【ある魔女の追想】⑤

 数日後。咲子は前と同じくカウンターの内側で椅子に座り、肘をついて窓の外を眺めていた。

 長い髪は一つに結んで背中に垂らしている。外は夕日などとっくに沈み、夜になり始めた時間帯だ。

「……」

 体にぴったりと張りついたワンピースを着た女性たちが、左から右へと横切っていく。彼女たちは今からクラブやパーティーにでも行くのだろう。髪もメイクもばっちりときめ、全員が三センチはあるだろうヒールを履いている。

 そんな女性たちを目で追いかける。通り過ぎた女性たちの後ろから、若いカップルが楽しそうに喋りながら通っていく。その二人も通り過ぎると、咲子は一つため息をついた。

(ああやって秋仁さんと一緒に出掛けたの、もういつのことかしら……)

 ふとそんなことを思う。確か今年の三月に新しくオープンした動物園に行ったきりで、それからは一緒に買い物すら行っていない。

 最近の彼は急に忙しくなったらしく、この店にも来られないことが多くなった。それはいいのだが、家に帰ると風呂に入って晩ごはんを済ませ、すぐに布団に入る彼を見ると少し心配にもなる。

 生命保険会社につとめる彼は顧客からも好かれているようで、よく新規の客にも指名されるらしい。昔、まだ店を開く前、仕事が終わって彼を迎えに行くと、彼の同僚がそう教えてくれた。

 それでもやはり、心配になる。この店に一人で寂しいと思ってしまうのは、わがままだろうか。

 忙しそうな彼のこと。この店のこと。店をたたんだあとのこと。店をそのまま続ける場合はどうするのか。この店を畳んでも、またいつ二人の夢を叶えられるか分からない。

 これからのこと。お金のこと。考えることはたくさんだ。咲子はもう一度、ため息をついた。

「……でも、そろそろ決めなきゃね」

 一人、そう呟く。

 と、その時。入り口の扉に吊り下げているベルが鳴った。来客だ。

「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」

 咲子は椅子から立ち上がりながら声をかける。入ってきたのは男性と帽子を被った子供だった。二人は外がよく見える席に着く。

 親子かな、とその二人組を見て咲子は思う。男性は三十代ぐらいだろうか。多少しわが浮いたシャツとベルトを巻いた黒いズボンという簡素な格好で、あざやかな黒い髪と黒い宝石のような二つの眼が、やけに印象に残る。

 子供のほうは席についたというのに帽子を外そうとしない。着ているのは長袖のシャツに吊りズボン。襟元えりもとには蝶ネクタイなんかをつけている。まるで裕福な家庭の子のような格好だった。

「ご注文はお決まりですか?」

 水の入ったコップを二つ置き、尋ねる。子供のほうはメニューにあるサンドイッチのページを見つめ、何を頼もうかと迷っている。

「ああ、えっと……僕はコーヒーとオムライスを。この子にはオレンジジュースと……」

「むむ。子ども扱いしないでください。僕はコーヒーだって飲めます」

「そう言って吐き出したのは誰かなぁ」

「あれは苦かったのが悪いんです。もっと砂糖とミルクを入れたら飲めました」

 男の子は男性に言い返す。咲子は思わず、くすりと笑ってしまう。

「あいにく今日はそういう気分ではないので、クリームソーダとやらにします。それとフルーツサンド。いちごたっぷりで!」

「はい。コーヒーが一つとクリームソーダが一つ。オムライスと、いちごたっぷりのフルーツサンドですね。コーヒーはいつお持ちしましょうか」

「えーっと、食事と一緒で」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 注文を取り、カウンターに戻って準備をする。冷蔵庫を開け、取り出した卵を割ってフライパンに落としていく。じゅうじゅうと音を立てて、卵が焼けていく。

