千慧里

1 新妻

明煌めいこうと、初めてのふたりの夜を過ごしたあと、まだ朝は遠い時間なのに、隣で寝ていた彼がそっと出ていったことに、千慧里ちえりは気づいていた。


自分の生まれ故郷を離れ、隣国の皇太子の妻になった自分には、彼しか頼る人はいなかったのだが、ふたつ下の若い夫は、自分をどう扱っていいのか困っているようだった。


最初の三晩は、婚儀のしきたり通りに毎晩紅梅こうばい舎に来たが、食事をしただけで帰っていった。

まだこの国をよく知らない千慧里も、その方が良かったのだ。

その後ふた月くらいは、こちらの王宮での生活に慣れるためのあれこれで、すぐに過ぎていったからだ。


三晩のしきたりが終わった後、彼は昼にここを訪れることはあっても、夜は寄り付かなかった。

そうやってもう、三月は経っている。今夜のことも、こちらから誘わなければ、こうはならなかっただろう。


…でも、良かった。お母さまの心配していた通りだった。

千慧里は、嫁いできた日よりふた月ほど前の出来事を思い出していた。


 * * *


生まれ故郷の頼静らいせいは山に囲まれた国で、豊かな山の恵みが町を潤していた。

民たちは狩りをし、山からとれる樹木や蔓を製品にし、果物を採っては、近隣の町と商いをしていた。


男子は物心ついたころから弓矢がおもちゃで、明煌の年頃になれば、多くの若者が大人と共に山に入って狩りをし、自分が仕留めた獣の毛皮を着ている。

勇ましいことを誇るためだ。


それなのに、この国は険しい岩山を背にしているので、狩猟の文化はあまり発達せず、民は野菜や果物を栽培し、家畜を飼って生活している。

農業以外には、陶器や飾り物を作るなど手仕事が盛んで、書物も盛んに作られており、自国より文化の水準も高いようだ。


…みんな、大人おとなしい。

王宮でひと月あまりを過ごし、その後は自分が行けそうなところを散策してみたり、用意されていた書画を見たりして思ったことが、それだった。


王族と呼ばれる人たちも、そこで働く人たちも、みな品が良く、落ち着いている。

実家の父王の宮殿では、毎月朔日に命をもらった動物たちを供養し、山の恵みに感謝する儀式が開かれ、式の終わった後は賑やかな宴会になるのが常だった。


父王も母妃と、兄弟たちと一緒に酒を飲み、料理を食べながら舞や音曲を楽しむ。

自分もさまざまな舞を習い、両親の前で披露することもあったが、こちらの国で、そんな機会は来るだろうか。


「…お父さまは、気にしていないようだけど、あなたには話しておきたいことがあるわ」

彼女の国である頼静と、暁映ぎょうえい国及び冬月とうげつ国との和解により、それぞれの皇子に違う国の姫を嫁がせる、というしきたりができて十年。


彼女には男の兄弟がふたりいたが、姫は自分だけだったので、いつか自分が他国に嫁ぐことになる、とは小さいころから聞かされていた。

相手が暁映のふたつ下の皇太子に決まり、彼が元服するまで待ってほしい、というあちらの国の意向により、自分が十八になるまで待たされていたことは、暁映国への大きな貸しになったはず、と周りは言っていた。


「あちらには、正妻のほかに側室を持つことが許されているのは知っているでしょう?」

千慧里の国では、正妻に跡継ぎがいなければ、親戚から皇太子を立てることになっていたが、今のところ、そういった例はなかった。

歴代の王には、それぞれ皇子が生まれていたからだ。

しかし、彼女の嫁ぐ国は、何かあったときのために、常時複数の皇子がいるのが当たり前となっていて、今の王にもふたりの側室がいると言う。


「あなたはこの国の王女だし、正妻として大事にしてもらえるとは思うけど、自分の身分を安定させるためには、やはり、早く皇子みこを授かることが大切なのは分かるわね」

王宮で大切に育てられた身であっても、母妃の言いたいことは理解できた。

女子おなごは、一度身ごもって子を産むまでに、十月十日かかる。

もし、最初に姫が生まれたら…。それはそれで嬉しいことだけど…、やはり皇子を授かるまでは心配だわ」


それは分かっているけど…。

いったい母はこの先、何を言おうとしているのか、千慧里には予想もつかなかった。

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