【ある魔女の追想】④

「おはよう榎宮さん。あれ、今日はあの彼と一緒じゃないの?」

 仕事場につき、更衣室で自分のロッカーを開けていると、横から同僚の一人に話しかけられた。

 彼女が言っているのは秋仁のことだ。たまに仕事場まで送ってくれるため、すっかり彼は職場の人たちに顔を覚えられている。

「今日は彼、電車に遅れそうだったので朝ごはんも食べずに行っちゃいましたよ」

 着替えながら咲子は答える。

「あらまあ、それ、大丈夫なの? 男の人なんだから、朝ごはん食べてないと仕事の途中で倒れちゃいそう」

 と、そばかす顔の違う同僚が話に加わる。

「大丈夫ですよ。電車で食べてってお弁当箱にいろいろ詰めて渡しておいたので」

「いい奥さんね。榎宮さん」

「そうそう。きっと子供が生まれてもいいお母さんになるよ!」

 二人の同僚が言う。厳密げんみつに言えばまだ「恋人」の関係なんだけど、と咲子は心の中で思う。そのことを口に出すと話が長くなりそうなので、言葉にはしなかった。

「そういえば、ご結婚の予定はいつなの?」

「え?」

 突然そんなことを聞かれて、ロッカーの鏡を見ながら髪をまとめていた咲子は動きを止めた。

「結婚式するなら、あたしたちも呼んでよね。美男美女だって、あたしたちの間で有名なんだから」

「うんうん。榎宮さん美人なんだから、きっとドレスも似合うよ!」

「そ、そんなことは……」

 咲子は困りながらも謙遜けんそんする。彼のことを褒められるのは嬉しいが、自分のこととなると少し恥ずかしい。

 二人の同僚は口々くちぐちに、榎宮さんには何色のドレスが似合うとか、二人が子供を作ったら男の子と女の子、どっちもきっと可愛らしい子になるだとか。本人そっちのけで盛り上がっている。

 勝手に盛り上がられるのは多少迷惑だが、そこまで不愉快ふゆかいではない。まとめた髪を落ちないようにめた咲子は、つばきのフェルト帽を頭に載せる。そしてロッカーを閉め、腕時計の時刻を見る。そろそろ朝礼の時間だ。

「すみません。そろそろ朝礼なので先に行きますね」

「あ、そうだった! あたしたちも急がなきゃ!」

 彼女たちはいそいそと制服に着替え始める。咲子は白手袋をはめると自分のロッカーを閉め、同僚たちの横を通って更衣室を出た。


 朝礼が終わり、係の人間が店のドアを開ける。小綺麗こぎれいな格好をした人間たちがぞろぞろと入店してきて、咲子の仕事が始まる。

「3階お願いね」

「はい。3階かしこまりました」

「5階」

「はい。5階かしこましました」

「7階お願いします」

「はい。7階かしこまりました」

 客が言った階を復唱し、エレベーターの扉を閉める。手動ハンドルを右に操作して、箱を上階へと動かす。

 咲子の仕事は手動式のエレベーターを操作し、乗客を各フロアへ案内することだ。制服は明るい色のレディーススーツに白手袋とつば付き帽子。この案内係になったのは三年ほど前。その前は同じ百貨店の婦人服売り場で二年ほど働き、その前は一階のサービスカウンタ―に四年ほど勤めた。

 最初は慣れないことも多かったが、客とこの店の責任者に気に入られ、この百貨店で働くのも十年目になる。高校を卒業してから、まさか十年近くも同じ職場に勤められるとは思っていなかった。目の前で上から下へと流れていく壁を見ながら、頭の隅で咲子はそんなことを考える。

