拝命しているのだ。


 わたしはつい想像してしまう。

 彼女とリオルク様が社交界で並んで歩いているところを。きっと、とても絵になるに違いない。お互いに公爵家出身で身分だって申し分ない。


 わたしは所詮は繋ぎの仮婚約者に違いないのだ。

 互いに学生生活に集中できるように選ばれたに過ぎない。その割には今こうしてずいぶんと身辺が騒がしいけれど。


「……そう」


 わたしの返事に、アマリエ様はいささかそっけなく答えた。


「わたくし、生徒会の仕事があるから行くわね。先ほどのこと、覚えていて頂戴ね」


 事務的に告げると、アマリエ様はくるりと踵を返した。

 革靴なのに、踵の高い靴を履いているような、コツコツという音が聞こえてくるかのような美しい歩き方だった。


 わたしは彼女を見送りながらしばしその場に佇んだ。


* * *


 アマリエ様の宣言通り、わたしの生活は今のところ平穏だ。

 寮内でも不躾な視線を感じることもなく、普通に生活が出来ている。

 とはいえ、気苦労も多いのだが。


「はぁ……」

「大きなため息」

「ごめん」

「ううん。大変だろうなっていうのは何となく察しているから」


 図書館の書架で、わたしはレポートの参考書を探しながらも上の空だった。

 そして出てしまったため息にデイジーが反応をしたのだ。


 貴族の子息子女のための学園とはいえ、ぬるい空気はあまりないのが王立ルスト学園というところだ。男子生徒と女子生徒では選択授業に差はあるといえ、授業内容はそれなりに高度で課題も容赦なく出される。


 もちろん成績が芳しく無ければ落第である。


「デイジーもレポート用の参考書探し?」

「ええ。文学作品研究論の」


 読書好きなデイジーにぴったりな授業だ。選択科目の授業数は多く、その分少人数による内容の濃い授業になる。わたしも経済学の授業を取ってみたかったけれど、男子生徒ばかりの授業を取る勇気はなく、無難な授業を選んだ。


「デイジーみたいに、レポートも得意だと日記だってすらすら書けるんだろうなあ」


 わたしはため息交じりにこぼした。

 目下の悩みの種は交換日記である。ネタ探しが地味に大変なのだ。


「確かにテーマが決められていたら書けるかも、だけど」

 デイジーはこっくりと首を傾けた。

「テーマか。それが無いんだよね」

 だから難しいというのもある。


「リオルク様はどんなことを書いてくるの?」

 純粋な問いかけに、わたしは頭を持ち上げた。


「うーん……。わたしのことばかり?」

「フレアの?」

「うん」


 自分で言っておいて顔に熱が籠る。


 数回交換した帳面にはリオルク様らしい美しい字が書き連ねてあった。書いてあることはだいたいがわたしのことで、教室の窓からディティが見えたとか、寒そうに両手を口元に持ってきて息を吐いている姿を見て、今すぐにきみを温めたくなったとか、冗談だか本気だか分からないことが書かれてある。


「わたしは何を書いていいのかちっとも分からないのに」

「じゃあ毎回テーマを決めたら?」


「テーマ?」

「そう。例えば、今日のテーマは図書館」

「図書館?」


 わたしはむむっと眉を寄せた。難解すぎる。

 でも、デイジーは特に何の感情も乗せないままわたしのほうをちらりと見て再び口を開く。


「図書館のどこか好きか。どのジャンルの本が好きか。この席がお気に入りだとか。そういうこと。図書館を切り口にしても、書き方は色々あると思うよ」

「なるほど」


 さすがは読書少女。わたしは目からうろこだった。


「次のテーマもデイジーが決めてくれる?」

「いいけど……。たぶん、この日記の大切なことは、お互いのことを知ることだと思うから、フレアの感じたことを率直に書いた方がいいと思うわ」


「さっきは助言してくれたのに今度は手厳しい」

「愛のムチってやつね」


 デイジーがくすりと微笑んだ。


「もう何年もリオルク様と会話をしていなかったんでしょ?」

「うん。小さいころに喧嘩をしちゃってそれきり」


 わたしたちが幼なじみであることを明かしたのは、婚約が知られてしまったあとのこと。そのときに、まだ年端もいかない頃に喧嘩をして絶交宣言をしてしまったことも伝えてある。


 一度気まずくなって、すれ違って、会話することもなくなって。

 それなのに急に婚約者になったリオルク様。


 彼は過去のことは気にしなくていいと言ってくれたけれど、わたしはまだどこか彼に対して負い目を感じていた。


 絶交宣言の理由を思い出せていないのも理由の一つなのかもしれない。


「じゃあ、空白期間を埋めるために、子供時代の思い出を書いてみるのも手なんじゃない?」

「そっか。それもいいかも」


 デイジーに打ち明けてよかった。なにを書いてもいいと言われて迷子になっていたけれど、方向性が示されれば、踏み出す一歩も迷いが無くなる。


「さすがはデイジーだね。デイジーは本をよく読むけど、自分で書いてみたりはしないの? この間もレポートの出来、褒められていたじゃない」


 純粋に尋ねると、今度はデイジーが俯いた。

 なにか、悪いことを聞いてしまったのだろうか。


「何かを書くのも好きだけれど……。まだ分からないの。それに、わたしが書かなくても世の中には面白い作品がたくさんあるし」

「でも、デイジーだって書けるかもしれないわ。わたしには無いものをたくさん持っているし、知識だって豊富だし」


「褒めても何も出ないんだから」


 デイジーがますます顔を俯けた。

 こんなにも照れている彼女は入学以来初めてかもしれない。どこか泰然と構えていて、同級生なのにそれ以上に落ち着いて見える彼女も、こういう顔を見せることがあるんだ。そのことに胸の中がほわほわしてしまう。


「デイジー可愛い」

「あんまり言うと、日記のテーマ決めてあげない」

「あ、それは困る。もう言いません」


 と、そこで互いに見つめ合って、ぷっと噴き出す。

 静寂な図書館で、くすくすと小さく笑い合う。


「そこ。うるさいぞ」

 背後から少年特有の幼さを残した声が聞こえた。


「すみません」


 注意をされてしまったわたしたちは慌てて口をぴたりと閉ざした。

 まだ幼さの残る少年に頭を下げて、そそくさと書架を移動した。

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