【エピローグ】
【エピローグ】
小夜と要は、ファミリーレストランの一席で向かい合っている。
「……まさか車のエンジンがかからないとは……」
と、小夜はうなだれる。
「仕方ないよ。一週間もそのままだったんだもん」
テーブルを挟み、小夜の前にいる要が言う。
一週間も駐車場に停めたままだった小夜の車はバッテリーが上がり、その他にも内部の部品の
「ちょうど近くにいるからりんちゃんが直しに行くって言ってたけど、車が直るまで、小夜ちゃん、家に帰れないんじゃない?」
「そうですね……。どこかで時間を潰すにしてもお金もないし、携帯の充電も切れてるし……」
「いつもより三倍の時間がかかってもいいなら、僕が東條さんの車を借りて家まで送ってあげるよ」
「絶対嫌です。私、まだ死にたくありません」
小夜がきっぱりと言う。要は苦笑した。
「じゃ、りんちゃんが来るまで僕の部屋で待っておく? 携帯、充電してていいよ」
「嫌ですよ。なんか要君の部屋、
「……臭くはない、と思うよ。ちゃんと一週間に一回は掃除してるし……」
要は苦笑しながら頬を掻いた。
店員が二人の元へ注文を取りに来る。小夜はハンバーグプレートを注文し、要はソーセージピザを頼んだ。店員は軽く頭を下げると、厨房のほうへ戻って行った。
今日は平日とあってか、
と、小夜が騒がしい周りを見ながら要に尋ねた。
「そういえば要君。こんな、人が多い所に来て大丈夫だったんですか?」
「うん。調整してるから大丈夫だよ。黙っているよりしゃべってるほうが楽だから、できれば話しかけてほしいかな」
そう言って要も、周りを見回した。その姿がジジ……とほんの少しぶれているのは、「見せている姿」を調整しているからなのだろう。
「ところでその髪も、アカリ君に整えてもらったの? さっきより綺麗になってるよね」
要が聞いてきた。小夜は、短くなった自分の髪を触りながら答える。
「そうですね。さっぱりしました。アカリ君、口は悪いですがいい子ですね」
「そうだね。それなりのことはやってくれるよ」
と、要も頷く。
「顔の怪我と手の怪我でしょ? それで、その髪。いくら請求されたの?」
と言って要が、オレンジジュースの入ったコップを口に運ぶ。
「サービスにしてやると言われました」
その言葉に、要が飲んでいたジュースを吹き出しかけた。
「ほ、本当に?」
要が目を丸くして聞き返す。
「治してもらったのに、お金請求されなかったの?」
「はい」
「一円も?」
「はい」
小夜が頷き、要が目をぱちくりさせる。
「……めずらしいよ。アカリ君がお金もなしに人を治すのなんて。よっぽど気に入られたんだね」
「そうなんですかね……」
小夜はため息のように答える。あの口の悪い少年に気に入られても、今のところあまり嬉しくはない。
と、要が唐突に言った。
「……ごめんね、小夜ちゃん」
要が突然謝罪の言葉を口にしたことに、急に何を言いだすのかと、小夜は思い切り眉をしかめた。
「なんですか急に。何のことを謝っているんですか?」
「今回のこと、とか」
「今回の?」
「うん……。咲子さんの所でのこと、とかさ」
要が黒い目を泳がせながら言う。二人の会話は、店の喧騒に紛れて他の客には聞こえていない。
「怒鳴ったり、銃を向けたりして……ごめんね」
と言って要はまた謝った。珍しい光景もあるものだと小夜は思う。この男、そういう心は持ち合わせていたらしい。
「あれは仕方のないことだったと理解していますから。要君こそ、撃ってくれなくてありがとうございました。あやうくあなたに殺されるところでしたよ」
「そうだね。僕もあやうく、小夜ちゃんを殺しちゃうところだった」
二人は冗談を言い、要が笑う。しかしその冗談が実際の光景として現実になったことを、当然二人は知らない。
と、店員が注文した料理を運んできた。
「お待たせいたしました。スペシャルハンバーグプレートのお客様」
「あ、こっちにお願いします」
小夜が手を上げ、店員はハンバーグの乗ったプレートを小夜の前に置く。
「鉄板たいへんお
店員が型通りの説明をし、小夜はいそいそとフォークとナイフを準備する。
「こちらはライスでございます。おかわり自由ですので、お気軽にお申し付けください。こちらはソーセージピザでございます」