「お待たせいたしました。3階。婦人服売り場でございます。扉がひらきますので、お近くのお客様はご注意ください」

 三階で止め、開閉操作をして扉を開ける。開いた扉を押さえて中から客が出て行くのを静かに待つ。

「さ、母さん。ゆっくり行こうな」

「お姉さん、案内してくれてありがとうねえ」

「ごゆっくりどうぞ」

 上品な格好をした老婆と息子らしき男性を見送る。売り場に出て、乗る客がいないか呼び込みをする。

「上へ参ります。上へ参ります」

 乗り込んでくる客がいないことを確認すると、エレベーター内に戻ってレバーを操作する。

「次は5階。こども服売り場でございます」

 エレベーターが目的の階へ到着する間、次に止まるフロアの案内をするのも業務の一つだ。

「お待たせいたしました。5階。こども服売り場でございます。扉が開きますのでご注意ください」

 乗り込んでいた客が売り場に出て行く。

「ごゆっくりどうぞ」

 それを見送り、また呼び込みをする。客が乗ってきたら階を聞いて案内し、乗る客がいなくなったら一階まで戻って客を待つ。一日中立ちっぱなしで体が痛くなる仕事だが、やりがいがある仕事だと咲子は思っている。

「ちょっと聞きたいのだが、両替所はどこかな。外貨をこの国の金にしたいのだが」

 と、一階でハンチング帽を被った男性にそう声をかけられた。こうした案内も咲子の仕事の一つである。

 咲子はその男性に向かってにこやかに答える。

「外貨両替ですね。2階になります。どうぞ」

 そう促すと、その男性はエレベーターに乗り込んだ。咲子は他に乗る客がいないか確認してから扉を閉め、レバーを動かして上階へ向かう。

 移動している間、咲子はちらりと斜め後ろに立つその男性を見た。帽子のせいで顔は分からないが、唯一見える口元からして年齢は三十代ぐらいかなと予想する。派手ながらの薄っぺらいシャツにジーンズという、若者でもしないような格好だ。ここへ来る客はそれなりに身なりを整えている。その中では、少しだけ浮いた格好の男性だった。

 そんな中でも一番目を引くのは、銀色のような灰色のような奇妙きみょうな色の髪だ。男性はその珍しい色の髪を一つに結び、背中に垂らしている。

 外国人の客は珍しくもないが、なぜかこの男性客には一瞬だけ、どこか異質な雰囲気を感じた。

「お待たせいたしました。2階でございます」

 と、目的の階に到着する。咲子は開けた扉を手で押さえ、男性が降りて行くのを静かに待つ。

「外貨両替は、右手にございます通路を突き当たりまでお進みください」

「おお、助かったよ。これで買い物ができる」

「ごゆっくりどうぞ」

 咲子は男性の背にお辞儀をして見送る。男性は客の中に消えていった。

「お姉さん、これ、上には行く?」

 大量の紙袋を持った違う客に話しかけられる。金色の腕時計をこれでもかと輝かせている男性だ。

「はい。上へ参りますよ」

 にこやかにそう答えると、その客に続いて何人かが乗り込んできた。咲子は同じように他に乗る客がいないか呼び込みをして、休む暇もなく自分の仕事をこなしていく。

 この時に出会った派手な格好をした男性のことは、客の一人としてすぐに忘れた。


 それから三か月ほどが過ぎ、梅雨つゆの時期に入った。一九八一年、六月十日。

「お客さん、来ないわね……」

 百貨店の仕事を終えた咲子は小さな喫茶店にいた。カウンターの内側に座り、両肘りょうひじほおづえを突いて雨が降っている外の景色をぼんやり眺める。長い髪は邪魔にならないよう、うなじのあたりで一つに結んでいる。

 彼はまだ仕事の時間だ。仕事が終わったら店に寄るよと、今日の朝、家を出る前に言ってくれた。

「……お客さん、来ないわね」

 咲子はもう一度呟き、ため息をつく。

 窓の向こうでは流行りの格好をした男女が濡れないよう頭の上に手をやって、きゃあきゃあ楽しそうにはしゃぎながら市内電車の前を通過している。その男女のせいで停留所に停まれず、電車の運転手は迷惑そうな顔だ。

