第10章 Artificial Inspector

1.対峙

 小さな明かりの灯るコンテナの中で、ツカサが目にしたのは一体の骸骨だった。

 いや、それは骨ばかりにやせ細ったひとりの少年だった。

「う……」

 彼が眩しそうにするので、ツカサはコンテナの扉を閉めた。中には鯨岡もいる。彼はほんの少し扉に隙間を残し、外にいる〝チーム〟を一瞥して指図した。警戒して待て、というような意味だろう。

「糸居くん……なの?」

「……誰だ」

 ツカサは咄嗟に身体についた塵を払った。だがそんな身だしなみがこの場でなんの意味を持つというのだろう。それに彼が自分のことを覚えていないことはじゅうぶんあり得ることだった。

「あたし、鯖城ツカサ。覚えてない? ほら、黒人とのハーフみたいな――」

 差別表現だったが、それが自分の容姿を表現するのにいちばん手っ取り早いと思ってツカサはそう言った。糸居紘太はほんの少し目を見開く。

「鯖城……。知ってる。隣の席だった」

「そう、あたし! ひ、久しぶりだね。一年ぶりくらい?」

 まるで同窓会の挨拶のようだった。前に参加したあのクラス会に彼も来ていたら、こんな会話が交わされたのかもしれない。

 しかし目の前の紘太は変わり果てていた。身体は一回り小さくなり、腕も脚もほうきの柄のように肉がなくなっていた。顔は眼窩がんかがくぼんで眼がボールのように出っ張っており、頬もずいぶんこけている。時折のぞく歯すら小さく欠けているように見えた。彼はもともとやせ形体型だったのだが、このやせ方は異常と言うしかなかった。

「病気……なの?」

『ああ。立派な覚醒剤中毒だ』

 骨伝導でクサナギが囁く。コンテナの中はまるで昨日の朝に見た紘太の部屋のようだった。ものが散らかり、段ボールが山積みになっていて、小さな机にノートPCが置いてあった。その机の上にあった〝あるもの〟を取り上げ匂いを嗅ぎ、鯨岡が舌打ちした。

「アンフェタミン系のスーパードラッグ……。バカが、なんでこんなものを……」

 鯨岡が手に持った注射器を見て、ツカサの意識が一瞬遠のいた。

 ――中毒? 覚醒剤?

 いつの間にかツカサは、鯨岡の手を握っていた。

「アレクセイに打たれたのか? 仕事を寝ずにやるためにか!?」

 すると紘太は薄く笑った。その笑みがツカサには妖怪のように見えて恐ろしかった。

『そんな短期間でこうなるかよ。こいつはな、家で引きこもってるときからこのクスリの世話になってたのさ。まったく人間ってヤツはおっかないね。寝ずにアルカロイドをぶち込んで脳を酷使すれば、代償としてなにを支払うのか――知ってて手を出しちまうんだからな』

 ツカサの手を通して彼の声は鯨岡にも届いていた。

「どうやって入手したんだ?」

 鯨岡の質問はクサナギに向けられていた。

『通販だよ、ツーハン。ちょっとしたスラングを知ってりゃ、いまはインターネットでいくらでもクスリが買える』

「どうして!」

 ツカサが叫ぶと、紘太はアハハ、と小さく笑った。

「どうしてもなにも……みんながぼくをバカにしたからじゃないか。あぁ、鯖城は高校に行かないって言ってたよな。行かないで正解だよ。あそこはアホウドリの巣窟だ」

 言いながら、紘太は机の上を伸びた爪でノックし始めた。

「ぼくは他の人にはできない計算ができる。どんな複雑な方程式でも見ただけでだいたい解けちゃうんだ。それに嫉妬してさ、あいつらはぼくを侮辱した。そんな特技は、いつかAIがやるようになっておまえのやることはなくなるってさ。あんまりムカついたから、ぼくはそいつらを見返してやろうと思って、世界一のスーパーコンピューターにウイルスを送ってぶっ壊してやった」

 ツカサはその話をすぐさま〈クシナダ〉の事件に結びつけた。まさか彼が、スーザさんの――いやWOPのコンピューターを破壊したのだろうか。

「それでも誰もぼくのことを認めようとしない! あんなすごいことをやってのけたのに! ぼくのアルゴリズムに穴があるとか、分離したプログラムがあっという間にアンチウイルスソフトにブロックされたとか、わかってもいないくせにぼくを集団で陥れようとする!! だから絶対に、問答無用に認めざるを得ないことをするしかなかった。バカな奴らだ。ぼくを挑発したせいで、頭の上にミサイルが降ってくることになるなんてね!」

