1-3 GDCのキャスター

「それでは今日も元気に行きましょう。グッデイセントポール!」

 アリシアが笑顔で締めくくると、曲を流す間をたっぷりとってからディレクターのOKサインが上がった。生放送特有のぴりついた空気が一度に緩み、互いを労う声が飛び交う。CNC社の朝番組、GDC(Good Day Centpore)は今日も快調だ。

 Aスタジオのセットを離れるキャスターにADがミネラルウォーターを配っていく。癖のある栗毛をヘアバンドで纏めた若いADだ。同僚である彼は、大きく伸びをしているアリシアの目の前にも一つ置いた。

「おつかれ、アリシア」

「ありがと、KJ」

 アリシアはすぐに蓋を開けて乾いた喉に流し込んだ。昨夜の騒動のせいか、水分補給のペース配分が乱れて番組終盤は手持ちのミネラルウォーターが空になっていたのである。生き返るようで、しみじみ味わう。

 KJはにこやかに、堂々と、アリシアに話しかけた。

「ところで……朝帰りだろ、お前」

「ごふっ」

 むせた。

 きったねえ、とKJが一歩下がる。誰のせいだと言い返してやりたいところだが、咽込んで出来ない。アリシアは素早く左右を確認して、どうやら誰にも聞かれていないようだったのでKJの腕を引っ張った。只事でない雰囲気だが周囲の目は温かい。仲のいい同期がまた何かやっている、くらいの認識だ。

 素早くAスタジオを出てすぐの機材室にKJを連れ込み、しっかりと鍵をした。ラベリングされた棚にカメラや音響機材が並び、窓がないので明かりをつけても薄暗い。

「なんだよ、そんなに焦ることかあ?」

「焦るでしょうよ誰だって! ていうか何なの、そのデマは」

 アリシアは語気も荒く、ピンときていないKJに詰め寄る。頭の片隅で朝の光景を思い出し、羞恥でどうにかなってしまいそうだ。

 昨夜、ベイサイドガーデンで一眠りした後はタクシーを捕まえて家に帰り、そのまま出勤する予定だった。だった、と過去形でしか言えない。目覚めると見知らぬ部屋の温かなベッドの上だったのだ。訳も分からずお洒落なベッドルームを出るとリビングのソファで昨夜の王子様が眠っていた。なんと夢ではなかった。しかしすでに出社時間が近く、礼も言わずに飛び出しだのが今朝のことだ。デマも何も、正真正銘の朝帰りである。

「いや、タクシーで出勤するとこ見たし。いつもは徒歩じゃん」

 KJはにべもなく続ける。

「いかにもいいレストランに行ってきましたって服だったし」

 出社して真っ先に着替えた服も目撃されている。

「あ、あと鞄もいつものやつじゃなかったよな」

「……もういい、もういい!」

 アリシアはKJの口元に手を伸ばし、物理的に言葉を止める。

 まさかすでにチェックメイトだったとは。観念してがっくりと肩を落とした。

「……他の人には?」

「言ってない。嫌なら黙っとくよ」

「う~、ありがとKJ」

 KJはいきなり口を塞がれたのに、気を悪くするでもなく笑っている。ちょうど着信が入ったようで、機材室の奥側に身を寄せた。アリシアに向けられた背中は、大型の機材に囲まれて狭そうだ。話し口は社外の相手に対するものだった。

 忙しいのに引き留めてしまって申し訳ない気持ちが湧く。アリシアだってむやみに口封じをしたわけではない。キャスターとして外聞が気になったし、昨夜どこを出歩いていたのか追及されたくはないし、朝帰りだと噂されることで恋人を作るチャンスをみすみす逃してしまうかも知れない。でもそういった正論の中に、自分の尊厳を守りたかっただけという本音を隠していた。

「……先にオフィス戻るわね」

 機材室の鍵を開けて、KJに身振りして見せる。伝わったと思ったのだが扉を開けたところで呼び止められた。

「アリシア、携帯持ってる?」

「今? ……ロッカールームに置き忘れてるかも」

 仕事中はポケットに入れているのだが、探ってみると空だった。オフィスに戻る前に取りに行こう。

 KJは呆れた顔で、耳に当てていた携帯をアリシアに押し付けた。

「何よこれ」

「昨夜のお相手……っとに気をつけろよ?」

「はあ?」

 画面を見ると通話中と表示されている。しかも相手はアリシア=ポートレイだ。手元にない携帯、KJへの着信、おまけに“昨夜のお相手”。容易く一つの糸に繋がった。

「っ! もしもし!」

『ああ、近くにいたんだ。こんにちは、昨日の者です……って、分かる?』

 信じたくないが、携帯から昨夜の王子様の声がする。何というか、声までかっこいい。

「……ええ」

 渋面を作ったアリシアに、KJが身振りで先に戻ると伝えた。すっかり立場が逆転してしまい、一人ぽつんと機材室に残される。

「今朝はお礼も言わずにごめんなさい。早朝だったから、起こすのも悪いかと思って……」

『いや、いいんだ。俺こそ勝手に連れ帰ってごめん。ベイサイドガーデンは不審者も多いから、寝てる女性を放っておけなくて』

「……いいの。軽率だったと思ってる」

 連れ帰って、ということは目覚めた部屋は王子様の自室で間違いないようだ。K&K本社ビルから近い、ビクターズベイの……つまり一等地の高級マンションだった。

「私、部屋に携帯を忘れてたのね。全然気づかなかった」

『それもごめん。充電してあげようと思って鞄から取り出してたんだ。本当に余計なおせっかいだった』

 電話口からでも分かるほど王子様の声は弱弱しく、何だか情けなくってアリシアはついつい口元に笑みを浮かべた。アリシアに返すために、わざわざリダイヤルからKJの携帯にかけてくれたのだ。