 線路を挟んで向こうに見えるのは自分が働く百貨店。屋上の観覧車に乗っている人たちからはこちらも見えていることだろう。咲子はまた、ため息をつく。

 すると、店の扉につけているベルが来客に音を立てた。

「いらっしゃ……秋仁さん」

 入ってきたのは客ではなく、仕事を終えた秋仁だった。

「お客さんは?」

 扉を閉めながら秋仁が聞く。咲子は静かに首を横に振った。

「……そっか。今日は、雨だからね」

 と、秋仁は窓の外を見ながら言った。言われずとも分かる。取って付けたような言葉だった。

「僕も手伝うよ。最近は咲ちゃんばっかりにお店を任せていたからね」

 言いながら秋仁はスーツのジャケットを脱ぎ、カウンターに並べている椅子の背もたれにかける。少し濡れた鞄も椅子の上に置き、シャツの袖をまくる。そうしてカウンターに入り、たまっていた洗い物に取り掛かっていく。

「ありがとう秋仁さん」

 咲子は眉を下げ、悲しさを誤魔化ごまかすような顔で洗い物をする秋仁に礼を言う。客が来ない理由は、今日の天気が悪いだけではない。咲子もそれを分かっている。

「……」

 咲子は店の中に目を向ける。

 この店を開いてもう二年。せいぜい二十人ほどで全ての席が埋まる小さな店だが、二人にはそんな広さで十分だった。

 開店当初はよかった。新しい店という注目からか、客たちは列を作って食事の順番を待った。客たちでいっぱいになった店内でエプロンを着た咲子が注文を取り、カウンターでは秋仁が料理を作る。そして人の波が途絶えた時に休憩し、二人でコーヒーを飲む。そんな日々が続いていた。

 しかし、人が来たのは最初だけだった。二人はあくまで素人しろうとだ。どんなに頑張っても経験を積んだ職人には勝てない。

 開店して一年を過ぎる頃にはちらほらと空席が目立ち始め、客足も徐々じょじょに落ちた。さらに半年が過ぎると初めての赤字が出た。だが料理に使う材料の質を下げるわけにはいかない。なんとか二人の給料でおぎなって切り盛りしてきたが客足は戻ってこず、それからさらに二月ふたつきほど経つと、二人で分担していた接客と料理も一人で間に合うほどになった。

 そして積み重なった店の赤字はいつしか「借金」という形に変わり、それを返すために働く日々。今はなんとか二人の給料で店をギリギリもたせているが、それもいつまで続くか。今年が終わる頃か来年の頭には、決断をしなくてはならない時が来るだろう。

「……雨、やまないね」

 洗い物を終えた秋仁が、タオルで手を拭きながら言った。

「……ええ、そうね」

 咲子も、外を見ながら答える。

 吹いていた風も少し強くなってきた。店の窓を雨粒が激しく叩く。鞄を頭の上に掲げ、右から左へと走り去っていくサラリーマン。我先われさきにと手を上げ、走るタクシーを止めようとする人たち。

「……お客さん、もう来ないかもね」

 咲子と同じく窓の外を見ながら、秋仁が言う。

「そうね……」

「今日はもう閉めようか。風がひどくならないうちに、僕らも帰ろう」

 と、秋仁は言う。本当は閉店の時間まで開けていたいという気持ちが、その声には乗っていた。

 当然だが、電気をつけているだけでも光熱費はかかる。ただでさえ売り上げがないのに、そんな無駄なところに金は使えない。閉店時間を早めて店を閉めると言った彼の発言は正しい。咲子もそれは分かっている。

「さ、片付けをしよう。僕は床を掃除するから、咲ちゃんはテーブルを拭いてくれる?」

 秋仁がカウンターから移動し、裏口の扉を開ける。外に置いてあるロッカーからバケツとモップを取り出す。

 窓の外にいる人たちは、店の中にいる二人に見向きもしない。激しさを増した雨と風から逃げようと、頭と服を濡らしながら必死にタクシーを止めている。

「……ごめんなさい。今やるわ」

 咲子は座っている椅子から尻を上げ、そんな人たちから視線を外した。

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