「この店は長いんですか?」

 と、男性が話しかけてきた。咲子は手際よく料理を作りながら答える。

「いいえ。まだオープンして二年目です。けれど、場所が悪かったみたいで」

 こう客がいないと暇な時間のほうが多い。つい、こんな愚痴をこぼしてしまいたくもなる。

「もう閉めてしまおうかと思っているんです。もう少しお金を貯めて、違う場所で一からやっていこうかと」

 先月、彼とそんな相談をした。「そうだね」と彼は言った。申し訳ないような、今にも泣きだしそうなのを無理やりこらえ、笑顔で隠したような、そんな顔で。

「そうなんですか。いい店なのに」

「ありがとうございます。でも、それは料理を食べてから言ってほしいですわね」

 出来上がった料理を皿に盛りつけ、テーブルに運ぶ。

「あ、それはごめんなさい。そうですよね。料理がまだだった」

 男性は笑いながら言った。そんな二人の間にオムライスの乗った皿とサンドイッチが乗った皿を置く。

「コーヒーは今淹れますね。もう少しお待ちください」

 カウンターに戻り、次はコーヒーカップとグラスを用意していく。グラスにたっぷりと氷を入れる。

「ん、おいしい。このオムライス、すごくおいしいよ。食べてみる?」

「いりません。僕はフルーツサンド以外に興味はないのです」

「あ、そう。気まぐれな神様はサンドイッチ以外には見向きもしないか」

 テーブルから二人の会話が聞こえてくる。カウンターの内側で作業をしながら、咲子はそれを聞いている。

「むむ、くちらない人間ですねえ。ま、いいですよ。許してあげましょう。今の僕は機嫌がいいですからね」

 話の内容は分からないが、自分が作った料理を褒められ、コーヒーをカップに淹れている咲子は思わず表情をゆるめた。長らく忘れていた、自分の作った物でお客さんが喜んでいる場面だ。その瞬間は、声を聞いているだけでも素直に嬉しい。

 店を閉めてしまうと、これも終わってしまうのか。咲子はふと思い、少しだけ悲しくなった。

「やっぱりいい店ですよ、ここ」

 男性がカウンターにいる咲子に話しかける。

「中も綺麗だし、僕はこの雰囲気も好きですよ。それになにより、料理がおいしい。すごくいい店ですよ、ここ。今度は友達を連れてきますね」

「ありがとうございます。お待ちしておりますね」

 業務的な微笑みを返しながら咲子は言う。飲食の接客業でいちいちそんなお世辞せじを本気にしていてはきりがない。にこやかだが、あくまで接客用の笑顔を浮かべる。

 表情では冷静を装っていたが、久方ひさかたぶりに客から料理と店を褒められ、咲子の心は嬉しさで舞い上がっていた。二人に気づかれないよう下を向き、思わず口角を吊り上げて、ふふ、と小さく笑った。


「ただいまー」

 夜になり、喫茶店の営業と片付けを終えた咲子が帰宅する。

 と、咲子は気がつく。玄関に秋仁の靴があった。どうやら先に帰っていたらしい。それにしては部屋の電気が一つもついていない。外出はしていないと思うのだが、一体何をやっているのだろうか。

「遅くなってごめんなさい。今からごはん作るわね」

 不思議に思いながらも咲子は靴を脱ぎ、廊下を通って居間に向かう。真っ暗な部屋の真ん中……机の前に、秋仁はこちらに背中を向けて座っていた。

「ちょっと秋仁さん、何をやっているの? 電気もつけずに……」

 咲子は部屋の電気をつける。丸まった秋仁の背中が、びくっと跳ねた。

「あ、お、おかえり咲ちゃん。お、遅かったね。大丈夫?」

 明らかに動揺どうようしている声だ。彼の二つの目がきょろきょろと動いている。

「……何かあったの?」

 秋仁の前に座りながら、咲子が聞く。

「な、なにも」

 秋仁が、ばっと後ろに何かを隠した。咲子は目ざとくそれを見つけ、急いで手に取る。

 秋仁が持っていたのはくしゃくしゃになった二枚の紙だった。一枚目は店の赤字を記録した紙。もう一枚には秋仁が勤めている保険会社の名前が書かれている。

「何よ、これ……」

 保険会社の紙に書かれた『生命保険 契約内容』という一文に、咲子は言葉を失う。さらに目を下に動かし、書かれている契約内容を読んでいく。契約書には、すでに秋仁の名前が書かれ、彼の印鑑が押されていた。

「死亡保険の契約けいやくきん、一千万円……? なによ、これ……。しかもあなたの保険金、全部私に支払われるようにって書いてあるけど……どういうこと? ねえ……」

 すがりつくように秋仁を見る。

「ごめん……」

 彼は目を逸らし、そう謝るだけだった。

「……まさかこの前、『お店のことは僕がなんとかする』って言ったの、これのこと……?」

「……」

 秋仁は答えない。

「あなたの生命保険で店の赤字を消しても、あなたが死んじゃったら意味がないじゃない。ねえ……」

 咲子は泣きそうな顔で、秋仁を見つめる。

「……ごめん」

 秋仁は下を向き、そう謝るだけだ。

「……」

 たまらず咲子も下を向く。

 そうだよ、と言ってくれれば、一人で抱え込ませてごめんなさいと彼を抱きしめられるのに。違うよと言ってくれれば、この紙を破り捨てられるのに。しかし一向に待っても、彼は何も言ってくれない。

「……あなたが改めて告白してくれた時、おぼえてる?」

 保険金の紙を手に、咲子はぽつりと、そんなことを聞いた。そんなことしか、言えなかった。

「……うん。もちろん憶えてるよ」

 秋仁は答え、咲子は話し始める。

「このおうちを探して、契約して、このおうちで初めて一緒に夜を迎えた時よ。その時にあなた、いつになるか分からないけど、必ず結婚指輪を君の指にはめるよって言ってくれたわね。それに私は、ずっと待ってるわって言ったわ。その時に私、これからも隠し事はなしだって言ったわよね」

