第1章 ヘイトフル同居人

1.ツカサ

 戸籍なし、両親不明、国籍不明。

 出生日不明(概算十六歳)、混血児で女性、最終学歴中学校卒で独立事業主のなんでも屋――。

 それが鯖城さばしろツカサのせいいっぱいのアイデンティティーだった。

 ツカサは走るのが好きだった。というより、前に進むのが好きだ。でも陸上競技とかのストイックに記録に挑む運動は、ツカサの考える〝前に進む〟という概念とは少し違っていた。だって、あれは走るたびにスタートラインに戻らなければならないから、なんだかんだ言ってずっと前には進んでいない。

 ツカサはどんどん前に進んで違う場所、まだ見ていない場所に行ってみたいと思っていた。だけど住んでいる世界から遠ざかるには時間もお金も必要だった。というわけで、籠のような街の中で今はお金を稼がなければならない。どうせならクルマとかバイクとかを颯爽と駆って格好いいお金の稼ぎ方をしたいのだが、ツカサが誇るあやふやなアイデンティティーでは原付の免許を取ることさえできない。

 そこでツカサが選んだのはインラインスケートだった。片足に四輪ずつ、細い車輪のついたレジャー用のスケート靴。〝仕事〟の時はそれで街中を駆けめぐる。

「待ぁぁってぇぇぇ!」

 この日もまたツカサはあるターゲットを追って狭い路地を疾走していた。そのターゲットを確保し、無事に依頼主に届けるのがツカサの任務だ。しかし〝対象〟の失踪からすでに一週間もの時間が経っていた。数少ない情報からようやくその姿を捉えた今日、確保をしくじるわけにはいかない。

「ふえぇ、おなか減ってるはずなのに速いなぁ……」

 ターゲットは屋根を飛び越え、住宅の庭だろうとどこだろうとお構いなしに侵入する。だけどそこには〝縄張り〟という制約もあって、その行動範囲は見えない壁に囲われたように絞られてくる。ツカサに追いかけられながらも、ターゲットはその行動範囲をぐるぐるとめぐるだけなのだ。

 ツカサは走るターゲットを見失わないように、必死にその後をついていった。そのためにはただ道路を走っているわけにはいかなかった。公園の柵を跳び越え、時には塀を駆け上がって私有地にも入る。急な方向転換には壁を蹴って向きを変える。物干し竿にぶら下がり、生け垣の下をかいくぐり、すれ違う自動車の間をすり抜けながらスピードを速める。

 それをインラインスケートのままこなすのだ。そのためにツカサは、〝パルクール〟と呼ばれる身体操作法を身につけている。

「ごめんね、よるちゃん。そこにいてね~」

 ターゲットの名前は〝よる〟ちゃんという。

 その実それはマンチカンという品種の子猫だった。足の短い品種だからとツカサは舐めてかかったのだが、さすがに四つ足の動物を追いかけるのは骨が折れた。しかしなんとかして相手の動きを止めることに成功した。――単にバテさせただけだけど。

 よるちゃんは高台の下の道路に座り込んでいた。その向こう側は幅の広い用水になっている。一方ツカサがいるのは高台の上だ。道路には長い階段が続いていて、そこをスケートでくだるのは難しい。

 たくさん走らせたせいか、よるちゃんの体力は限界だった。自分の地位を確立していない子猫が、野良となってエサを確保することはとても難しい。空腹に違いないよるちゃんは、道に伏せて目をつぶっていた。これなら簡単に捕まえられるだろうと思って、ツカサはスケートを脱ぐことにした。

 ところが――。

 道路の向こう側から軽トラックが走ってくるのが見えた。もともと一車線ほどしかない狭い道で、しかも川に沿ってカーブしており、ちょうど猫のいる位置は死角。ツカサは眼を見開き息を呑んだ。

 判断は素早かった。スケートブーツを脱ぐのはやめ、道路に背を向けると階段中央の手すりに指をかけた。

 ツカサは一八〇度回転しながら脚を振り上げ、低い姿勢で手すりに飛び乗った。銀色に光るステンレス製の円筒の手すりだ。それを両足の車輪で挟み込むようにして確保し、重力に任せて滑り降りていく。

 手すりには二カ所、切れ目がある。むろん、平静な気持ちではなかった。心臓がドカドカ太鼓を鳴らす中、タイミングを合わせて跳び上がる。一度、二度――最後は左右に大きく体がぶれたが、もはやスピードは収まらなかった。

 軽トラックが迫る。あと五メートル。運転手が気づく気配はなかった。よるちゃんはいち早く危機を察したが、多くの子猫がそうであるように、身がすくんで満足な反応はできない。

「てああぁぁぁっ!!」

 そこにツカサが飛び込んだ。よるちゃんを掴んで抱えると、足を開いてターンする。もちろん、軽トラックは目前に迫っていて、ブレーキが間に合う距離ではなかった。

 ブレーキをかけたのはツカサの方だ。だけど狭い道路ですれ違える余裕はない。踵のパッドで道路を打ちつけ、慣性がかかるままに背後にのけぞる。ツカサはそのまま、バック宙で川側のガードレールを飛び越えた。

 青空に浮かぶ雲がびゅんと通り過ぎて景色が上下反転した。あんぐりと口を開けるトラックの運転手。けっこうそういうのって視えるもんなんだな、とツカサは感心した。

 猫を抱えたままに用水に落ちたツカサは、そこから道路に這い上がるのに十五分もかかった。



「わざわざ申し訳ないんですけどねぇ……その猫探しの広告って、娘が出したものなんですよ。私はなんにも知らなくって……。あとその猫ちゃんって本当にうちの子なの?」

 ツカサはよるちゃんを抱いたまま、濡れた服も乾かぬうちに依頼者の自宅を訪問していた。

 ところが身なりのいいご婦人は子猫を受け取ろうとしなかった。汚れたツカサの顔とびしょ濡れの猫を交互に見比べながら、しきりに目を泳がせて困り顔をしている。

「え、でしたらその娘さんに……」

「ただねぇ、どうにもその子に見覚えがなくって。やっぱり間違えてるんじゃないかしら。ごめんなさいねぇ」

 女性の背後からはいくつもの猫の鳴き声が聞こえた。それもまだ小さい子猫のような。

 よるちゃんは、といえばツカサの腕の中ですやすやと眠っている。犬のようにしっぽを振って主人に飛びついていけばいいのだろうが、猫にはそんな習性はない。

「じゃあね、すいません。ペット探しの依頼は取り下げておきますから」

 そう言って婦人は玄関のドアを閉めてしまった。

 ツカサは呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ツカサにはなんとなく事情が飲み込めた。きっと女性の家では子猫がたくさん産まれてもらい手に困っていたのだろう。捨てた、ということはないだろうが子猫が脱走したのをいいことにその行方については無視することにしたのだ。だけどこの家の娘さんがペット探しの依頼を出してしまった。

 ツカサはさっきのご婦人が自分の顔をまじまじと見ていたのを思い出す。用水に落ちたそのままの身なりで行ってしまったのは失敗だが、それ以上にツカサの顔立ちに不審なものを感じていたのは明白だ。明らかに日本人とは違うこの顔に――。

 結局ツカサはよるちゃんを家に連れて帰ることにした。

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