第7話 南無阿弥陀仏

 夜の7時を過ぎた時間に、依頼人の横田麻里よこたまりが来た。横田は仕事後そのまま直接向かうので6時前には着くと言っていたが、夕方6時になってもまだ来なかった。昨日あんなことがあったので、家に閉じこもって出て来れないのかもしれない、と蓮実が心配していた。こちらから連絡して無理に催促するのもはばかれる。

 ここは静岡の山の奥だ。もしかしたら道中で事故にあったかもしれないからと電話しようとしたところ、暗い表情で彼女は現れた。

 当人は盗撮することを承諾していたのだから、あの映像を俺たちに見られることは承知しているはずだ。実際は音声だけで映像には映っていなかったことまではまだ知らないから、自分のあんな場面を俺たちに見られたことで、ここへ来ることを躊躇していたのだろうと思う。


 案の定、彼女は開口一番に、


「みなさん、見たんですよね」


 と顔を伏せたまま掠れた声で言った。

 天馬は知らないフリをして、興味津々で目を丸くしている一休を連れて、その場から立ち去った。俺はそれについては返事をせず、どうぞ、と蓮実の待つ『カルマの部屋』へと案内した。長い廊下を本堂を通り過ぎると2つ応接室がある。奥の方が『カルマの部屋』だ。

横田は俯いて小股でついてくる。朝早くから毎日磨かせられている廊下だ。裸足の俺は大丈夫だが、彼女はタイツを履いているから滑る。彼女の歩きが遅いため振り返ると、すみません、と少し小走りをしたが、滑って転びそうだったので、ゆっくりでいいですよ、俺は歩を緩めた。肩を縮めて頭を下げる姿は、映像で見たそれであった。


「あなたも、見たんですよね」


『カルマの部屋』の前で、彼女はもう1度俺に確認をしてきた。ここで彼女を安心させるために映っていなかったことを伝えるべきか悩んだ。もし映っていないことを知ると、彼女がしたことが無意味になってしまう。音声だけ聞こえてるので充分ですよ、と言うのもなんか生々しい。言葉がみつからないので、ここは蓮実に任せるとして、俺は返事をせずに引き戸を開けた。


 蓮実はまたパソコンのメール処理に追われていた。無料のカウンセリングは引っ切りなしに送られてくる。中にはたいしたことない内容のものもあるが、蓮実はそれを全部読み全部返す。

 引き戸の開く音で顔を上げ、こちらに振り返って横田を笑顔で迎えた。暗い顔の相手に同調して、暗い顔で迎えてはいけないらしい。暗い気持ちを助長してしまう恐れがある。かといって無表情だと、自分の気持ちを話しても無駄な相手だと思わせ、心をシャットアウトしてしまう。顔というものは言葉よりも多く喋ってしまうものだと言う。満面の笑顔ではなく、少しだけ笑顔を携えた表情が、こちらの意図を悟られないようだ。

 カウンセリングの始まりは、あくまでもフラットでなければならないそうだ。それがカウンセリングのノウハウなのか、蓮実が決めたルールなのか知らないが、俺は作り笑いが苦手だ。その笑顔が相手の気持ちを逆撫でしてしまうことはないのだろうか。へそ曲がりな俺は、そういう笑顔が嘘を隠していると感じてしまう。嘘が上手だったら、俺も離婚しないで済んだのかもしれない。


「横田さん、どうぞ」


 蓮実は横田に椅子に座るよう促した。横田はソファの方ではなく、丸椅子の方に座った。客人が丸椅子に座らせて、俺がソファに座るのもどうかと考えて、立っていた。頃合いを見計らって退室しよう。


「昨日は眠れましたか?」


 蓮実のカウンセリングが始まってしまい、退室するタイミングを逃してしまった。退室さたい意思を蓮実に伝えようと視線を送るが、目が合わない。室内をウロウロとするしかなくなってしまった。横田は蓮実の質問に首を振った。


「今日は、お仕事、出られたんですか?」


 俯いたまま、今度はコクッと頭を下げた。髪が全部前の方に垂れて、正面から見ると後頭部のように見える。映像で彼女はブスと罵られていた。こんな暗い顔をしていたら、誰だってブスに見える。普通にしていれば見れない顔じゃない。まあ、俺が評価する権利はないのだが。


 幸い今日、部長は取引先へ直行直帰で、会社には出勤しなかったと言う。蓮実は横田に世間話のような話を続け、彼女から本題を話始めるのをひたすら待つ。さりげなく横田の視界に入るように、小型カメラをテーブルに置いた。彼女がそれについて触れてくれば話すし、触れてこなければ無理にその話には持っていかない。

 彼女は無反応だった。彼女は少し顔を上げ、ぼおっと1点を見つめたまま、昨日の経緯をボソボソと話し始めた。蓮実は嘘の笑顔を外し、神妙な顔で頷く。途中、言葉を詰まらせると、無理して話さなくてもいいですよ、と言葉を挟んだ。横田はそれを無視して、また話を続けた。ほとんど聞き取れないくらい小さな声だったが、俺たちはカメラで撮られた映像と音声で何があったのかは想像ができる。蓮実は、ただただ相槌を繰り返した。


