金柑子

芹沢カモノハシ

金柑子

 夕日に照らされるその銀色の身体があまりにもこちらを誘惑してくるので、つい魔が差して、そのサンマを咥えてしまったのだ。あまりにも素早く、また一瞬のスキを突いた行動であったからか、私の姿を追うものはいなかった。そのまま自分が最近根城にしている路地裏へと入る。咥えていたサンマを離して地面にボトリと落とす。そのサンマの既に光のない目が、まるで罪を犯した自分を見下しているように思えてならず、薄暗く生臭い路地の裏で、頭からバリバリと食べてしまった。そうすると、満腹感と共に後悔の念と罪悪感が胸の裡からせりあがってきて、どうしようもなく苦しくなって、ニャァと情けない声が出た。

 ごろりと横になる。私は野生なので、家で飼われ人にすり寄る獣とも呼べぬ者たちのように腹を見せたりはしない。伏せるようにして寝そべるだけだ。目を閉じる。しかし、胸の裡の感情の整理がつかぬのでどうにも落ち着かない。もしや先ほどの魚が腹の中から私を責めているのではないか、などというあらぬ妄想すら浮かんでくる。仕方がないので起きることにした。

 歩いていれば何かしら心の整理がつくだろうと考えた私は、そこらの空き地へと向かうことにした。空き地はこの路地からもほど近い場所にある。ここの地面は普通の土とは違ってとても硬いが温かく、冬の寒い時期などには仲間もここに来ることが多い。妙に体の大きく温かい獣の匂いがしない不思議な獣が時折来るが、そいつらはどうも目が良いようで、こちらが前を通ろうとするとしっかりと止まってくれる、無口だが気のいい奴だ。唯一欠点と呼べる部分は随分人間と親しい様子だ、という事だけだ。たまに人間の匂いの染み付いた不届きな奴もいるので、そういう奴は前を通るときにひと睨みしてやってから去ることにしている。

 歩く。歩く。歩く。てこてこと歩きながら考える。私はこれまで、ああして人間の食料という奴を奪うような罪を犯したことはなかった。それは例えば人間に対して申し訳ないだとか、奴らがとったものだから奴らが食うべきだという甘い考えを抱いているわけではない。人間がどうなったところで私には何の関係もないし、他の奴のとったネズミを横取りしたことは私だって数え切れぬほどある。そうしなければ生きてはゆけぬからだ。私が人間から食料を奪わぬのは、ただそうするのが私の矜持であるからしないのだ。人間から私が食料を奪えば、それは私が自分で食料も取れない落ちこぼれだと周りに喧伝しているも同然だ。そんなことになるくらいならば、私は生きている意味がないとすら思っているのだ。それ故私は食料を奪いもしなければ、こちらに向かって差し出してくる食料を受け取ったこともないのだ。そんな矜持など、生きる上では何の必要もないものなのだと、私に諭してくるものもいたが、違うのだ。矜持とは生きるために必要なものではなく、生きていくために必要なものなのだ。ただ生きるだけならば、思考も感情も信念も、何一つとして必要ないだろう。ただその日一日分の食料を食べ、寝床で寝ることを繰り返せばよいのだ。だが果たして、それは生きていると言うことが出来るのだろうか。私は絶対に違うと思っている。単なる生存と、生きてゆくことは違う。矜持があるから、信念があるから生きていると言えるのだ。それがなければ、ただ死んでいくだけなのだ……

 そうして考えている内に、空き地に着いていた。夕焼けが綺麗に差し込んでいるその空き地は、今日はお仲間が誰一人としていなかった。丁度いい、と私は思って、空き地の一番良いところに寝転がる。ここは一日中陽が差し込んでくるので、空き地の中で一番温かい。よくここで取り合いになって、取っ組み合いの喧嘩になっているのを見かける。そういう時は「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、その場をそそくさと去ることに決めている。それに比べたら今日は静かでいい、そう思いながら道をぼけりと眺めながらじっといろいろな事を考える。

 夕焼けの赤がひときわ鮮やかにきらめいて、空が紫がかり始めた頃、街明かりがまばらにつき始める。結局、はっきりと分かれている物などないのだ、とぼんやり思う。罪を犯したものと、犯していないものの差というのは、きっと大したものではないのだ。きっと、私のように、罪の犯した数によって、白から黒へと変わってゆくのだ。ならば私はまだ白いのか、それとも水に墨が混じるように、もう既に私は黒いのだろうか。わからない、わからない、わからない。私が仮に黒だったとして、誰が私を裁くのか。私が仮に白だったとして、誰が私を認めるのか。何もかもが不明瞭だ、あまりにも混沌だ。何もかもすべて不明瞭ならば、何かをわかる必要などないのだろう。ならば思考とは、意識とは果たして必要なものなのか………