「うん……」

「今までなんでも話してくれたのに、あなた、その約束破ったわ。一人で悩んでるのに、『何もない』って嘘もついたわ」

「……ごめん」

 謝る秋仁の両手を、咲子はそっと両方の手で優しく覆う。

「あなたがいなくなったら意味がないじゃない。もう、ばかね……」

 咲子は秋仁の手を握ったまま、優しく微笑みかけた。眉を下げた、涙をこらえているような笑みだった。

「私ね。あなたが卒業式の日に告白してくれた時、すごく嬉しかったのよ。あなたも同じ気持ちだったんだって、すごく嬉しかったんだから」

 秋仁の手を握ったまま、咲子は思い出話を語り始める。

「知らないでしょう? 私、学生の時、あなたの靴箱に手紙を入れようと思ったんだけど……あなたってほら、格好いいからよく他の女の子たちからも告白されてたじゃない? それで怖気おじけづいちゃって、結局その手紙は破って捨てちゃったの。

 それでね、卒業式の日、あなたが何も言ってくれなかったら、私、あなたの腕を掴んで引き止めようと思っていたのよ。それで私から告白しようって決めてたの。

 でも、あなたは告白してくれたわ。それがすごく嬉しくて、その日は眠れなかったのよ。電話をかけようと思ったんだけど……家の人が出るとなんて言えばいいか分からなくて、結局電話はやめたのよ」

「僕も……」

 秋仁も咲子の手を握り返しながら、同じように語り始める。

「僕もね……告白した日の夜、君に電話をかけようと思ってた。でも君はりょうだったから……」

「そうね。寮はどんなに遅くても夜の十時には消灯だものね。電話も寮母さんが出てから繋ぐから。それに卒業式の日は、女子寮のみんなで街に行っていたし。

 他の皆、『男子も誘おうよ』って言ったのよ。でも私が止めたの。あなたと会うの……なんだか恥ずかしかったから」

 そう言うと咲子は恥ずかしそうに頬を赤く染め、くすりと笑った。

「……ごめんね、咲ちゃん」

「謝らないで秋仁さん。気づかなかった私も悪いんだから。一人で悩ませてごめんなさいね」

 咲子は秋仁の手から両手を離し、彼をそっと抱きしめた。せきを切ったように、秋仁の体が震え始める。咲子の肩に顔を乗せ、彼がしゃくりあげる。

「ごめん、ごめんね……」

 秋仁が激しく体を震わせる。その背を、咲子は「いいのよ」と言って優しく撫でる。

「ここまで来たのは自分の意思だもの。謝らないで」

「でも、でも、僕のせいで……!」

「あなたと一緒にいることも、あなたとその道を進むと誓ったのも、私が選んだことよ。あなたのせいじゃないわ」

「……」

「大丈夫よ。二人なら、きっとなんとかなるわ。そうでしょう? あなた言ってたじゃない。きっと神様は見ていてくれるって」

 咲子は秋仁の背中を撫でながらなぐさめる。頭の隅では、そんな神などいないと思いながら。

「ごめん……。ごめんね……」

 秋仁は声を濡らしながら謝る。そんな彼の背中を、咲子は優しくさする。

「二人の夢を叶えても、あなたがつらくて苦しい思いをしたら意味がないわ。そんなの私、ちっとも嬉しくないわ」

「うん、うん……」

 咲子は鼻をすする彼の背中を、優しくぽんぽんと叩く。

「お店、閉めましょうか。あなたは今まで、よく頑張ったわ」

 咲子は努めて明るい声で言った。秋仁は少し間を空けて、

「……うん」

 と、頷いた。そのあとさらに、秋仁は体を震わせて泣き始める。咲子は、そんな彼の背中を優しくさすりながらなぐさめる。

「……ごめんね、ここまでついて来てくれたのに……」

「あなたが謝る必要なんてないわ。私は自分で選んでここまで来たんだもの。後悔もしてないわ。短い時間だったけど、私、秋仁さんと一緒にお店が出来て幸せだったわよ。もちろんあなたと一緒にいるだけで幸せだけど……お客さんに注文を聞いて、あなたが作った料理を運んだりレジを打ったりして、あの時間は特別だったわ」

 震える秋仁の背を優しく撫でながら、咲子は言う。それを聞き、秋仁はしゃくりあげて泣き始める。そんな彼の背中を、咲子はただ黙って優しくさする。

「そうだ、聞いて秋仁さん。今日ね、とってもいいお客さんが来てくれたの。私たちの店をいい店だって言ってくれたのよ。料理もおいしいし、雰囲気も好きだって。すごくいい店だって言ってくれたのよ。すごいでしょう秋仁さん、私たちのお店、すごくいい店だって言ってくれたのよ」

 咲子は今日見た親子の客のことを話す。話し終わると、咲子の目にじわりと涙が浮かんだ。浮かんだ涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちる。