「顔認証と暗証番号はどうしたの?」

『ダメもとで顔写真を使ったらいけちゃって』

「えっそうなんだ」

『そうらしい。俺が言うのもなんだけど、ポートレイさんは顔認証を切っておいた方がいいんじゃないか』

 どうやらキャスターであることも知っているらしい。

「アリシアでいいわ。あなたは……」

『マークだ。よければ返すついでにランチでもどうかな』

「……、いいわよ」

 ほとんど初対面かつ電話越しでは、善意なのかチャラいだけなのかいまいち分からない。だがきちんとお礼をしておきたいので、二つ返事で待ち合わせの約束をしてから電話を切った。

 暗くなった携帯のモニターに、にやついた自分の顔が映っている。異性とランチなんていつ以来だろう、と思い返して、そういう意味で楽しみにしている自分に気付いた。別に王子様を狙っているわけではないが、何かが満たされた。



 正午のベルが、アリシアの定時である。通常勤務の社員がランチタイムに向かう中、すっかり冷めたコーヒーを流し込んで、帰り支度を整える。同じく定時になったKJはまだ机の上で書類を作成していた。もう少し残業していくようだ。

 立ち寄ったロッカールームで化粧と髪型を整える。よれたファンデーションをカバーして、口紅は鮮やかなピンク系から肌馴染みのいいブラウン系に変えた。次はキャスターアリシアのトレードマークを落としていく。すなわち、頭の上で纏めたお団子を崩してオイルで整え、ボストン型の眼鏡をケースにしまった。ほんの少し手を加えるだけで、オンエアとは全く異なる印象の女に仕上がる。本来ならさらに私服に着替えて帰宅するのだが、今日の私服はマイクと出会ったときと同じなので仕事着のまま退社した。

 通りでタクシーを捕まえ、混雑している道路をビクターズベイ方向に進む。アリシアはきつい空調を浴びながら、車窓ごしに高層ビルが並ぶ通りを眺めた。ビクターズベイには幾多もの大手企業が拠点を置いている。K&K社もその一つであり、インペリアルホテルは彼らが接待に使うホテルでもある。

 横目に見えた三十三番通りの交通規制はもう解除されていた。警察によりどの程度の調査がされたのか、興味はあるが今は考えたくない。飛び交うドローンをぼんやり眺めてシートに体を沈めた。

 しばらくするとタクシーは高級志向で有名なファッションビル前で停車した。

「お客さん、ここでいいかい」

「ええ、ありがとう」

 アリシアはクラッチバックを探り、そういえば携帯が無いのだったと思い返して現金で支払った。運転手はアリシアと目を合わせることもなく発車して、さっさと次の客を探しに行く。アリシアには気付かなかったようだ。

 ファッションビル前の近代アートの彫像は待ち合わせスポットである。携帯を片手に時間を潰す人の中にマークの姿があった。ジャケットは淡いチェックが入ったグレーで、長い腕に十分な袖があり、肩から腰にかけてのシルエットを美しく見せる。——オーダースーツだ。それも、いい生地を使っている。よく手入れされた革靴、昨夜も見えた高級ブランドの腕時計、爽やかにセットされた黒髪、それから人当たりの良さ——営業職っぽいな、と察した。

「待たせたかしら」

 アリシアは小走りで近寄り、待ち時間でさえ優しそうな表情をしているマークを覗き込んだ。不意を突かれて丸くなった目が、柔らかく細められる。

「アリシア! ……ビクターズベイまで来てくれてありがとう。俺がCNC社に行ってもよかったのに」

「冗談でしょ。迷惑かけたのはこっちなんだから」

「ありがた迷惑だったのはこっちだろ」

 マークは謙虚に頭を下げた。それがあまりにも申し訳なさそうなので、ついつい吹き出してしまう。

「やめましょ、お腹が減ったわ」

「……俺も」

 行こうか、とマークは頬を緩め、二人並んで歩いた。

 道を歩くとすぐに、周囲の視線が向けられていることに気が付いた。アリシア自身、それなりに顔が知れているとはいっても明らかに普段と違う。主に女性からの、色で言うとピンクの視線である。成程、まさに王子様というわけだ。

 マークが案内したのはクラブハウスサンドが有名なカフェだった。ランチタイムで混雑する店内で窓際の二人席に案内され、予約席の札が店員に回収されていった。根回しまで完璧で、手腕に惚れ惚れする。