 興奮した紘太の語調がどんどん激しくなっていった。机のノックもどんどんピッチを上げていく。コンコン、コンコン、ツカサは頭がおかしくなってしまいそうだった。

 ――おまえは壊れるんじゃねぇぞ。

 クサナギが繰り返ししてくれた警告が、にわかに心の支えとなった。

「おまえが〈ハーミット〉なんだな、コウタ」

 鯨岡の問いに、紘太はニヤリと笑みを拡げた。

「ああ、そうだよ。ぼくはちょっとした有名人なんだよ、おじさん。フォロワーだって五百人はいる。そんなぼくがプレゼントするロケットがもうすぐ打ち上がる。時間になったら教えてあげるよ。ぼくも見たいしね」

 紘太がちらりとノートパソコンに目をくれると、鯨岡はそれをひったくって操作しはじめた。だが彼が機械音痴なのをツカサは知っている。案の定、苛立ちだけが募っていた。

「無駄無駄無駄。バカだね、簡単に引っかかって。そのPCをひっくり返して分解したって、ロケットが止まるはずないじゃん」

 そう言いながら、紘太の片腕が小刻みに震え始める。

「ああ、まただ。また始まったよ。チクショウ、クスリはどこにやったんだよ。おっさん、あんたが持ってるハリだよ、それ貸せよ!!」

 無謀にも紘太は鯨岡につかみかかった。彼は相手を傷つけないよう、軽く身体をひねってかわしただけだが、紘太は勢い余って床につんのめり、四つんばいになった。

 ぷん、と焦げ臭いような体臭が漂ってツカサは顔を歪めた。それが覚醒剤中毒者特有の匂いだったのだとあとで知った。

「てめぇ、ぶっ殺すぞ!! は、は、早くクスリ、かせぇ! だめらろ、くすろれっらかそらうりま!!」

 ツカサの目尻に涙が浮かぶ。どうしてこんなことになったのか。どうしてこんな風になるまで気づいてあげられなかったのか。こんな彼を母親の元に返して、どんな顔をすればいいのだろう。もう、誰も、笑顔でもとの暮らしになんか戻れるはずがない。きっと紘太が母親に顔すら見せられなかったのは、鏡に映った自分がもう、家族の知る紘太ではないからなのだ……。

「あーもう、聞いてられねぇぜクソガキが!!」

 それはクサナギが発した〝声〟だった。それは紘太にとっては幻覚や幻聴のようにも思えただろうか。彼は空気の中を手で探るようにして、見えない相手をつかもうとしていた。

「オレが誰だかわかるか、糸居紘太」

 クサナギが突然彼に話しはじめた。

「おまえがご自慢のウイルスでぶっ壊した〈クシナダ〉の分身なんだよ、オレは。あんなデカブツの肩を持つ気はさらさらねーがな、いちおう名誉のために言っておくぜ。〈クシナダ〉のメインプロテクトはてめーのオモチャみたいなウイルスを一瞬で無効化できる。だがクシナダはある計画のために敢えてやらせたんだ。おまえが壊したんじゃねぇ。芝居を打っておまえに壊させたんだよ。ご苦労さんなこった!」

 紘太の眼が泳ぐ。彼は混乱する脳で声の主を捜し、それがインラインスケートに宿ったAIだとは知る由もなく、ただ苛つきだけを高ぶらせて無茶苦茶に床を叩きはじめた。その激しさは、まるでメタルのドラムビート。

「おいやめろ、興奮させるな! こいつにはロケットを……」

「あーわかってるよ。だがもうこいつの力なんかいらねーぜ。オレはこいつの計画をすべて見切って次の手を考えてある。なにが計算だ、なにが特技だ。この世界で計算においてオレ様に勝てる存在はなにひとつない! 人間ごときのわがまま戦争ごっこはこれでお開きだ!」

「クサナギッ!!」

 怒鳴りつけながらツカサは、いつになく挑発しまくっているクサナギの様子に違和感を感じた。まだ短い付き合いだけど、こいつがこんなに感情を爆発させることが信じられなかった。

 それはむしろ人間的な情動にも思えた。

 そう、これは――〝怒り〟?