「……」

 咲子の頭に思い出が浮かぶ。

 物件の間取り図を片手に二人で店を出す場所を探したこと。いくつもの家具店を回り、店に置くテーブルや椅子を見たこと。悩みながら二人でメニューを考えたこと。店の名前を二人で決めたこと。客でいっぱいになった店の中を動き回り、慌ただしく注文を取ったこと。客の波が引き、「お客さんすごかったわね」なんて話しながらカウンターに座り、二人でコーヒーを飲んで休憩したこと。彼が作ってくれたまかないを食べたこと。自分が淹れたコーヒーを「すごくおいしいね」と彼が褒めてくれたこと。

 カウンターの椅子に座って、二人でゆっくり外の景色を見たこと。彼の横顔を見て幸せを感じたこと。店で彼と過ごした日々の思い出が、次々と頭に浮かぶ。

「……」

 咲子は鼻をすすった。うつむき、涙を流す。

 部屋にはしばし、二人の嗚咽おえつとすすり泣きが響いていた。


「榎宮さん。昨日、何かあったの?」

 次の日のこと。百貨店での休憩中に、同僚が突然聞いてきた。

「彼と喧嘩でもしちゃった?」

「いえ。そんなことはないですよ」

「そう? だって目が腫れてるから」

 同僚は言った。するどい、と咲子は思う。やはり同じ女性同士だと、化粧で隠していてもバレてしまうようだ。

「あ、そういえば榎宮さんの彼、この前見かけたよ。私が旦那と買い物してたらね、偶然会ったの」

「そうなんですか……」

 秋仁さんと買い物に行ったの、もうどれぐらい前かしら。そんなことを考えながら、咲子は弁当をつつく。

「その時にね、榎宮さんの彼、若い男の子を連れてたわよ。なんでも、新しい子が入ったから、仕事の説明をしてるんだって言ってたわよ」

 そんなこと、彼から一つも聞いてない。

「仕事熱心なのね、彼」

 同僚が笑いながら言う。

 いくら何十年という付き合いでも、言いたくないことや言い忘れることはあるだろう。その日あったことを一から十まで全部伝えろというほうが無理な話だ。

 だが、最近の彼には引っかかるものがある。急に帰りが遅くなったり、自分の物を片付け始めたり。さらに思い返すと、口数も減ってきたような気がする。

「……ええ。そうですね」

 咲子は複雑な思いで、同僚にそう返した。


 それから数日が過ぎ、六月十五日になった。咲子はいつかと同じく、カウンターの内側に座って外を眺めていた。

 時間帯は昼前。スーツを着た男性や黒ずくめの格好をした若者たちが昼食をとる店を探している。咲子がいる喫茶店には目もくれない。

 この日も、午前中だけで三人しか客が来なかった。もう閉めてしまおうかと、咲子は立ち上がって出入り口の扉に向かう。本当は営業時間まで開けていたいが、客が来なければ開けていても意味がない。咲子は扉を開け、表にかけていた『open』のふだを裏返して『closed』に変える。

 店を閉める日は、来月のすえに決まった。ここに通わなくなるまで、あと一か月。次に二人の夢を叶えられるのは、いつになるだろうか。咲子は扉を閉め、ため息をつく。

「……なんて。分からない先のことを考えてもだめね」

 ふと思ったことを頭から消すように、咲子は小さく呟いた。

 この店がなくなるまで、あと一か月。その間に客足が戻るかもしれないし、うまく行くようになるかもしれない。先の分からないことで悩んでいても仕方ない。

「まずは今日の晩ごはん。お店の片付けは明日からにしましょうか」

 咲子は一人で呟き、エプロンを脱いで腕に引っ掛ける。鞄を持ち、中から店の鍵を取り出す。

「秋仁さんはまだお仕事のはずね。そうだ、その間に買い物に行きましょう」

 店を閉めても終わりじゃない。片付けやこれからのことがある。休む暇なんてない。二人の日常は続いて行くのだから。

 咲子は店から出て、扉の鍵穴に鍵を差し込む。

 いつまでも落ち込んでなんていられない。これからなんだから。咲子は前向きに考えようと頭の中を切り替える。そして差し込んでいた鍵を回すと、咲子は店に背を向けた。


「遅くなっちゃった」

 咲子はアパートの階段を上がったところで、額の汗をぬぐった。右腕には野菜やらが入った買い物袋を下げている。咲子は一旦その荷物を床に置き、家の鍵を鞄から取り出す。夕日は沈み、あたりはすでに暗くなり始めている。

