4.失踪

 ツカサはデイパックから替えのスニーカーを出すと、それを履いて糸居家の庭に出た。市役所やスーパーなど、スケートを履いたまま入れない施設は多いので、予備の靴は常になにかしら用意している。このスニーカーは中でも靴底のグリップ力が強くて、外での仕事の時に重宝していた。

 庭から紘太の部屋を見上げると、独立したバルコニーがせり出していた。隣の部屋にはそれがないから、部屋づたいに移動するのは無理そうだった。ちなみに猫のジュリアは人間の気配を察知してどこかに行ってしまったようだ。

「クサナギー、先行ってて」

「へ?」

 そう言うが早いか、ツカサは左足のスケートブーツが入ったデイパックをバルコニーに向かって放り投げた。

「うひゃうあわぁぁぁっ!!」

 悲鳴と共にそれはどさりと柵の内側に入った。口の悪いAIがなにか罵詈雑言を叫んでいるような気もするが、遠くて聞こえない。

 ツカサは庭に生えた手頃な樹木を見つけると、そこから慎重に距離をとった。許可を取らないとまずいかな、とは思いつつも遠慮なくその樹に向かって助走する。

「ていあっ!」

 忍者のように樹の幹を駆け上がるツカサ。二歩ほどで身体の向きが地面と平行にまでなるが、その直前に勢いよく幹を蹴った。そのまま天高く後方宙返りをする。景色がぐるりと反転した刹那、たぐまれな動体視力でバルコニーの柵を目視し、その縁に両手をかけた。

 そのままぐいっと身体を引き寄せ、柵をよじ登って乗り越えた。無事にバルコニー内に着地したあとも、ツカサが踏み台にした樹は揺れていた。ウォールフリップからのキャットリープを交えたパルクールの上級技だ。木の幹でやったのは初めてだけど。

「おいこらクソ野郎! オレの身体をなんだと思ってやがる!! これほどまでに高度で繊細な頭脳に対してなんてずぼらな扱いを……」

「はいはい、カバンに入ってたから大丈夫でしょ。あんまりうるさいと今度は直に投げるよ」

「ぐぎっ……この鬼女が!」

 ツカサは無視して紘太の部屋の窓ガラスを調べた。ガラスが足元にまで伸びた大きな窓だ。部屋の向こうはカーテンでまったく見えなかった。そしてその窓を横に引くと、いとも簡単に開いた。

「開いてる……」

「密室じゃねぇな」

 よくあるミステリーとは違うようだった。シンプルな状況が逆に異様だ。

 心臓の鼓動が早まるのを感じつつ、ツカサはガラスの向こうのカーテンを開いた。

 無人の部屋がそこにあった。

 年頃の男の子の部屋を覗いているという背徳的な感覚はすぐに消えてしまった。そこは蒸し暑く、異臭がして、そして必要以上にものが散らかった廃墟のような有様だった。病的ななにかを感じざるを得ない。

「ツカサ、おまえ死体の臭い嗅いだことあるか?」

 クサナギがとんでもないことを訊く。

「あ、あるわけないでしょ!」

「残念ながら俺様には化学物質を分析する機能がない。これが失踪事件なのか殺人事件なのかはおまえの見識にかかってるってわけだ」

「怖いこと言わないでよね……」

 確かにそれは事件だった。だが、最悪の事態は避けられたらしい。足で着替えや本などを掻き分け、唯一の収納であるクローゼットを開けてみたが少なくとも死体はなかった。そして紘太がどこかに隠れていることもなかった。紛れもなく彼は、この家から姿を消してしまったのだった。

「あいつ、こんなの好きだったんだ……」

 壁に貼られていたのは外国のロックバンドのポスターだった。アニメも好きだったのだろうか、机の上に小さなカプセルトイが並んでいる。キャラ名まではツカサにはわからなかった。本棚にはマンガなどはなく、難しそうな科学系の雑誌や本が並んでいた。計算が好きな紘太らしく、専門的な数学の本も多かった。

