4.脱出

 白蛇の運転するアウディが長い地下高速を走っている。車は一度地上に出ると、間もなく次のトンネルに入った。

「オレは糸居紘太の居場所――というか、連中の最終目的地を知ってる、って言ってんだ。別に驚くことじゃねーだろ。ここにはどんなセキュリティも突破できる地上最強の電子知性体がいるんだからな」

 鯨岡は足元からクサナギを拾い上げた。まだふたつの靴は紐で結ばれたままだ。

「いちおう聞いてやる。どこだ」

「言うわけねーだろ、バーカ。こいつは取引の材料だ。場所を教えてやる代わりにオレを自由にしろ」

 そこにツカサが割り込んだ。

「それプラス、あたしをここで降ろして!」

 クサナギが迷惑そうなそぶりでツカサを見る。

「ま、まぁそれでいい。どっちにしてもウィンウィンだろ。オレたちは自由になりたい、おまえらはテロを止めたい。ほら、急がないと連中が恐怖の計画を始めちまうぜ。あー、怖いなー。まさかあんなことを計画してるなんてなー」

 わざとらしい煽り文句に、鯨岡の眉間がどんどん狭まっていく。もはや両の眉毛がくっつきそうな勢いだ。

「誰が貴様の手を借りるか。貴様のようなヤツを野放しにしたらテロ以上の脅威になる」

「大丈夫だよ、あたしが見てるもん」

「おまえはまだそんな悠長なことを言ってるのか!」

 その時ふと、ツカサの頭によぎった疑問があった。

「オジラたちはクサナギをどうする気なの? スーザさんのところに戻すの?」

 するとクサナギが身をよじるように紐を伸ばしてきた。

「そんなわけねーだろ。ぶっ壊すんだよ、オレを。こいつらの考えてることは危機管理としちゃ筋が通ってるがな、人間の選択としちゃサイテーだぜ。例の〈クシナダ〉ってコンピューターもこいつらが壊したようなもんだろ!?」

 ツカサは思わず鯨岡の腕を掴んだ。

「ウソでしょ? なんで壊す必要があるのよ! せめて車輪ウィールを取るとか……箱に入れておくとか……」

 発想が完全に靴のしまい方になっていた。鯨岡はツカサの方を見て、静かに首を振った。

「それしか方法はない。言ったはずだ。こいつは存在そのものが脅威だとな」

 ツカサは呆然として視線を泳がせた。クサナギが……壊される。それはスケートが壊れるだけではなく、ひとつの生命が失われるに等しい行為だった。クサナギは、口は悪いが人を心配するだけの心があって、機械のくせに女性のハダカが苦手だという弱点があって、そしてメチャクチャ頭が切れて自分を未知の旅へと連れて行ってくれた。

 AIだからとかいう問題ではない。シンプルにツカサはクサナギという存在を失いたくなかった。〝それ〟は自分の可能性を広げてくれる翼でもある。

「ダメ、返してッ!!」

 ツカサは鯨岡につかみかかり、持ち上げたクサナギに手を伸ばした。狭い社内でもつれ合い、アウディが右に左に揺れまくる。

「ちょっとおふたりさん! ここ高速道路ですよ、自重してください!」

 白蛇の忠告などツカサの耳には届かなかった。

「バカ、やめろよ危ないだろ!」

「やめないかツカサ!」

「うっさい! いいから貸して!! せめてあたしが預かるから!」

「ダメだ!!」

 このわからずや――ツカサはなんとしてでもクサナギを奪い返したかったが、力ずくの勝負に挑むには相手の腕力が強すぎた。昔から鯨岡は馬鹿力なのだ。その過去の仕事を聞いた今なら、彼の身体がやたらガッチリしているのも納得できた。こんなヤツに殴られてよく自分が無事だったと思う。

 しかしここでツカサが奇策を思いつく。

「クサナギ、骨伝導だよ! オジラをくすぐってやって!」

「は、なんだと?」

『おっしゃ、乗ったぜその手!!』

 鯨岡はしっかりとクサナギを握っている。クサナギが本気になったときの骨伝導の不快さ、内臓に虫が走り回るようなあの気持ち悪さは、ツカサ自身の肉体で証明済みだ。あれを食らったらまず身動きがとれなく――。

「ぐ、ぐが、あああああああ」

 奇妙な電子音の連なりが鯨岡の口から漏れた。

「鯨岡さん?」

 白蛇も思わず後ろを振り返る。鯨岡は喉を押さえてうずくまった。インラインスケートがまっすぐ足元に落下した。

 素早くクサナギを掴んだあと、身もだえる鯨岡の方を、ツカサは不安げに見つめていた。

「キサ……ま……ナ、に、ヲ……」

 まるで壊れたラジオみたいだった。電池の切れかけた喋るオモチャと言ってもよかった。鯨岡の声は途切れ途切れで聞きづらく、ノイズと呼吸音がずっと混ざったまま消えなかった。