「……?」

 と、咲子は鍵を穴に差し込んだところで動きを止めた。鍵が回らない。開いているのだ。

 家を出る時には確かに鍵をかけた。泥棒かと、咲子の心臓がどくどくと暴れ始める。床に置いた買い物袋から、顔を出している大根を抜き出して右手に構える。

「……」

 空いた反対の手でおそるおそる扉を開け、隙間を広げていく。

「……うん?」

 玄関には丁寧に揃えられた秋仁の革靴があった。なんだ、あの人が先に帰っていただけなのかと、咲子はほっと胸を撫で下ろす。

「秋仁さん、先に帰ってたの? 早く終わるなら迎えに行ったのに」

 荷物を持った咲子は言いながら中に入り、玄関の扉を閉める。中にいるはずの彼からは、返事は聞こえない。

「今日は商店街に寄ったのよ。魚屋さんがね、明日はいい魚が入るかもって言ってたわ。明日の朝、一緒に買い物に行かない? 明日、あなた、お仕事お休みだったでしょう?」

 靴を脱ぎながら言う。返事は聞こえない。

「ねえ、どこにいるの?」

 廊下に上がった咲子は、初めてそこで気がついた。居間の机の前に、彼がこちらに背を向けて座っている。

「秋仁さん……?」

 咲子の心臓が、再びどくどくと暴れ始める。この前も同じ光景を見たと、咲子は頭の中にその時の光景を浮かべる。あの時も、彼はこうやって背を向けて座っていた。

「まさか……」

 咲子は買い物袋を放り捨て、居間にいる彼の元へ駆け寄る。肩を掴み、無理やり振り向かせる。

「あ……咲ちゃん、おかえり……」

 秋仁はそう言って微笑みかけた。真っ赤に腫らした目を優しく細めて。

 彼は仕事へ行くスーツではなく、流行りのミリタリージャケットを着ている。今から出かけるような格好だった。

 そして手には一枚の写真を持っていた。三か月ほど前、新しくオープンした動物園へ行った時の写真だ。ゾウの檻の前で、彼と自分が横に並んで笑っている。

「お店は?」

 秋仁が聞いた。彼を見下ろして、咲子は答える。

「……お客さんが少なかったから、もう閉めちゃったの」

「そっか……」

 違う、と咲子は思う。そんなことを答えている場合じゃない。仕事場にいるはずの彼がどうして家にいるのか。激しく暴れる心臓の音で、ぐるぐると回る思考のせいで、うまく言葉を投げかけられない。

「……今から、どこへ行くの?」

 咲子は、必死に搾り出して聞いた。秋仁はあからさまに動揺し、目を泳がせる。

 そのとき咲子は、もう一つ気がついた。彼の横にボストンバッグがある。咲子はしゃがみこんで、そのバッグを開ける。

「……これ」

 バッグの中に入っていたのは、大量の練炭といくつかの百円ライター。それと、眠れない時に飲む薬が入った瓶。顔から血の気が引いていくのが、咲子は自分でも分かった。

 心拍数が、これでもかと跳ねあがる。いやな想像が、考えたくもない二つの単語が頭に浮かぶ。浮かんだその単語を頭から消そうとしても、目の前には死ぬための道具が揃えられている。そしてそれを準備した人物が今、自分の目の前にいる。

「あなた……まさか……」

 咲子はバッグの中身から、座っている秋仁に顔を向けた。数日前、同僚に言われたことが頭をよぎる。

「……あなた、お仕事は?」

 顔を背けながら、秋仁は答えた。

「……もう、めたんだ。正式な退職は、今日の午前だったんだよ。それまでに手続きと……引継ぎをしてたんだ」

「だから最近……帰りが遅くなっていたの?」

「……」

 秋仁は答えない。ただうつむき、黙り込んでいる。咲子もかける言葉を失い、黙る。

 仕事を辞めることも、辞めたことも、今、初めて聞いた。何も相談されなかったことが、咲子には悲しかった。自分はそんなにも信用がなかったのかと、咲子は思う。彼女の目に、涙が浮かぶ。

 しかしそれ以上に悲しいのは、彼が一人でこうとしていることだった。大事なことを隠し、何もかもを全部抱えて、この人は一人で死のうとしていたのだ。それがショックだった。

「ごめんね……。こんなに早く帰ってくるとは、思わなかったから。君があの店で最後の時間を過ごしている間に……終わらせようと思ってたんだ」

 秋仁は咲子の頬にそっと触れ、流れる涙を優しく指でぬぐう。そして咲子を優しく抱きしめる。

「……どう、して?」

 咲子が聞く。様々な意味を含んだ問いかけだった。

 咲子を抱きしめたまま、秋仁は答える。

「君の人生を、もう貰えないよ。お店を出しても僕の力が足りなくて、借金をして、君には苦労をかけてばっかりだった。だからこのあとの君の人生まで、僕が貰うわけにはいかない」

「……」

「僕がいなくなっても、君は大丈夫だよ。僕のことは忘れて、君の人生を歩んでほしい。

 お店を立て直すにしても、僕の保険のお金で借金も全部なくなるし、生活もしばらくは大丈夫なはずだ。それで君は新しい人を見つけて、その人と幸せになるんだ。僕のことなんか忘れて。君はすごく美人だし、頭がいいし、僕よりもっといい人がすぐに見つかるよ」

