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 溺れた時のことは、今でもよく覚えている。

 小学校に上がった年の夏休みだった。わたしは、兄に連れられて実家の近所の裏山(そこそこの田舎なのだ)に入った。山の中には小さな池があり、そこに恐竜が住んでいると、地元の子供たちは噂していた。わたしと兄は、それを確かめに行ったのだ。

 池の水は底まで見通せそうなほど澄んでいた。桟橋からのぞき込むと、魚の泳ぐ姿が、はっきりと確認できた。

 これなら恐竜も見られるかもしれない。

 あの頃のわたしは、というか子供はみんなそうなのかもしれないが、好奇心に満ちていた。多少の危険など顧みることはなかった。

 だから案の定、池に落ちた。

 水泳の授業でも〈泳げない〉チームに分類されていたぐらいだから、それはもうパニックになった。必死で手足を動かし、水面を目指した。もがけばもがくほど、まるで何かに引っ張られるように体は沈んでいくから、余計に混乱した。

 やがてわたしは、動くのをやめた。運命を受け入れたのではなく、体力が尽きたのだ。

 ぼうっとしていく意識の中で、水面で揺らめく太陽の光を見上げた。わたしは死ぬのか、とぼんやり考えた。死ぬときは、こういうきれいなものが見えるのか、と。水中から見る光は、わたしにとって死と結びついた。

 あの時は、兄が近くを通りかかった大人を連れてきたので死なずに済んだ。だが、今は違う。兄もいなければ、山の畑に行く途中で通りがかった農家のおじさんもいない。そもそもここは物理世界ですらない。共通しているのは、水の中から光を見ているということだけだ。

 うろこ状になって、揺らめく光。

 真っ白な光。

 きれいな光。

 死の眺め――


「なに馬鹿なこと考えてんだ」

 突如聞こえた声に、ハッとする。

 見上げる光の中に、シミのような黒点が生じる。見間違いかと思うほど小さな点はしかし、徐々に大きさを増していく。

 躍動している影。こちらへ潜ってくる。

 人――。

 わたしは、誰かの名をつぶやく。

 違う。潜ってくるのは、イルカだ。頭に傷のあるイルカ。外で触った、あの子だ。

 イルカは真っ直ぐこちらへやってきて、嘴を擦りつけてくる。

 わたしの発火体が、意識が、イルカに触れられている。触れられていると感じるわたしがここにいる。

 だから、わたしは存在する。

 そう思った途端、解けかけていた発火体が密度を増した。疎らだった光の明滅が、強さを取り戻す。

 イルカが体を回し、背びれを示してくる。わからないことだらけだが、考えている時間がないことだけはわかる。わたしは背びれに手を掛けた。

 浮上が始まる。

 音もなく穏やかな、それでいて、速やかな上昇。ディレクトリを縫うように、イルカは上を目指して進んでいく。

 わたしには、背びれにしがみついていることしかできない。四十すれすれの非損耗率では、発火体の存在を認識しながらそうしているのが精一杯だ。全ての行く末は、イルカに任せるしかない。

 最上層のディレクトリへ戻ってきた。わたしは、肉体に戻るためのポートを探す。

『ナギ』クラウスの声が聞こえる。『よかった。無事だったんだね』

 ポートは、水面に空いた平面の穴の形をしている。そこに発火体が飛び込めば肉体へ意識を戻すことができる。だが、事はそう簡単には運びそうになかった。

 甲高い、イルカの鳴き声が辺りに響いた。それも複数。わたしたちを取り囲む形で、イルカの群れが泳いでいる。

『クラックを仕掛けてきているのはそいつらだよ。この船、制御AIも含め全てが武装イルカに乗っ取られていたんだ』

 そう、全てが。

 コンダクターも含め、全てが。

 群れの中の一頭が、こちらへ向かってくる。嘴を突き立てるような敵意を感じる。

 わたしの掴まったイルカが身を翻し、それを躱す。立て続けにやってくる〈攻撃〉も、同じように避けていく。しかし、数の点では相手に圧倒的な分がある。胴体を切りつけられ、尾びれの一部を噛みちぎられる。発火体を損耗しながら、それでも彼女はポートへと近づいていく。

 ポートが間近に迫る。諦めたのか、追撃が止んだ。

 わたしを運んできた傷のイルカが急に転進し、わたしの発火体は反動でポートに向かって振り飛ばされた。

 イルカが鳴いた。その顔は、笑っているように見えた。

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