『わかったぜツカサ。このおっさん、喉が人工声帯なんだな。そこに高周波をぶつけられて機能がイカれちまったんだろ。ざまーねーぜ!』

「え……それで死んじゃったり、しないよね?」

『やられたのは呼吸器じゃなくて声帯だからな。本人にとっちゃえらいパニックだろうが……』

 鯨岡のサングラスが膝上に落ちた。彼はカッと目を見開いて、無我夢中で右手をクサナギの方に伸ばしてきた。なんという執念。

 ツカサは咄嗟に腰をずらして後退したが、もちろんそこには車のドアがあるわけで、一瞬にして追いつめられてしまう。ヒューヒューと空気の漏れる音を鳴らしながら、腕を振り回す鯨岡。めちゃくちゃ怖い。

 ツカサは片手でドアノブを掴んだ。もちろん後部ドアはロックされていた。

「このドア開けて、クサナギ!」

 その声を聞いたのはクサナギばかりではない。

「ダメですよツカサちゃん! いったい何キロで走ってると思ってるんですか! 第一そこの鍵は……」

 もちろん運転席でロックが管理されているのだろう。しかし後部ドアのロックはカシャンと音を立てて容易く開いた。こちらにはこういう悪事に長けたとんでもない相棒がついている。

「あーあ、オレもこういうときおまえがなにを考えてるか、わかってきちまったよ……」

「じゃあ、もうみっともなくわめかないでよね」

「そうは言って……う、うごえわあぁぁぁ!」

 ツカサは後部ドアを勢いよく開け放った。風の抵抗を受けて車が大きく蛇行する。ツカサは迷うことなくそこから外へ向かって身を躍らせた。

 ツカサはすぐさまクサナギをトンネルの天井に向けて投げ上げた。ものすごいスピードで流れ続けるアスファルトの路面がツカサに迫る。

 ツカサが取った行動は、パルクールの高度な受け身技である〝五点着地〟だった。足から腿、腰、背中へと回転しながら衝撃を分散させ、素早く次の行動へと移るためのリアクションである。もちろん時速八〇キロで走る車から降りるのに使ったのは初めてだった。

 結果的にごろごろと三回転したあとでツカサは立ち膝の姿勢になった。着地は成功。見上げると、かなり前方にクサナギが落下していくのが見えた。

「であーっ!」

 思いっきりヘッドスライディングしてスケートブーツをキャッチする。

「ふう……」

「ふう、じゃねーよ!! こ、今度こそ終わりだと思ったぞ、怖かったんだからなぁーーーっ!!」

「さてと」

「聞けーっ!!」

 鯨岡たちの乗ったアウディは、ツカサから見てずいぶん先まで走り去っていた。しかしウインカーをつけてすぐに路肩に寄せていく。後続車はびゅんびゅん走っているが、あの鯨岡のことだ、すぐに追いかけてくるだろう。

 ツカサはコンクリートの柱が立ち並ぶ中央分離帯の上に乗った。まずは安全地帯を確保。

「紐ほどいて!」

 左右の靴を繋ぎとめている紐を、クサナギは速やかに外す。ツカサはそれを素早く両足に装着した。左右のブーツの靴紐は、自動的にギュッと締まってツカサの足首をホールドする。こんな機能もあったのか、と驚く間もなく、鯨岡が後続車を次々と停めながら、こちらに走り寄ってくるのが見えた。ツカサもツカサだが、あっちもなかなか無茶苦茶だ。

「逃げるよ! 〈リニミュー〉の用意はいい?」

「そりゃ、いつでもいけるが……三〇キロだぞ、初速はどうすんだよ!」

 ツカサはアウディから見ての対向車線、すなわち名古屋都心方面へ向かう道路に降り立った。しかしそこは緩やかな上り坂になっている。

「いいの見っけー」

 ニヤリと微笑んだツカサが見つめていたのは、上り路線を向こうから疾走してくる大型のダンプカーだった。

「たまにすれ違うヤツを見てたんだよね」

 ツカサは両手を組み合わせ、首の骨をポキポキ鳴らした。

「ダンプってさ、前輪と後輪の間にぃ……」

 目の前を通り過ぎるダンプに向かって、ツカサはダッシュした。

「なんでか知らないけど、掴むところがあるんだよね!」

 ツカサが飛びついたのは、ダンプカーのシャーシ側面に設置されたサイドガードだった。ものすごい勢いで引っ張られたものの、持ち前のバランス感覚ですぐにスピードに順応する。ダンプカーに相乗りする形で、ツカサはあっという間に時速三〇キロの壁を突破した。

『それ、おまえが掴むためについてるんじゃねーからな』

「でもラッキー、ってことで行ってみようかクサナギくん!!」

『しょうがねーな、行くぞ相棒!!』

 クサナギが〈リニミュー〉を起動する。軽やかにベアリングが回る音がツカサの脳天まで突き抜けた。道路との摩擦係数を自在に操ることによって高効率で車輪に回転を与え、凄まじい高速移動を可能にするクサナギの秘密兵器。

 懐かしい風の感覚を思い出しながら、ツカサはクサナギに訊いた。

「さっきあたしのことさ、相棒って言ってくれたよね」

『……そうだったかな』

「嬉しかったよ、サンキュー相棒!」

『……おまえなんか勘違いしてねーか。オレにとっての相棒は右のブーツのことだぞ』

「はぁぁ?」

 それが本気なのか、照れ隠しなのか、はたまたいつもの意地悪なのかはわからない。しかし次に放たれたクサナギの言葉を疑う必要はなさそうだった。

『でもまぁ、ツカサのことは二番目の相棒ってことにしといてやるよ!』

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