「……いや、いやよ。そんなの、いや……」

 秋仁の胸の中で、咲子は首を横に振る。

「私、あなたがいない人生なんていらないわ……! あなただから、私は一緒にいるのよ。これからだって、私、あなたと離れるつもりなんて……」

 咲子の声が小さくなる。秋仁の服を掴み、彼女は鼻をすすり始める。それを秋仁は優しく慰める。いつかの光景とは真逆になっていた。

「どうして一人で死のうとするのよ。ねえどうして、どうして……」

「ごめんね。でも、もう……決めたんだ」

 秋仁はそう言って、さらに優しく咲子を抱きしめる。咲子も彼の服を、ぎゅっと掴みなおす。

 この人が一度決めたことを簡単に覆さないことを、咲子は知っている。自分のためではなく、いつも他人のことを想う優しさも。のんきなようで周りのことを考えていて、真面目で優しいそんな彼のよさを、咲子は全て知っている。

 だからこそ、今はそんな彼の優しさがつらい。

「……私も一緒に、連れて行って」

「え?」

 ぼそりと言った咲子の言葉に、秋仁が驚いて聞き返した。

「私も一緒に連れて行ってよ。あなたがいない世界なんて、あなたがいない人生なんて……」

 咲子は秋仁の胸から顔を上げ、彼と目を合わせる。

「……」

 秋仁も咲子の顔を見つめ返す。涙で濡れ、うるんだ彼女の目をまっすぐ見つめる。

 しばし悩み、秋仁は言った。

「……それはだめだよ。君には、生きていてほしい」

「どうして!」

 咲子は思わず声を上げる。自分に生きていてほしいと言った彼の優しさに、心を引き裂かれるような悲しみを覚える。

 咲子は涙を溜めた目で、秋仁の顔を見つめる。

「あなたがいなくなった人生なんて、私、いらないわ。あなたが止めても、きっと、私……あなたを追いかけるから。何をやっても、何を捨てても、きっとあなたを追いかけるわ。どれだけ時間がかかっても。たとえ死んでも。死んだって、私、あなたを追いかけるんだから……」

 秋仁は首を横に振る。

「それはだめだよ。死んだあとの君の人生も貰えない。僕のことは忘れるんだ。それで君は、僕とは違う人と幸せになるんだ。それで幸せのまま、君は君の人生を終えてくれ」

「そんな幸せいらないわ! 私は、あなただから一緒にいたいの。他の人なんていらないの。あなたと一緒の人生だから、この先もあなたと一緒に生きていたいと思ったの。あなたがいなくなった人生なんて、私、いらないのよ!」

 咲子は涙をぼろぼろと流しながら叫ぶ。

「僕だって……」

 秋仁はそう言いながら、咲子から顔を逸らした。

「僕だってこの先もずっと、咲ちゃんと一緒にいたいよ。でも、お店の借金ができてから……咲ちゃんの疲れた笑顔を見るだけで……僕は死にたくなるんだ。僕はなんてことをしてしまったんだろうって。だったらこの人はこの先、僕と一緒にいるべきじゃないと思ってしまうんだ……」

 秋仁の目にも、じわりと涙が浮かぶ。秋仁は涙がこぼれる前に、服の袖で目元をぬぐう。

「そんな咲ちゃんを見るのはとてつもなくつらくて、苦しいんだ。

 だったら僕がいなくなったほうが、いいと思ったんだ。僕一人が死ねば、残ったお金で君に楽をさせてあげられると思ったんだ。だから……」

「そんな、そんなこと……違うわよ、ばか……」

 咲子は秋仁の胸に顔をうずめ、くぐもった声でそう返す。

「あなたのお金だけが残っても、嬉しくないわよ。どうしてって、私はずっと考えちゃうわよ……」

 息を吐くように、咲子は言った。秋仁は何も答えない。

「……私も一緒に、連れて行って」

 咲子は、もう一度言った。顔を上げ、秋仁を見つめる。

「あなたが一人でいなくなるぐらいなら、私も一緒に死ぬわ。お願い、一緒に逝かせて」

「……咲ちゃん」

 秋仁が、咲子の顔を見つめた。今から何十年も前の時には、まだあどけなさの残った少年の目をしていたのに、今では優しくもはっきりとした自分の意思を浮かばせている。その成長に咲子は嬉しくなる。

 そんな彼の目の中に映る自分を見ながら、咲子は胸の中が愛でいっぱいになるのを感じる。何よりも大好きな人が、愛しい人が、大切にしたい人が、自分をまっすぐに見つめてくれる。それだけで、心が温かくなるのが分かる。満たされていくのが分かる。そう、それだけで……。

「……本当に、いいの?」

 秋仁が聞いた。咲子はこくりと頷く。

「ええ。最初から、何があってもあなたの傍にいるって、決めていたから」

 咲子は答え、微笑みかける。

「本当に……いいの?」

 秋仁が、確認するようにもう一度聞いた。

 咲子は彼をまっすぐに見つめ返し、

「ええ。一人にしないわ。絶対に」

 と言って、強く頷いた。


 夜になった。二人は森の奥深く……ちょうどひらけた場所に車を停め、その車内にいた。周囲に立つ木々のせいで、二人がいる場所はいっそう暗い。

「ねえ秋仁さん、見て。綺麗な星空よ。見える?」

「うん……」

 倒した後部座席の上に座る咲子が、曇った窓から空を見上げる。咲子の膝に頭を置いている秋仁も、目をうっすら開けて窓のほうを見る。

「綺麗だね……」

 練炭の煙でくもった窓からは何も見えない。星空すらも、外の景色すらも。それでも秋仁は小さな声で言い、弱々しく口角を上げて笑った。笑うとすぐに、うっすら開けていた瞼を閉じた。