 



 気づけば私は、見覚えのない花畑に立っていた。はて、私はいつの間にこんなところに来たのだろうかと、数少ない記憶をたどるがとんと見当がつかない。どうしたものかと思って辺りを見渡すが、よくわからない赤い華が咲き乱れているのみで、ご同輩の一匹も姿がみえない。とりあえずここにずっといても仕方がないと、私は正面の花畑を奥へと進んでみることにした。

 進んでいくと、やがて陽の光とは違う鋭い光が私の目に入ってきた。何事だろうと近づいてよく見ると、その光はあの魚に反射したものであった。

「なんだ、魚か」

「なんだとはなんだ」

私は驚いて飛び退いた。声はその魚から聞こえた。恐る恐る近づいて、魚を覗き込んでみる。

「なんだその顔は。魚が喋ることに文句でもあるのか、失礼な猫だ」

そいつは感情の読めないきらりと光る眼をこちらに(私がそう感じただけだが)向けてそう言った。

「それはそうだろう。私は喋る魚なんぞ、これまで見たことはない」

「だからなんだ。お前が知らないからといって、絶対に魚が喋らないとは言い切れないだろう。お前の常識で俺を測ろうというのが失礼なんだ、この馬鹿」

なんという口の悪い魚なのだろう。私はこんな下品な魚風情に付き合っていられないと、先を急ごうとする。

「どこへ行く気だ」

と魚がこちらに話しかけてくる。私としてはこんな奴に言葉を返してやる義理はないが、こちらの方が知性があるのだから、無碍にすればそれはそれで私の格が下がると思い、言葉を返す。

「この先に行くのだ。この花畑の果てまで行くのだ」

「行ってどうする」

「戻るのだ。元の場所に、あの駐車場に」

「戻れやしないさ。まだ気づいていなかったのか、馬鹿な猫め」

魚は心底こちらを馬鹿にしたような表情(実際には全く変化はなかったが)でそう言う。

「どういうことだ。何か知っているのか」

「どういうことも何も、ここを見て、そして俺を見ればわかることだ。なぜ気づかないんだ、この馬鹿猫め」

つくづく腹の立つ魚だ。私はもう胸の内から湧き上がる怒りを我慢できなくなって、がぶり、とその魚に嚙みついてやった。

「あっ」

魚はそう声をあげて、少しびちりと動いたかと思うと、最初に見た時と同じように動かなくなった。鱗は光を反射してきらりと輝いていた。

「ふん」

私は鼻を鳴らすと、またもとのように歩き出した。



 花畑は随分と広いようで、歩いても歩いても果てにたどり着かない。不思議と体に疲れはないが、やはりずっと同じような景色を歩いていたので、少しばかり心が疲れてきた。立ち止まりふぅと息を吐いて、そのまま寝転がる。あたりに漂う良い香りが鼻をくすぐる。地面は心地よい柔らかさの土で、陽の光は優しく私を照らしている。実に居心地のいい場所だ。

 そうしてしばらく寝転がっていると、だんだんと私の中から、もうずっとここに居ればよいのではないかという考えが首をもたげてきた。頭をぶんぶんと振り、いや私は元の場所に戻るのだと考えなおしたところで、ふと、あの魚が言っていたことを思い出した。

『戻ることなどできない』

 あれがどういう意味だったのか、何となく分かりかけてきたが、そんなはずはないとすぐに否定して、しかし否定できる要素もなく、考えが堂々巡りになる。そんな思考を巡らせるうち、ああやはり私は死んだのではないかと、漸く自分で認めることが出来た。不思議と悲しくはなかった。

 私が死んだのなら、ここはあの世だろうか。私としては極楽でも、地獄でもどちらでもよいが、この景色が地獄であるとは到底思えないと、しようのない考えが浮かんでは消える。私はやり残したことがあったろうか、どうして私は死んだのだろうか、あの魚はそういうことを言っていたのか。無限に思える時間の中で、そんな考えが泡のように浮かぶ。そんなことを考えたところで意味のないことはわかっていた。

 やがて、ここは地獄だろうな、と妙な確信をした。あまりにも何もなさすぎるからだ。いい香りが漂い、心地よい暖かさと柔らかさはあるが、それだけだ。ここには同族も、忌々しい人間も、何もない。唯一いたのはあの魚だけだったが、それも私が捨ててしまった。今思えばあれは私にとっての蜘蛛の糸だったのかもしれない。退屈の中で、また私はくだらない考えを浮かべた。

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金柑子 芹沢カモノハシ @snow_rabbit

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