don't eat me

@akamura

don't eat me

爪か、あるいは牙か。鋭利なもので破られた皮膚を晒し、倒れる女性の映像が、希の頭の中に流れ込んでくる。

一秒前までは、傷の1つもなかった、カーディガンとコートに包まれた、トートバッグを提げた肩。それがいきなりに裂け、血を噴き出した。


小さく息を吐き、希は閉じていた目を開く。

焦げ茶の髪に、血のように赫い瞳。少女のような少年には、特殊な力があった。

命なき物体と記憶や視界を共鳴させる能力。

ある特殊部隊に属する希は、その能力を使い、怪事件の捜査をしていた。


現場周辺のあらゆる角度に配置された物体に能力を使い、記憶を共有してみたが、犯人の姿はどこにも見えず、およそ手がかりらしきものも見当たらない。


「ここも駄目か」


苦々しく顔を顰め、電信柱から手を放した。



この二月程で、9件。今のように、いきなり人間の身体が裂けるという事件が発生していた。

7人が死亡し、残りの2人もまともに会話ができる状態ではない。医師立ち会いの元面会してみたが、2人とも「食べてください」と繰り返すばかりで会話は出来なかった。


「食べてください、か」

【何を「食べてください」なのかな】


希の顔を覗き込み、彼の分身であり半身である異形・トリックスターは、ことりと極彩色の頭を傾げてみせる。鼻と口しかないトリックスターの顔を撫でながら、希は俯き、頭を回した。


「鞄の中身を調べさせてもらったが、ふたりとも、菓子パンやお菓子くらいしか持っていなかった」

【てことはやっぱり自分を、ってことなのかな】

「人間を食べるような『何か』と出会ったっていうことか」


異形のものは自分よりも葬嗚達の領分だ。

しかし、人を食べるものがすべて人外のものとは限らない。

やはり相手の姿を改めなければ、方針は決められない。現状手詰まりだが、諦めるつもりはない。今ここには何も見えず、何も聞こえないなら、過去に似たような事件が無いかを探れば何か見つかるかもしれない。一部の事件では犯人は現場に戻るという、それを期待して再び現場を巡るのも悪い手ではないだろう。


