野鯉 二

 それから五日後のことである。件の友人Aから、またしてもメッセージが来た。


「やばい」


 何がやばいのか、私はすぐに勘づいた。Aが野鯉と主張している、あの得体の知れないものに違いない――


「何がやばいの?」

「野鯉」

「野鯉?」

「あいつに全部やられた。池のコイみんな死んじまった」


 どうやら、野鯉を入れた(と本人が主張している)池で混泳させていたニシキゴイが、全部殺されてしまったらしい。

 コイの仲間には、気性の荒い種類が多いという。が、ヤマトゴイやノゴイなどのいわゆるコイたちはとてもおとなしく、混泳させていてもほぼ喧嘩しない、と聞いたことがある。


「で、その野鯉はどうしたの」

「本当はダメだけど、逃がした」


 本来、外来種であろうと在来種であろうと、人の手元に置いた生物を再び野外に放つことは固く戒められている。たとえ元いた場所にそのまま返すとしても、だ。人の手元に置くことで付いた細菌類などを自然環境に放って蔓延させてしまう危険があるからだ。

 Aはその辺の意識はしっかりしている男であり、自分の手元に置いた魚を野外に放つことはないと思っていた。


「殺そうと思ったけど無理だった。だからもう逃がすしかなかった」


 スマホのメッセージアプリでやり取りしているだけなので、Aの顔を見ることはできない。けれども面と向かって話していたならば、Aは相当怯えた表情をしていただろう。Aの怯えが、文字からでも伝わってくるようであった。


***


 それから二週間ほど経った後のことであった。

 夕暮れ時、私は自転車を漕いで買い物に行っていた。自宅からスーパーへと向かう途中の道には大きな池がある。昔はよくそこでザリガニを捕まえたりなどしたものだ。

 その池のほとりで、バシャバシャと音が立っている。何か大きなものが、水の中で暴れているような音だ。興味をひかれた私は、自転車を停めて池の近くへ寄ってみた。


 音の正体を見た私は、びっくりしてしまった。池の岸に半身を乗り出した大きなアリゲーターガーが、のたうち回って暴れていたのだ。恐らく成人男性の身長ほどの大きさはある。こんな池でよくぞ、と思える立派な個体だ。

 そんな巨体の外来淡水魚が、何かに襲われて抵抗しているかのように暴れている。こんな大きな魚を食べる動物など、池の中にいるはずもないのに。

 アリゲーターガーの巨体はずるずると池の中に引きずり込まれていき、やがてその体は完全に水中に没してしまった。最初は水面に波紋が波打っていたが、それもしばらくすると無くなってしまった。


 私は驚きとともに、身を震わせるような恐怖を感じた。一体何がアリゲーターガーなどを襲ったのだろうか……考えれば考えるほど不思議、というより不気味極まりない。


 その時、アリゲーターガーの沈んだ水面が、再び波打った。そしてそこに、だけが見えた。


 ――あのだ。


 Aの水槽の中にあった、あの丸い目だけが、水面から外を覗いていた。


 私は叫びそうになるのを必死にこらえて、自転車に跨りその場を素早く立ち去った。


***


 それ以来、私は池や川など、水のある場所が苦手になってしまった。買い物の際には、例の池の前を通らないように迂回してスーパーへ向かうようになった。魚が住むような水場を見ると、またあのを見てしまいそうだから……


 Aはのことを「野鯉」と呼んでいた。だが、私はあれを「野鯉」と見ることはできなかった。Aは一体、何を釣ったのだろうか。そして、あのの正体は何なのだろうか……

 

 それ以降、私はあのを見ていない。

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