 そんな彼の顔を見て、咲子は安心したように微笑む。

 二人はまるでデートに行ってきたあとのような格好だった。秋仁は流行りのミリタリージャケットとベルトを巻いたズボン。咲子は紫色の半袖シャツに黄色いスカート。黒い煙が充満した車内と二人の格好は、あまりにも不釣ふつり合いであった。

 秋仁の横には錠剤の入った瓶が転がっている。瓶の中に入っていたのは、一粒飲むだけでも強烈な眠気に襲われる薬だ。そのほとんどを秋仁が飲み、咲子は一粒も飲まなかった。

 その理由は、自分がもしも先に逝って、彼を一人にさせるかもしれないと思ったからだ。彼の最期を見届けてから逝こうと、咲子は練炭を燃やす時から決めていた。

 と、咲子は口に手を当て、激しく咳き込んだ。眩暈めまいと吐き気、頭痛ずつうを感じた。膝の上に置いている秋仁の頭をそっとのけ、たまらず彼の横に寝そべる。

 珍しく、虫の音も風の音も聞こえない夜だった。聞こえるのはぶすぶすと燃える練炭の音と、自分の呼吸と、か細い彼の呼吸だけ。

「……」

 咲子は左手を伸ばし、こちらを向く秋仁の右頬にそっと触れる。彼の体温は、触れた指先を集中しないと、もう、分からない。

「ねえ……秋仁さん」

 咲子は呼びかける。

「……うん」

 今にも掻き消えそうな声で、秋仁は言葉を返した。

「……私、幸せだわ。こうして最期も、あなたと一緒に迎えられるなんて。幸せすぎて、どうにかなってしまいそうだわ……」

 眩暈が、ひどくなる。吐き気でおかしくなりそうだった。体中が、迫ってくる「死」をこばもうとあらがっているのが分かる。

 咲子はのろのろと視線を動かした。

 車内のドアは全て施錠し、窓も隙間なく布テープでりした。この森へ来る時も、比較的暗くて人通りの少ない道を進んできた。この森に所有者がいないことも確認済みだ。

 ズキズキと痛む頭で、大家には悪いことをしたと咲子は思う。一応書置かきおきは残しておいたが、部屋の中にある荷物はほとんどそのままの状態で出て来てしまった。もう少し時間があれば、部屋も綺麗に片付けられたのに。

 そう考えたところで、咲子は口の端を吊り上げて笑った。もう少し時間があれば、きっと彼は私を置いて死んでしまっていただろう。彼は前から悩んでいたのだ。きっとこの運命は変えられない。

「……」

 咲子は秋仁の頬を触りながら、隣で横たわる彼の顔を見つめる。

 彼の顔は真っ青に染まっている。自分と同じく激しい眩暈と頭痛に苦しんでいるのだろう。咲子は彼の頬をそっと優しく撫でる。苦しそうにしていた秋仁の表情が、ほんの少しやわらいだ。

 自殺をした人間は全員地獄に落とされるという。そんなことを、咲子はふと思い出した。そしてこう考える。ならば地獄に落ちても、この人とずっと一緒にいられるのかと。

 そう思った瞬間、たまらなく嬉しくなった。死ぬこともない世界でも、この人と一緒にいられるのだ。たとえそこが苦しみに満ちた世界でも、死んだほうがましだと思える世界でも、この人と、これから先もずっと一緒にいられるのだ。

 咲子の目から涙が溢れた。嬉しさと喜びを含んだ涙は、彼女の頬を伝ってこぼれていく。

 咲子は激しく咳き込みながら、ぼろぼろと涙をこぼす。しびれる両手を必死に動かして、こぼれる涙をぬぐう。

 頭痛がして、ひどい吐き気がする。視界がぐるぐると回る。だがそんな苦しみすらもいとおしいとさえ思う。この先に待っているのは、大好きな彼と一緒にいられる、二度目の人生なのだから。

「……僕、ね、」

 隣に横たわる秋仁が、唇を動かした。弱々しい声で、話し始める。咲子はできるだけ泣く声を抑えて、彼の言葉に耳を傾ける。彼の最期の言葉は、いち一句いっくとも聞き逃したくなかった。

「咲ちゃんと、一緒にいられて……本当に楽しかったよ。幸せで、毎日、楽しかった。僕の名前を呼んでくれる君の声が、君の笑顔が……君が、傍にいてくれるだけで……君が、あの家にいてくれるだけで、僕は……すごく幸せだったんだ。君が、隣にいてくれるだけで……」