店員がピザの乗った皿を要の前に置く。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
店員は伝票を挟んでいるバインダーをテーブルの端に置くと頭を下げ、厨房へと戻って行った。
小夜は食べる前に、口の横に手を当てて、向かいにいる要に顔を近づける。
「……もう一度確認しますけど、本当にここ、要君の支払いですよね? 食べ終わってレジに行ったら『僕、ちょっとトイレ行ってくるよ』って言って逃げたりしませんよね?」
「あ、なるほど。その手があったか」
ピザをつまむ要が満面の笑みを浮かべてニコニコする。その笑顔を見て、小夜は思わず舌打ちしかける。
「ふざけないでください。私、今、本当にお金持ってないんですからね」
「アカリ君が残してくれたお金があるじゃん。百二十円……だっけ」
「あんな額でどうしろって言うんですか……」
小夜は近づけていた顔を離す。どうやらいつの間にかまた、頭の中を覗かれていたらしい。
ひとまず支払いのことを
「……」
要がボタンを押し、店員を呼ぶ。
「すいません、このソーセージピザあと二つ追加で。あとこのチョコレートケーキも一つ」
「かしこまりました」
注文を取った店員が厨房に戻って行く。
「私がケーキも食べたいって、よく分かりましたね」
「……僕の対価を忘れた?」
小夜がわざとらしく言うと、要はため息交じりに言った。小夜はハンバーグのかけらを口に放り込み、空いた皿をテーブルの端に寄せる。
「あ、そうだ。これあげる」
と、要がテーブルの真ん中に分厚い茶封筒を置いた。
「なんですか、これ」
ジュースを飲んだ小夜が聞く。ピザを食べながら、さらりと要は言った。
「中に三百万入ってる。全部あげるよ」
「は?」
要が、見てみなよ、とでも言うように茶封筒に目をやる。とりあえず小夜はそれに手を伸ばし、持ち上げる。それなりの重さがある。何が入っているのかと、中をそっと覗く。
中には本当に、一万円札がぎっしりと詰まっていた。
「こ、こんなの受け取れません」
茶封筒をテーブルに戻し、要のほうへと押し返す。
「いらないの? アカリ君にお金あげちゃって、今すごく困ってるんじゃない? しばらく給料も減らされるんでしょ?」
「そ、そうですけど……」
「だから、あげる。全部使っちゃってよ」
「いやあの、もらえません。あなたのお金でしょう?」
「うん、そうだよ。僕が学生の時にバイトして稼いだお金」
「だったらなおさら受け取れません……というかあなた、バイトしてたんですか?」
小夜が、その言葉を初めて聞いたように顔をしかめる。
「うん、そうだよ。今も風見亭でバイトしてるよ。アカリ君と一緒に、制服着て『いらっしゃいませー』とか言ったり、『こちらのお席にどうぞ』とか言ってるよ。たまにキッチンで料理も作ってるかな」
小夜は、この男とあの少年がいるホールを想像してみた。まず店に入った瞬間に追い返され、奇跡的に席につくことができても、この男がにやにやしながらいちいち何か言ってくるのだろう。とても食事どころではない。
「心配しなくても仕事はちゃんとやってるよ。なんたって咲子さん
あと昔やったのは祭りの
「あなたが、読み聞かせ……? ごみ拾いのボランティア……? さっそく『嘘はつかない』という約束破ってるじゃないですか……」
小夜はさらに顔をしかめる。
「あのさ、嘘じゃないってば。僕のこと、本当にどんな人間だと思ってたの?」
「クソむかつく変な男とばかり思っていました。いや、今も思っていますけど」
「うわ、ひどいなあ……」
要は苦笑しながら、頬を掻いた。
「まあとにかく、このお金はあげるよ。好きに使って」
「ですから、受け取れませんって」
「小夜ちゃんが受け取らなくっても、小夜ちゃんの家にいる猫ちゃんはお金かかるんじゃない?」
その一言に小夜は、う、と小さく
確かに人間が極力金を使わなくとも、飼っているペットはそうはいかない。生き物と一緒に暮らす以上、餌代は当然必要になる。もしこの金を受け取らずに飼っている猫が急病になって死んでしまったら、自分は一生この瞬間を後悔するだろう。
ちなみに父は普段通っている動物病院の名前すら知らないし、猫がどんな餌を食べているのかも把握していない。父は猫の缶詰を買ってきて猫と遊ぶだけ。だからなのか、父が呼んでも飼い猫は無視してどこかへ行く。
「じゃあさ、ちょっと勝負しない?」