「やたらと箱が積んであるな。なんだこりゃ」

 部屋の片隅にはさまざまな大きさの段ボール箱が積んであった。その下には畳まれた段ボールがかなりの量たまっている。ツカサの部屋も油断するとすぐこうなってしまうから見慣れた景色ではあった。

「あぁ、たぶん通販の箱だよ。部屋にいればなんでも届くんだもんね。引きこもりには楽な時代だと思うよ」

 かといってツカサには決して真似できない生活である。果たして紘太は好きでこんな生活を続けていたのだろうか。誰しもが外の空気を吸って、自由に体を動かすのが好きだというのは幻想なのだろうか。

「あ、お母さんを呼ばないと」

 ツカサがドアに向かおうとすると、クサナギが急に声を出した。

「ちょっと待て。あの母親には刺激が強すぎるかもしれないぜ」

「そんなこと言ってもさ、親なんだから部屋を見る権利が……」

「そういうことじゃない。紘太ってヤツがどこに行ったか気になって、いま家の前の防犯カメラをチェックしてたところだ。そしたらな……」

「はぁ?」

 ツカサはデイパックの中を覗き込んだ。伸びたシューレースの先端がひょいとツカサの方を向いた。なんだか顔を突き合わせているような感覚になるから不思議だ。

「防犯カメラって、そんな簡単に見られるもんなの?」

 さすがに違法な臭いがして、ツカサは問いただした。

「あんなチンケなセキュリティは障子しょうじと一緒だ。カギもなければオレを隔てているファイアウォールも紙一枚に等しい。侵入するのは雑作もないね」

 完全にアウトだ。こいつはとんでもないAIなのかもしれない。が、ツカサはクサナギが言いかけた言葉も気になっていた。

「で、なんなの?」

「ふむ。あの母親が最後に目撃した昨夜八時から、オレたちがこの家を訪れるまでの十三時間四〇分の間の記録を速攻チェックしたところ、紘太ってヤツはどこにも映っていない」

「ええっ?」

「もちろんカメラには死角がある。そこで、この住宅地周辺のあらゆるカメラを民間公共問わず確認してみたが、やはり糸居紘太の姿はない。徒歩だろうと自転車だろうと、道路に出ればいずれかのカメラに捉えられるはずだ」

 ツカサにはいくつか驚くことがあったが、いちばん基本的なことを訊いた。

「あんたがなんで糸居くんの顔とか知ってんのよ」

「オレを甘く見るなよ。この部屋の壁にかかってる制服は、当然そいつの通ってる学校のだろ。その特徴から高校を突き止め、生徒名簿ファイルに侵入し特徴をインプットするのに二秒もかからん。オレ様が誇る一〇〇〇ペタフロップスの計算のうりょ……」

「は、犯罪じゃん!」

「ククク……人間ならな……」

 急にテレビゲームの魔王みたいな口調になるクサナギ。ツカサはだんだん恐ろしくなってきた。本格的な厨二病な上に本格的なハッカーだこいつは。

 靴の持ち主として犯罪行為をやめさせるべきだろうか。ツカサは少しだけ悩んだが、今は緊急事態だと割り切ることにした。

「その映像、あたしも見れない?」

「なんでだよ。まさかオレの能力を疑ってるのか?」

「確認したいじゃん、一緒に。だいたいあんたさ、さんざんあたしに失礼な態度取っておきながら、信用されてると思ってるわけ?」

「……しょうがねぇな。まずはこの汚いカバンからオレを出せ」

 汚いは余計だ、と思いつつツカサはクサナギを引っ張り出した。

「携帯電話持ってるか?」

「ああ、うん」

 ツカサは腰のポーチからスマホを取り出す。するとクサナギはシューレースをするすると伸ばしてスマホ本体の充電用プラグに入れてしまった。

「ちょっと、そんなの突っ込まないでよ!」

「っせーな。これは布製の紐に見えるかもしれないがな、中に金チタン合金を編み込んだ万能アクセスケーブルだ。オレが処理したデータをこの画面に映してやるからありがたく鑑賞しろ」

