【魔女の世界――本当の覚悟】

【魔女の世界――本当の覚悟】①

 時間は少し戻る。

 要は小夜と別れたあと、しばし苛々しながら商店街の中を歩いていた。

「……」

 要は深いため息を吐き出し、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。どうにもあの子に調子がくるわされる。

 真面目なのはまだいい。けれどあんなにも頑固がんこになられるとさすがに苛立ってくる。よく捜査官になれたもんだよね、と心の中で呟き、またため息を吐き出してぐしゃぐしゃ頭を掻いた。

 商店街の真ん中まで来たところで、ふと、こんなにも感情をおもてに出したのはいつぶりかと要は思った。

「……」

 要はその場で足を止める。その姿が、ジジジとぶれる。要は穴だらけの記憶の中から、かろうじて残った「自分」のかけらを思い返そうとする。周りの情報を入れないよう張り詰めていた意識が、自分の中に向いた瞬間。

『夏祭りだって、咲ちゃん。来月になったら行ってみようか』

『そうね、あきひとさん。去年買った浴衣がそのままだから、それを着ていきましょうよ』

『うん、そうだね。そうしよう。久しぶりのデートだね』

『ええ。そうね。楽しみね』

『楽しみだね』

 脳内に男女二人の会話が流れ込んできた。

「う……」

 要は右手で頭を押さえ、思わずよろける。

 左の斜め先……夏祭りを知らせるポスターの前に、ジジ、とノイズをまとわせた男女二人が現れていた。

 その二人の男のほうの名前。一緒にいる女性との関係。年齢や経歴。死亡日と死因。最期の記憶。最期に発したのはどんな言葉か。目を閉じる寸前まで彼は何を思っていたか。それらの情報が一気に、波のように頭の中へ押し寄せてくる。

 頭を押さえた要は、必死に『知りすぎてしまう』対価を調整する。ジジ、とノイズをまとわせている二人は、仲良く手を繋いだまま消えていった。

 だが、まだ足りない。対価を調整しようとしても追いつかないのだ。周りの情報に脳の処理能力が負けている。ズキズキとくいを打たれるような頭痛の中、遠くのほうから、大勢の人間のざわめきがだんだん鮮明になって近づいてくる。要は額に脂汗を浮かばせ、さらに強く頭を押さえる。

 要の姿がジジジ、ジジ、と激しくぶれ、足からその場に崩れ落ちる。床に左手をつき、つんいの姿勢になる。肩に引っ掛けていた散弾銃が、小さな音を立てて床と接触する。

「……はあっ! はあ、はっ……」

 要はわずかに目を見開き、肩で呼吸をする。大勢の人の声が近づいてくるのを要は感じる。彼の姿がジジジ、ジジ、ジジ、と一層激しくぶれ、ズキズキ響く頭痛と合わせて、熱を持った脳が暴れ始めるのを要は感じる。

 まるで何十台ものラジオやテレビからそれぞれ流れている違う情報を一気に聞いているような、そんな状態。脳が混乱し、情報処理能力がパンクしかけている。頭痛のせいで視界に閃光が飛び散り、吐き気もこみあげてきた。要の顔に浮いた汗が、ぼたぼたと床にこぼれる。

 要はつねに何かを考えて周りからの情報をらしている。知りたいことがある時はその対象に対価を向け、知りたくない時はできるだけ違うことを考え続けている。そうやって要は自分の対価を調整しているのだ。彼が脳と心を多少なりとも休められる時は、本名を知られている相手と話す時か、自分の意識がなくなる眠っている時だけだ。

 しかしもちろん、起きている間ずっと脳を動かして考え事をし続けるということはどんな人間であろうが難しい。疲れや集中が切れたその一瞬、対価は待っていたと言わんばかりに周りの情報の一切いっさい合切がっさいを頭に流し込んでくるのだ。

『奥さん、こっちの魚は今日の朝とれたものだよ。オマケしとくよ』

 右側にある魚屋から声が聞こえる。

『まあ。じゃあこちらも貰おうかしら。あ、これもお願いね』

 その次、違う女性の声が聞こえた。

『お母さん、あれが欲しい』

『だめよ。この前おもちゃ買ったじゃない』

 また違う声が聞こえる。

『また今度ね。いい子にしていたら、サンタさんがくれるわよ』

『えー。やだー。十二月まで待てないよー』

 母親と子供の声が、自分の右側を通り過ぎていく。

『クリーニングお願いできますか。明後日までに仕上げてほしいのですが』

『お任せください。明日の午前には受け取れるようにしておきますよ』

 また違う声が左側から聞こえる。

「うう……」

 段々と声は増え、ざわめきとなってそこら中から聞こえてくる。要は頭痛に顔をしかめながら、なんとか対価を調整しようとする。

 そんな要の視界に、じわりと滲み出てくるかのようにしてある光景が広がった。誰一人としていなかった商店街の中に、本来そこにいないはずの人間たちが姿を現した。

『お、お目が高いねえ。そっちの魚は今朝とれたんだよ。どうだい、これも』

『綺麗なお魚ですね。じゃあ、こっちもください』

『まいど! 明日は珍しいのが入るかもしれないよ。よかったら寄っててよ』

『そうなんですか。寄らせていただきますね』

『あら奥さん。今日はお子さんとお散歩なの?』

『そうなのよお。それより聞いて。うちの旦那ね、また酒飲んで帰ってきて……』

 様々な人の声と、ここを行きかう大勢の足音。要が目で見て、耳で聞いているのは、この商店街の、ある日の過去の光景だった。

『おかーさーん!』

『迷子かしら。ぼく、大丈夫?』

『僕、お巡りさん呼んでくるよ。咲ちゃんはその子と一緒にいてあげて』

『また値上がりだってねえ。何も買えなくなるわ』

『そうそう。不景気だしねえ。あらこんにちは。可愛い子ね、お孫さん?』

『そうなのよ。夏休みだからうちに泊まってるの……』

 在りし日の過去の記憶と、この商店街の最近の記憶が重なり、鼓膜と頭にざわざわと響いてくる。視界いっぱいにここにはいない人たちが映り始め、見えている現実と過去のさかい曖昧あいまいになっていく。要は、まずいと思う。このままでは過去と現在の記憶に埋もれて自我じがを保てなくなってしまう。

「……はあ、はあ……“は”……」

 要はゆっくりと深呼吸しながら、ここへ来る前、東條やアカリと会った時のことを思い返していく。その声が一瞬、ザザ、と雑音を挟んで切り替わる。

 二人との会話を思い出していると、周りから聞こえてくるざわめきはだんだん薄くなってきた。見えている光景も徐々に薄くなり、視界から消え始める。

「……」

 目を閉じて呼吸を整える。ここから出たら何を食べようかと考えていると、聞こえていた声と頭痛もおさまり、やがて消えた。なんとか平静へいせいさを取り戻した要は、頭を押さえていた右手を静かに離した。

 要は呼吸を整えながら、額の汗をぬぐった。立ち上がり、よろける体を何とか足で支える。

 ジジ、ジジ……と要の姿に走るノイズが安定し始める。その姿で、散弾銃の紐を肩に引っ掛け直す。

「……“ここに来るといつもこうだ”……」

 その声は、まるで別人のものであった。

 要は んん、と喉を鳴らすと、自分の声を確認するように喉を軽く押さえる。そしてもう一度声を出した。

「“これぐ”……これぐらいかな。水……ぐらいは勝手に飲んでもいいよね」

『京谷要』としての声でそう言うと、多少ふらつきながら、商店街の出口に向かって歩き出した。

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