受け取るか悩んでいる小夜に、要が言った。
「僕らが同じ額を持って、どっちが先に全部使いきれるか。今が七月の真ん中だから、今年の十二月が終わるまでね。それまでに全額使いきれなかったら負け。負けたほうは罰ゲームってことでどうかな」
「罰ゲームって言うのは?」
一応小夜は聞いてみる。ただなんとなく聞いてみるだけだ。
「それはその時になったら考えようかな。どう? やる?」
要が茶封筒を小夜のほうへ押す。小夜はあごに手を当て、考える。
貯金が三百万円から一気に紙パックのジュース一本分しかなくなった身としては、この提案は本当にありがたい。上司から減給を言い渡されてもいるし、これを受け取ることがベストな選択だ。
しかしつい先月まであれだけ「嘘つきだ」と疑っていた相手から、あげると言われた金を「ありがとうございます。助かります」と言ってすぐに受け取るのはどうかと思う。手の
「小夜ちゃんは真面目だなあ。そんなに考えなくてもいいのに。たったそれだけの勝負だよ」
小夜の頭の中を読んだ要が言う。
「……」
そう言われたものの、小夜はそれからもしばし悩んでいた。
「……分かりました。その勝負、やらせていただきます」
そしてようやく、要の茶封筒に手を伸ばした。
「……すみません。助かります」
「なに言ってんの。勝負でしょ?」
要が笑いかけた。どうやら彼に気を使われてしまったらしい。小夜は手に取った茶封筒を、隣に置いてある仕事用の鞄の中にしまった。
「お待たせいたしました。ソーセージピザを二つと、チョコレートケーキでございます」
と、店員が追加の
「空いてるお皿お下げしますね。こちら伝票でございます。ごゆっくりどうぞ」
店員が頭を下げ、厨房に戻って行く。
「ありがとうございましたー」
レジではスーツを着た三人組が会計を済ませ、店をあとにする。
昼時を過ぎた店内は客がまばらになり、落ち着き始める。旦那の愚痴を言っていた主婦たちは、
「少し、聞いてくれますか?」
チョコレートケーキを食べる手を止め、小夜がふと言った。
「うん。聞かせてよ」
要も食べる手を止める。小夜は話し始めた。
「私はずっと、あなたをただの嘘つきだと思っていました。あなたの言葉は全部が嘘で、あなたの『死にたくない』という本心も嘘だと思っていました。何の証拠もないのに『信じられない』という気持ちだけで、あなたをただの嘘つきだと決めつけていたんです」
「うん。知ってる」
と、要が頷く。二人の会話は、周囲の音に紛れている。小夜は続ける。
「でもあなたは、咲子さんの世界で嘘など一つもついていなかった。それなのに私は、そんなあなたも疑っていたんです。自分であの世界に行ったくせに」
「……」
「あなたが言っていた通りでしたね。ずっと疑っていた人物の、都合のいい言葉だけ信じようとする。あなたが怒るのも当たり前ですよね。すみません」
「ううん。僕は気にしないよ。疑われるのは慣れてるからね」
要は軽く返すが、いつものようにふざけた空気はない。
「あなたが先月言っていたことが、やっと分かったような気がします。
だからあなたは『死にたくない』と言い続けても、矛盾した行動を取っていても、こうして生きているんですね。死にたくないから」
「うん。そうだよ。僕は本当に死にたくない。だから僕はどんな方法であっても、自分が生きるためにはそれをするよ。たとえ誰かを殺してでも、僕は死にたくない」
そう言って要は、コップに残ったオレンジジュースを一口飲む。
彼がこうして今生きている理由も、嘘をついて勝ち続ける理由も、たったそれだけなのだ。ピザをつまむ要を見て、小夜もチョコレートケーキを食べるのを再開する。
「あのまま私が馬鹿なことを言っていたら、あなたはどうしていましたか?」
チョコレートケーキを一口食べて、小夜が聞いた。ピザの一切れに手を伸ばしながら要は答える。
「そりゃ、一人で脱出してたね。
何を言っても『全員助ける』とか言ってたんだもん。さすがの僕でもイライラしたね。足でも吹っ飛ばしたら分かってくれるかなって思ったけどさ。イライラしすぎて頭が爆発するかと思ったよ」
「……それはすみませんでしたね」
小夜は憮然としながら謝る。あの世界がどういう場所か知った今でこそ分かるが、自分はものすごく馬鹿なことを言っていたのだと複雑な思いになる。