 クサナギは怒っている。その心当たりはツカサにとってひとつしかなかった。

 目の前に、〝お母さん〟の仇がいるから――。

「ううううううう、おおおおおお、あああああああ!!」

 紘太の絶叫が、金属の塊であるコンテナ内に響き渡る。

 ツカサは思わず耳を塞いだ。それはまるで亡者の声だった。理性がかけらでもある者なら到底出せそうにない、人間が内側から破裂するような雄叫びだった。

 そして紘太が動かなくなる。

「いかん!」

 糸の切れた人形のように床に崩れた少年の身体を、鯨岡は素早く仰向けにして脈を取った。すぐに鯨岡の歯ぎしりの音が聞こえた。

「ショック状態だ……。こいつ、ありったけのクスリをやりやがったな! ツカサ、離れてろ!」

 鯨岡は両手を組み合わせて振り上げ、心臓の上に思いっきり振り下ろした。それが心臓マッサージのひとつだということはツカサにもすぐわかった。それが何度も続くかと思われたが、意外にも鯨岡はすぐに諦めてしまった。

「……ダメだ。骨がもう、ウエハースみたいになってやがる。白蛇!! 管制棟に行ってAEDを持ってこい!!」

 紘太の肉体から魂が抜けてしまった。しかしそれはただ最後の糸が切れただけであって、ツカサがここに辿り着いたときには、すでに死の途上にあったのかもしれない。

 ツカサはそんな風に思おうとした。

 だけどどう考えても無駄だった。

 〝死〟というものが、これほど強力に他人に伝染するものだと思わなかった。災害で生き残った人たちが、強烈な罪悪感で眠れなくなるという話を、これまでは信じることができなかった。しかしいま間違いなくツカサは、ただの物質になってしまった紘太を前にして、そこから放たれた黒いものに全身を刺し貫かれていた。

 ツカサは、震える手で喉をかきむしり、ついに堰を切ったように叫び声をあげた。

「う、うあぁぁぁああっ!!」

 しかしその瞬間、鯨岡がツカサの顔を無理矢理彼の胸に埋めた。そしてあまりにも強い力で抱きしめる。ツカサは苦しくて息ができなかった。鯨岡が自分を殺そうとしているのではないかと思ったほどだ。

「う、うががっ!」

 ジタバタと暴れてなんとか解放されると、ようやく呼吸が戻ってきた。もう叫んだり混乱したりしている場合ではない。ツカサは自分でも驚くほど冷静になっていた。

「大丈夫か」

「う、うん……」

 手練てだれの戦士である鯨岡は、一瞬でツカサの危機を読みとり、過呼吸を防いで生存本能で恐怖を上書きしたのだった。その圧倒的な〝技術〟をツカサは感じ取ることができた。ここは戦場――本来自分のような人間がいてはいけない場所なのだ。

「覚醒剤の過反応だな。まさに自殺行為だ。だが覚えておけツカサ。こういう人間は誰も救えん……。親でも、医師でも、神様でも、だ……」

「……」

 続いてツカサの目からは涙が流れた。でもそれはパニックになって狂ってしまいそうな涙ではなく、ただひたすらの悔しさと切なさが入り交じった、辛口の涙だった。

「あたし、約束したんだよ。糸居くんのお母さんに、糸居くんを連れて帰るって。なのに……」

 鯨岡は黙って首を横に振った。

「隊長!」

 激しくコンテナの扉を開けて、白蛇が飛び込んでくる。そして素早く紘太の服を開き、オレンジ色のケースに入った除細動器で処置をし始めた。

 それを呆然と眺めているだけのツカサにクサナギが告げた。

『こいつが死んでも、死ななくても、オレは認めねぇ。こいつのためを思ってAIが計算をやめりゃいいのか? それでなにが進歩だよ、それでなにが文明だよ。世界が続く限り、宇宙がなくなっちまわないかぎり、前に前に進むのが〝進歩〟だろ。他人の不幸で自分を慰めてるヒマなんかあるかよ!!』

「クサナギ……でもあんたはちょっと、速すぎるよ。あたしだって……たまには止まらないと生きていけない……」

『今もか、ツカサ』

 クサナギの少しだけ低い声が、ツカサの神経に不思議な信号を灯した。

「ううん。あたしまだ……いける」

『そう言うと思ったぜ』

「やるべきこと、あんたにはわかってるんでしょ」

『オレのことがわかってきたじゃねぇか』

 そのとき、コンテナの外からけたたましい足音が聞こえてきた。中を覗き込んだヘンリーが蒼白な顔で鯨岡を見つめている。

「状況は」

 ヘンリーは時々声を詰まらせながらも、強い口調で応えた。

「ろ、ロケットが発射位置への移動をはじめました。管制棟よりの報告では、あらゆる信号を拒絶し、完全な独立状態スタンドアローンにあるとのことです」

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