「ここ来てみたかった店だわ。ありがとう」

 チェーン店でもよかったのに、というのも野暮な気がしてアリシアは素直に礼を言った。

 謎の好待遇を受けており、謎の好意を向けられている。正面に座ると明白だった。

「まあ……話せるのが嬉しくて張り切っちゃったよ。断られてもおかしく無いだろ」

「恩人を無下にはしないわよ」

「ふふ、ありがとう」

 マークはにこにこと楽しそうに目を細めており、疑惑は確信に変わった。オフのアリシアに街中で声をかけてくるような、ある種の善良なる市民の共通点だ。

「……もしかして、私のファンだったりするのかしら」

「えっ」

「……」

「えっと……」

「……あ、ちょっとまって心が折れそう」

 アリシアは両手で顔を覆い、心の平穏を保った。

 きょとんとした表情で察してしまった。こんなに恥ずかしい誤解はない。顔に熱が集まるのを自覚しながら、指の隙間からマークの様子を窺う。先ほどよりも少し意地悪に笑っていた。

「何隠れてるんだよ」

「っ違うの。だってほとんど初対面なのに好感度が高かったから、そうなのかなって! 自意識過剰だわ、お願いだから忘れて」

「……わ、忘れられないよ」

 マークの声が震えている。何なら肩も震えている。くっくっく、と堪えきれない笑いが溢れて、ついに隠しもしなくなった。

 眉を下げながらも怒るに怒れず、アリシアは再び両手の中に真っ赤な顔を収めた。大丈夫大丈夫、と宥めるようにしてマークの手のひらがアリシアの両手を顔から引きはがしにかかる。

「やめてよ!」

「ほら、たった今ファンになったから大丈夫」

「なにが!」

 結局、根負けして外した両手で頬を扇いだ。微弱な風で熱を冷ます作戦に切り替える。

 子供のようなやりとりを、マークは楽しんでいるらしい。王子様のようだと思っていた笑顔は、いつの間にかもっと意地悪な、リラックスした、そして強烈に魅力的なものに変わっていた。

 マークはひとしきり笑ってからじっとアリシアを見つめ、首を傾けた。

「テレビとは結構印象が違うよね」

「よく言われる。まあ、髪とか眼鏡とか……服装と化粧も変えてるしね」

 ミントグリーンの縁をしたボストン型眼鏡と頭の上でまとめたブロンドのお団子はキャスターアリシアのトレードマークだ。セルフブランディングとして、視聴者に印象付けるために行っている。そして同時にプライベートを守るためでもある。現にカフェの店員も客も、タクシー運転手もアリシアには気付かなかった。マークのように気付く人間は少数派だ。

 しかし納得いく答えではないらしく、マークは眉をひそめる。

「見た目だけの話じゃなくって、なんというか……」

「何?」

「親しみやすいというか……」

「意外と普通もよく言われるけど」

 実際普通なのだから当たり前だ。有名ではあるが、アリシアはただの会社員であって女優でもアーティストでもない。オーラがあろうはずもない。

 明るい、楽しい、元気、とぶつぶつ呟いて言葉を探していたマークは、はっとひらめいて人差し指を立てる。

「かわいい、だ」

「へっ⁈」

 アリシアの声は見事に裏返った。

 くっくっく、とまた笑われた。少し意地悪な表情で、けれどまっすぐにアリシアを見つめる。

「なんかかわいいな、アリシア=ポートレイ」

「に、二回も言わなくていいから」

 危うく心臓が止まってしまう。もっと自分の容姿に自覚を持って貰わなくては。お世辞にしろごますりにしろ、何でもない言葉に浮かれる程度には単純なのだ。

 一方で、冷静な自分が女慣れしているだけだと判断を下す。初対面でも会話を楽しめる余裕も、不快ではない距離の取り方も、経験によって身につくものだ。そして営業職と仮定して、仕事一本で会得したとも思えない。

「……モテるでしょ」

 じと、と見上げると、マークは動揺することもなくコーヒーカップを口に運んだ。

「アリシアには魅力的に映ったってこと? それなら嬉しいんだけど」

「うわ」

 なんて奴。アリシアは息を吐いた。やれやれだ。さらっと言ってのけるのは、モテる男の反応でしかない。

 アリシアに向けられていた謎の好感も、蓋を開けてみればマークの標準装備だったわけだ。つまり自意識過剰になった責任は、どちらかというとマークにあるではないか。

「……私に興味ない癖に」

 ぼそりと呟いた憎まれ口をばっちり拾って、マークは不思議そうにした。

「毎朝元気をもらってたのは事実」

「……!」

「うん、美味しい」

 なんて奴、なんて奴だ。アリシアの精神を乱しておきながら、平然とコーヒーの感想を呟いたりして。

 毎朝元気をもらっていたなら、そんなの十分ファンではないか。

 アリシアはついに何も言えなくなってしまった。完敗だ。俯いて目の前のクラブハウスサンドに集中する。そして邪念を誤魔化すように一口齧った。あまりに美味しくて顔を上げると、マークと目が合って味が分からなくなってしまった。

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