「でも、僕が全部終わらせる前に小夜ちゃんは気づいた。あの世界がどういう場所か。あの世界でどういう選択をしたらあそこから出られるのか。それに気づけたことは、素直にすごいと思う」
要が言う。意外なことを言われ、小夜は思わず黙る。
「全部分かったうえで、小夜ちゃんはあの世界から出ることを選んだ。『誰かを殺す』っていう勝負になっていない賭けにも逃げずに、あの人に勝った。本当にすごいよ。まさか僕も小夜ちゃんが、そんなことをするなんて思ってなかったから」
対価で何があったかを読んだのだろう。要は静かにそう言った。
「小夜ちゃんは、一生あそこから出られないと思ってたよ。正直に言うとね」
「私も……自分でもそう思ってましたよ」
と、小夜も答える。
彼の言う通り、自分はあのままでは一生かかってもあの世界から出られなかっただろう。何をすればいいのか分からないまま、ひたすら同じところをぐるぐると回っていたのかもしれない。
「あの世界がどういう場所か気づいて、選んだからこそ、小夜ちゃんは今、僕とこうしてここにいるんだと思う。気づけても選べないままだったら、咲子さんみたいにずっとあの世界にいたのかもしれないね」
「そうかもしれないですね……」
小夜はそう返し、自分の右手を見た。引き金を引いた時の重さが、衝撃が、まだ右手に残っている。そしてすでに死んでいるとはいえ、初めて「人間」を撃ったのだ。あの光景は、あの感覚は、この先も忘れることはないだろう。
小夜は、楽しそうな声が聞こえる他の席を見る。頭に浮かぶのは、咲子がいた『喫茶 砂時計』の風景。あの店にも、客でいっぱいになっていた頃があったのだろうか。彼女もここにいる店員と同じように、トレーを持って注文を取ったりしていたのだろうか。
「僕もね、そういう時、あったよ。昔ね」
「え?」
突然、要がそんなことを言った。他の席に顔を向けていた小夜は、要のほうを向く。
「ちょっと違うんだけど。咲子さんの世界にいた時の勝負みたいな、命の選択を迫られた時、あったよ。あの世界にいるとよく……昔のことを思い出しちゃう。
おかしいね。消えたくない記憶は嘘をついた対価で消えちゃうのに、消えてほしいことばっかり残ってる。それをね、あの世界ではよく……思い出すよ」
そう言って、コップに残ったジュースを飲み干す。
「聞いてくれる? 僕の昔の話」
それは果たして本当のことなのか。それとも作った想像の話なのか。小夜はそう考えてしまうことを、頭から消し去る。そして要に、すぐこう返す。
「はい。聞かせてください」
要は頷き、話し始める。
「昔ね、僕はいじめられてたって言ったよね」
「先月、そんなことを言っていましたね」
「うん。それである日、一匹の子猫を殺したらいじめをやめてやるって言われたんだ。白くて小さくて、手がぶつかっただけで死んじゃうぐらい弱ってる猫だった。僕をいじめてた奴らがね、その辺から拾ってきたって言ってた」
そう話す彼の表情は作っているものなのか、それとも本当に過去を思い出して悲しんでいる顔なのかは、小夜には分からない。
「それで、殺したんですか? その猫……」
要は首を横に振る。
「ナイフを思いっきり振りかぶったんだけど、猫は逃げていっちゃったんだ」
「そのあと、あなたは……?」
「面白くない展開になって、イライラしたいじめっ子たちにぼこぼこにされちゃった。裸にした僕をサッカーボールみたいに蹴っ飛ばして遊んで、ゲラゲラ笑いながらそれを動画に撮ってたよ。あの時は人間の
そう言って、要は笑った。彼が話した内容が嘘なのか本当のことなのか、やられた「本人目線」のことなのか「加害者側」の目線なのか、小夜には分からない。
「僕はね、小夜ちゃん。本当に死にたくないし、痛いことも嫌だよ。
だけどその時は……その猫の命一つで自分が助かるかもって思ったんだ。だからナイフを振りかぶったんだよ。でも、その子猫と目が合った時、『本当にいいのか?』って思っちゃったんだ。その結果猫も殺せなかったし、自分がぼろぼろになっちゃった。
だから僕は、今度こそ自分のために生きるんだって決めたんだ。死なないためなら何でもやるって決めた。そんなことを積み重ねてきたのが、今君の目の前にいる『京谷要』だよ。
たとえ対価で記憶が消えようとも死にたくない。たとえ死にかけてでも命を賭けて生き残る。そんな矛盾した人間だよ、僕は」