 秋仁は、必死に唇を動かして言葉を紡ぐ。私もそうよ、と咲子は心の中で返事をする。隣にいる彼の呼吸が、だんだん弱くなっていくのが分かる。

「咲ちゃん……大好きだよ。次も、僕と一緒に……。僕と、さいごまで、一緒に……」

 そこで、言葉が止まった。その先は、いくら待っても聞こえてこなかった。

「……」

 咲子は手を伸ばし、秋仁の頬をそっと触る。ほんのわずかに体温は残っているが、彼の体が冷えていくのが分かる。

 これが、死か。何よりも愛しい人の死に顔を見つめ、咲子は思う。確かに彼の最期の言葉を、しっかりと聞いた。これでもう、思い残すことはない。咲子は全身から力を抜き、苦しみと死を受け入れる態勢になる。

 咲子の頭には、あの日の記憶が思い浮かんだ。十年以上も前、学生服を着た彼が初めて告白してくれた日。自分の幸福の始まりの日の記憶。

 それからあの家に住み始めて、一緒にごはんを食べたこと。どうでもいいことで小さな喧嘩をしたこと。一緒に商店街まで買い物に行ったこと。動物園に行ったこと。一緒の布団に入って、眠るまで話そうと言い、そのまま朝を迎えたこと。そのまま二人ともべったりと目の下にくまを張り付けて仕事に行ったこと。何気ない日常の思い出が、頭の中から溢れてくる。これが走馬灯そうまとうかと咲子は思う。

 この人生はなんとも幸せで、愛に満ちた時間だった。こんなにも愛し、愛され、人生が終わる最後の瞬間までこの人と一緒にいられた。それだけで、この人生には十分すぎるほど満足だ。一つも後悔などはない。

 そして地獄に落ちても、この人と共にいられる。なんと幸せなことだろう。

 そこで、ふ、と口角を上げた。神など信じていなかったくせに、本当にあるとも知れない死後の世界に思いをせるとは。

 咲子は静かに瞼を下ろした。暗闇が視界に広がる。

 練炭がはじけ、ぱちりという音を聞く。それが最後に鼓膜に響いた音だった。ほどなくして、意識が闇へと落ちていく。

 だが、咲子は知らなかった。本当に死を感じた人間が、それを回避するために残った力を振り絞ることを。

 そして咲子の近くには、ある物が転がっていた。これは単なる偶然か。それとも、今さら神が生きろと力を貸したのか。それとも、たまたま違う神が起こした気まぐれか。

 彼の最期を見届けたいと薬を飲まなかったこと。彼の最期の言葉を聞き逃すまいと、苦しみにあらがって意識を保っていたこと。その全てが、繋がっていく。

 咲子の近くに転がるのは、この車を施錠している鍵。さらに左手を伸ばせば触れるほどの距離に、後部座席のスライドドアがあった。


「こっちはもうだめか」

「……こっちはまだ脈があるぞ!」

「早く!」 

 どこか遠くで、人の声がする。空気に溶け込むようなざわめきが、聞こえてくる。酒を飲み過ぎた時に似ているようなぼんやりとした感覚が、段々はっきりしてくるのを感じる。

 地獄だろうか。それにしては、やけに現実味があると咲子は思う。

 咲子は、瞼の筋肉を動かして目を開けた。

「……目を覚ましたぞ! 大丈夫ですか、自分の名前は言えますか⁉」

 一人の男が、自分を覗き込んでいた。切迫せっぱくしたような表情と着ている服装からは、とても地獄の鬼には見えない。右目の端には赤いランプがちかちかと光っている。

 手の平に土と草の感触がした。湿気を帯びた空気が鼻の奥に流れ込んできた。周りには覗き込む男と同じ格好をした人間たちが他にもいる。ここが地獄ではないと理解するのに、時間はかからなかった。

 どうして、と咲子は考える。準備もしっかりやったはずだ。どうして。意識を取り戻した咲子が考えるのは、そのことだけだった。

「もう一回やるぞ!」

 自分の足元のあたりで、男が叫んだ。咲子は目だけを下へ向ける。自分の足元……そのあたりで二人の人間が集まって地面を見つめ、必死に何かしている。

 彼らの間から、見覚えのある靴が覗いた。それが誰の物か分かった瞬間、ひゅ、と呼吸が止まった。

 うそだ、うそだ、と思う。心臓が、どっ、どっ、どっ、どっ、と暴れ始める。

 これが夢ならばどんなにいいことだろう。夢ならば、どうしてあのまま眠らせてくれなかったのか。どうして。どうして。彼女は心の中で何度も繰り返し、本当にいるのかも分からない神に思う。どうしてあのまま逝かせてくれなかったのか。

 そう思っても、もう遅い。自分の心臓は生きようと動き、脳は正常さを取り戻しつつある。そして頭の中にははっきりと、彼の最期が残っているのだから。

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