「だから、もう、どうでもいいです」


 彼女はこの部屋に入って初めて、はっきり聞き取れる声量でそう言った。


「もう、いいって?」


 蓮実は優しく聞き返した。


「そういうのって、多分ちゃんとした証拠にならないんですよね。裁判するつもりでしたけど、ネットとかで見てたら、なんだか辛そうだし」


 こういう事案での裁判は、被害者当人が辛い思いをするだけだ。たとえ裁判に勝てて賠償金が出たところで、彼女の傷は癒えない。彼女自身が世間の目に晒されるのだ。金が目的だったのかと世間や同僚に叩かれ、辛い思いだけが何倍にも膨れ上がって返ってくるのを幾度かと見ている。


「部長は、私以外には優しいんです。良い上司で通ってます。だから私のいうことなんか信じてもらえません。なんで私ばかりなんだろう」


 彼女はハンドバッグからハンカチを取り出して、顔を覆った。

 なぜここまで会社を辞めないんだろう。それは俺の素朴な疑問だ。彼女の務める会社は、小さな広告代理店で、求人の公募やタウン誌を作っている普通の会社だ。長年の夢が叶って就いた仕事ではないだろう。それに静岡だって、同じような会社なんて他にもある。就職難な時代でも、求人サイトを見ればゴロゴロと求人で溢れている。年齢だってまだ20代なら転職だってできるはずなのに。

 そこまで考えたところで、自分が会社員だった時のことを思い浮かべると、同じようなことで理由もなく縛られていたのかもしれない、と彼女を否定できなくなった。


「だから、それ、消してください」


 鼻を啜り、視線だけでカメラを差した。彼女はハンカチを仕舞い、乱暴に手櫛てぐしで髪を整えて、席を立とうとした。このままだと彼女を傷つけただけの結果で終わってしまう。

 蓮実も何か言いた気な表情をしているが、言葉が出ない。彼女は心を閉しかけている。俺は口を挟むのを我慢できなかった。


「あんた、本当はどうしてえんだ?」


 つい乱暴な口調になってしまった。彼女に腹を立てているのではない。その部長とやらに怒りが込み上げてくるのを抑えることができなかっただけだ。俺が読んだ仏教の本だと、怒りをぶつけてはいけない、とお釈迦さんが言っていたのだそうだ。俺は怒りを鎮めるために拳を握った。


「もう、疲れました」


「仕事、辞めるんですか」


 俺は少し呼吸を整えてから、聞いた。


「そうするしか、ありませんよね」


 彼女は気持ちを抑え、落ち着いた声で答えた。泣いてるか笑ってるかわからないような複雑な顔だった。


「アンタが辞めたあと、その部長はのうのうと仕事を続けていく、それでいいんですか?」


 ちょっと劉くん、と蓮実は止めようとしたが、俺は続けた。


「泣き寝入りでいいんですか。辞めるだけで、あなたは救われるんですか。それなら、なぜ今まで辞めなかったんですか」


 俺は彼女を前にして、過去の自分と対峙していた。


「私だって辞めたくないですよ!」


 彼女は持っていたハンドバッグを、俺に向かって投げつけてきた。ハンドバッグのチェーンが顔に当たり、唇の端から少し血が滲んできた。それを見て彼女は、一瞬怯んだが、勢いに任せて吐き出した。そうだ。そうやって溜まったものを吐き出せ。


「私、性格が暗いから、学生の時、学校になんて全然居場所がなかったんです!でも、仕事しだして歳の違う人達に紛れて、取引先からはあなただとお願いしやすいとか、再就職先が決まった人からお礼を言われたりとか、こんな人から感謝されることなんて今まで全然なかったんです!やっと自分の居場所を見つけたと思ったのに!こんなことで!こんなことで!」


 彼女は小さい子供が泣きじゃくるように地団駄を踏んだ。さっきまでとは別人ではないかと思うくらい、はっきりとした大きな声で怒鳴り散らした。

 この修羅場とは場違いな、いい匂いが流れてきた。チーズの匂いだった。その匂いは台所の方からだ。もう、優禅さんが夕飯を作る時刻だった。


「横田さん。アンタ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつって、どういう意味か知ってる?」


 彼女は涙でぐしゃぐしゃになったまま、キョトンとした目をこちらに向けた。まあ、そうなるだろう。そう思って俺は彼女に話しかけている。


っていうのは、サンスクリット語っていったっけかな。『ナモー』の音を漢字に当て込んだんだけど、『心から信じます』って意味らしい。だから南無阿弥陀仏っていうのは、阿弥陀あみださんを信じます、阿弥陀様に全部お任せします、っていう意味なんだよ」


 彼女は呆けて、泣くのを忘れてしまった。これを言うと、いつも、このリアクションだ。わかってる。これは、俺の決め台詞だ。俺は少し溜めてから、その台詞を吐いた。


「俺たちをお釈迦さんだと思って、全部任せてみないですか?」


 彼女がポカンとしているところ、引き戸が開き、雲仙さんが顔を出した。


「もうすぐ夕飯の支度が整います。よろしければお客人も召し上がっていかれませんか?」


 はぁ、と惚けた返事をした。その返事は雲仙さんに対してなのか俺に対してなのか。大丈夫。こんなのも、いつものリアクションだ。

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