 合金のケーブル? データを映す? ツカサには理解しがたい言葉ばかりだった。だが今は素直にクサナギの言うことに耳を傾けることにした。

「ほらよ」

 スマホの画面に、解像度の低い映像が早回しで流れはじめた。それは紛れもなく防犯カメラの映像だった。表の電柱にくっついているやつだろうか、糸居家の玄関周辺がよくわかる俯瞰ふかん映像である。

「なーんにも起こらないね」

「朝方になれば新聞配達とか通勤の車だとかが通り始める。それまでに唯一動きがあったのはここだ。PM九時三五分。一台のトラックが家の前に止まった。再生速度を標準に戻すぞ」

「ホントだ。これ宅配便の車だよ。サカモト急便だ」

 坂本竜馬がダッシュするイラストが特徴の、見覚えのあるトラックが家の前に止まっていた。トラックと言っても宅配便用にカスタムされた大型のバンである。

「可能性があればこれだな。後部貨物ハッチは死角になっていて開いたかどうかわからない」

 この車がなにか鍵を握っているのだろうか。映像の中では、ドライバーが車を降りて、糸居家の玄関チャイムを押していた。

「あれ?」

「どうした」

「ううん、気のせいかな……。このひと荷物を持たずに玄関に向かったから、変だなと思って」

「……言われてみればそうだな」

 ツカサは軽く首をひねった。どんなドライバーだって荷物を抱えてチャイムを鳴らす。玄関を開けると、宅配物を持ったお兄さんが息を切らして立っているのが常だった。例外があるとすれば、冷蔵庫くらいの重い荷物だと先に在宅の有無を確認することもある。

「このドライバー、糸居紘太の母親になにやら頭を下げて、運転席に戻って車を発進させている。意味はわからん」

「配達先を間違えたのかなー、それか、道を聞きに来たのかも。まだ新人さんで」

「どちらにしろそんな呑気な――むっ!」

 急にクサナギがなにかに反応した。ツカサはびくりと肩を震わせた。

「なに?」

「ツカサ、今のを見たか? 運転手が席に戻る直前、まだ車のドアに手もかけていないときだ」

「え、なんにも見えないけど」

「なにかが現れたわけじゃない。変化を感じろ。この車の貨物ブロックが一瞬だが沈み込んだぞ。ほら、よく見とけ!」

 クサナギはAIらしからぬ興奮ぶりで、何度も該当箇所を再生した。そしてその興奮はすぐにツカサにも伝染した。

 ――本当だ。

 それは言われなければわからないほどの些細な変化だった。そういうところを事細かに観察できるのは機械のいいところだろう。海外では、AIが事件現場の映像解析に使われている。そんなテレビ番組の受け売りをツカサは思い出した。

「で、どういうこと?」

 肝心なところがツカサには抜けていた。

「アホかおまえは! 誰かがこの隙に車に乗ったんだよ。そしてそれがおそらく糸居紘太だ!」

「え、まさか!?」

演繹えんえき法で行くぞ。状況証拠だが事実を積み上げてみろ。午後八時以降に糸居紘太は部屋から消えたが、防犯カメラのどこにも姿は映っていない。糸居家の前で紘太を積み込める可能性のある乗り物は、今のところこの車だけだ。だから糸居紘太がこの車に乗ったと考えて間違いない」

 ツカサはごくりと喉を鳴らした。

「つ、連れ去られたってこと!?」

「わからん。だがおかしいのはここの窓が開いてたってことだ。自分から外に出て乗った可能性もある」

「じゃ、家出? 一年近くも引きこもってたのに、一念発起して宅配便の車で家出したの?」

「そんなこと知るか!」

 ツカサは自分の言ったことの不自然さを重々承知していたが、かといってクサナギの説もいまいち信じ難かった。しかし最悪の状況を考えたなら、これは単なる失踪事件ではなく、誘拐事件の可能性まで出てきたのだ。

 真相がはっきりしないまま、ふたりの推理は一段落する。ツカサはようやく部屋のドアを開けて、廊下にいた紘太の母親を招き入れた。

 そこに息子がいないことを知って、彼女は力無くくずおれた。

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