「……」
「だけどね、後悔ばっかりだよ。こうなる前も、こうなった後もね。でも、もう遅いんだ。今僕は、こうやってここに生きているんだから。今さら死ねないよ」
口にした言葉は、先月、あの事務所で夜喰レイジと対峙した時に彼が言った言葉だった。
「ねえ小夜ちゃん。もしも僕がここで暴れて、他の人を殺そうとしたら、どうする?」
黒い目を向けて、要が聞いてきた。小夜はすぐに答える。
「その前に殺します」
それは確かな宣言だった。小夜の声と表情には、言葉通りのことを確実に実行するという意思が乗っていた。
ふふ、と笑って、要がさらに問いかける。
「どうやって殺すの? 僕は『嘘』を操るんだよ? 銃も持ってないくせに、僕に勝てると思ってる?」
「勝つのではありません。あなたを殺します。銃がなくても、私たち捜査官には『賭け』があります」
小夜は変わらず宣言する。彼女の眼に浮かぶ意思は、一ミリたりともぶれていない。
「そっか」
と言って要は黒い目を細めた。その顔には、予想通りの言葉を聞いた時のような、満足げな笑みが浮かんでいる。
「じゃあ僕は、そんなことしないようにしなきゃね。死にたくないから」
その言葉は作っている『京谷要』としてのものなのか、それともその奥にいる人物の心の声なのか。小夜には分からない。
チョコレートケーキの最後のかけらにフォークを刺したまま、小夜はふと要に言った。
「『京谷要』は東條さんと考えた偽名だと教えてもらいました。あなたの姿や声も……作っているんですよね」
「うん。そうだよ」
そう言った要の姿が、ジジ、とぶれる。
「あなたの本当の声……聞かせてくれませんか」
そんな風に言われるとは思っていなかったのか、要は目を丸くした。少し考えるようにあごに手を当てる。その姿に、ジジジ、とノイズが走る。しばしのち、要は口を開いた。
「……“これでいい?”」
ザザ、と走ったノイズのあとに聞こえた声は、いつか聞いた彼の本当の声だった。
「本名も教えてくれますか?」
小夜はいたずらっ子のように笑いかけながら言う。要は目をぱちくりさせる。まさかそんなことも聞かれるとは思っていなかった、とでもいうような顔だ。
要はふ、と軽く笑うと、
「“――だよ。ちゃんと聞いた?”」
いたずらっぽく笑いながら言った。小夜の予想通り、ザザ、という激しいノイズで彼が何を言ったのか聞き取れなかった。
小夜はチョコレートケーキも食べ終え、空いた皿を端に寄せる。
「要君」
「“うん?”」
要が見ると、小夜は右手を差し出していた。
「“握手なんかしてもいいの? 僕、とんでもない『
「知っていますよ、それぐらい」
小夜が、差し出した手を引っ込める素振りはない。
「あなたは
死にたくないのに命を賭けて死にかける。嘘か本当か分からないことを言っては周りを惑わせる。見せている姿も嘘で、その声さえも偽っていた。そして名前も嘘。嘘だらけのそんなあなたを、それでも私は信じると決めました」
「“それも、嘘かもしれないよ”」
「それでも構いません。私はあなたを信じると決めましたから。それで騙されたとしても、あなたを信じるという選択をしたのは私ですから」
「……」
要は何も答えない。彼が何を考えているのか、小夜には分からない。
「ちょっと、握手するなら早くしてください。手が
「“そうだね。ごめんごめん”」
そう言うと要も同じように手を出し、小夜の手を握る。死体のように冷たい温度が、彼の手から流れ込んでくる。
氷よりも冷たいが、確かに体温を感じる不思議な手。今度は、そのぞっとする冷たさに小夜は驚かない。
「“なんだか小夜ちゃん、すごい変わったね。まるで別人だ。本当に何があったの? 咲子さんの所で”」
「だから、たいしたことじゃありませんってば」
小夜は同じようなことを言い返す。
「改めまして。異能力事件専門捜査室の泉小路小夜です。明日から現場に出ることになりました。よろしくお願いします」
「“僕は隔離棟206号室の京谷要だよ。他には
「よろしくお願いします。『
「“うん。よろしくね、小夜ちゃん”」
二人は改めて自己紹介し合い、あの日しなかった握手を
偽称の虚言者 ー虚ろを巡る魔女ー 萩月絵理華 @hagizuki_wanwan
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