あれこれと考える希の思考は、石を蹴る音により中断された。


「お嬢さん、こんなところで何をしているんだ?」


低い声で問われ、希はつい眉間にシワを寄せる。お嬢さんではありません、と声を上げそうになるのを堪え、相手が間合いまで近付くのを待った。


「近頃物騒な事件が起きているんだ、知っているだろう。独り歩きは危険だ、よければ送ろうか」

「お気持ちだけありがたく―――………………ぇ?」


振り向き、相手の姿を捉え、希は目を瞬いた。

お嬢さん、と自分を呼んだ相手は、希よりも若い少女だった。

艷やかな黒い髪を背中の半ばまで伸ばし、紺色のワンピースを纏った姿は大人びて見えるが、背格好や顔つきから察するに、15、16歳といったところだろう。


「どうした?」


紡がれた声は、可憐な見た目には似合わぬハスキーボイスであった。


「貴方のような少女にお嬢さん呼ばわりされるのは初めてで、流石に驚いた」

「気に障ったならすまない。だが私は君の名を知らん」

「希と申します」

「のぞ…む?」


怪訝そうに顔を顰めた少女はまじまじと希を見つめ、不意に目を見開いた。

わたわたと手足をバタつかせてから、観念したように大人しくなって希に頭を下げる。


「…………………すまない。その、ほら、暗いだろう?それで輪郭がはっきり見えなくて、だな…………申し訳ない」 

「慣れてますから大丈夫ですよ」

「そうか」


あからさまに安心した様子の少女に、希も表情を緩ませつつ彼女を観察する。

言動からして悪い人間には見えない。犯人かと身構えてしまったが、恐らく彼女は違うだろう。


「私はコルドゥラ。呼びにくければコルドでもクラウドでも構わん。名乗りもせずに失礼した」

「お互い様です」

「ところで希。話を戻すが、ここで何をしていたんだ?」

「貴方の言う事件の捜査を」

「君は警察官なのか?」

「そう……いや、違うか………?どう答えたものか……とりあえずそうですね、野次馬やマスメディアの類ではないです。ちゃんとした所から来ています」

「そうか……………だが君はまだ子どもだよな?」

「貴方がそれを言いますか」

「私は」


何かを言いかけたコルドゥラの表情が、突如凍りつく。

その眼差しは希ではなく、希の少し後ろを見ていた。つられるように、希もそちらに視線をやる。

そこには、一人の男性が立っていた。


アズラエル―希の友人と同じくらいの長身に浅黒い肌。知人ではないが見覚えのある顔に、希は目を見開いた。



「彼は確か、捜索願の出ていた……」

「希、あいつが見えるのか!?」

「?」


見えることの何がおかしい、と言いたげに首を傾げた希に、コルドゥラは血の気の引いた顔を見せる。

怪訝そうな表情を浮かべた希の背後に回ると、コルドゥラは希のシャツを引き襟ぐりを覗き込む。

首と肩のあわいに刻まれた赤黒い紋様に、コルドゥラが息を呑んだ。


「あの」

「逃げろ」

「え?」

「逃げろ!奴は私が引きつけておく!」

「な―――」

「良いな、逃げるんだ!」


言うが早いか、コルドゥラは靴を脱ぎ捨て走り出す。

金色の瞳をすぅ、と細め、コルドゥラの後ろ姿を捉えたかと思うと、男は獲物を追う肉食獣の速度で駆け出した。


コルドゥラの脱いでいった靴を抱え上げ、希ももう随分遠くなってしまっている2人を追いかける。

その傍らに、トリックスターが姿を現した。


【逃げてって言われたけど】

「逃げられるわけがない」

【分かった。希がそうしたいなら仕方ないね】

「ありがとう。ところで、さっきあの子が検めたのは」  

【見たことない模様が入ってる。此処に。綺麗だけど気持ち悪い模様だね】

「文様か……後で意味を読み解きたいから写真撮っておいてくれないか」

【危機感を持とうね】


言いながらも、トリックスターは希のポケットからスマホを取り出し、言われた通り模様を写真に収める。


そうしているうち、漸く希は2人へ追いついた。

コンクリートで迷路のように区切られた道の突き当りで、コルドゥラと男が戦っている。

その前に、人々の生け垣が出来ていた。


「ダンスの練習?」

「パントマイムじゃないの?」

「めっちゃ美味くない?」

「え待って待って待って今空中蹴らなかった?」


【あの人達には、あの化物は見えてないみたいだね】

「化物?」

【希の目には、普通の人間に見えてるのか。ふたりとも?】

「うん」

【そっか】

「スターにはどう」

「あァっ!」

「!」


男に掴まれた腕を力任せにねじ切られ、コルドゥラの右腕が引きちぎられる。

悲鳴と困惑の声を上げるギャラリーを飛び越え、希はコルドゥラの左腕も千切ろうとする男の腕を切り落とした。


「希!?ばか、何故逃げなかった!」

「子供を身代わりに逃げられるか!」

「なっ…………ぜ、善人………」

「いや、普通だろう?」

「くっ、こんなことならもっと違う」

「喋っていないで貴方こそ逃げてくれ。長くは保たないかもしれない」


見た目通り、いや、見た目以上に男の腕力は強い。受け流し損ねた拳を受けて、希の手が痺れた。

切り落としたはずの右手もいつの間にかくっついている。トリックスターの言葉がなければ、驚いていたかもしれない。


「え、何?撮影かなんか?」

「自主作製の映画的な?」

「あと出来たらギャラリーを避難させてほしい」

「大丈夫だ、やつの目は今のところ私と君にしか向かん。他の人間がいてもいなくても」

「でも」

「それに奴は、印をつけた相手にしか触れない」

「………なるほど」


それなら彼等は安全だ。しかし、この男が周りの人々にその『印』を刻まないとも限らない。


男の攻撃をなんとか回避、もしくは受け流しながら、希はとりあえず持ってきた靴をコルドゥラへ放った。

片腕をもがれた彼女が、逃げられるかは分からないが、時間は稼がねば。


「行ってくれ、早く」

「君は」

「何とかするさ。これくらい慣れてるから大丈夫だ」


男の蹴りが掠めたせいで滲んだ額からの血を拭い、希はコルドゥラに笑ってみせる。

コルドゥラは逡巡したように目を泳がせていたが、靴を履き直すとすっくと立ち上がった。


「応援を連れて必ず戻る!死ぬな、逃げろ!」


躊躇いが多分に滲む声で告げ、コルドゥラは懐から取り出した鏡を壁に押しつける。途端手鏡サイズであったそれは姿見の大きさまで巨大化した。

それだけでも驚きだが、更に驚くことに、コルドゥラがその鏡へ手を押しつけると、その手が鏡の中へ吸い込まれていく。


希の相手をしていた男がハッと顔を上げ、鏡の中へ消え行くコルドゥラへ駆け寄った。

男が手を伸ばすより一瞬早く、コルドゥラの体は鏡へ呑み込まれる。


餌を逃した獣のような唸りを上げて、男は鏡面に爪を立てる。

その光景から目を離さないままに、希はゆっくりと後ろへ下がった。


肌が、髪が、刻まれた模様が、火で炙られるようにチリチリと、熱と痛みを訴えてくる。所謂危険信号だとは、考えるまでもなく分かった。

あの男が次にどうするかなど、決まっている。


「何だったの?」

「プロジェクションマッピング?」

「いや、でももうひとり……あれ?」


気配を消した希を探すように、人々は周囲を見回す。

それとほぼ同時、とうとう鏡を割ってしまった男がゆっくりと、希へ視線を向けた。

金色の瞳と視線が絡んだ瞬間、希は全力で走り出した。


背後から聞こえてくる足音は、驚くべき速さで距離を詰めてくる。

捕まりそうになったのを、希は急に体を翻し回避した。

一瞬相手が止まった隙に、来た道を引き返す。

コンクリートブロックへ飛び上がり、細い道へ抜けた。


これなら多少は時間を稼げるか。

振り返った希に、男が迫る。


「な……」


ブロックを登ったにしても飛び越えたにしても、数秒はかかるはず。なのに、どうして。

考えている暇はない。今はとにかく逃げなければ。


すぐに再び追いついてきた男の後ろへ跳び、塀を越え、何とか逃げ延びた。


だが相手は相当足が速い。このまま逃げ続けても追いつかれるか、先にこちらの体力が切れてしまう。


【希、あそこ】


トリックスターの指が指したのは、老朽化が原因とかで使われなくなった廃ビル。

確かにあそこならば隠れる場所には困らないし、入ってすぐに施錠してしまえば逃げる時間が作れる。


【あれはとりあえず俺が止めるから、行って】

「無理はしないでくれ。怪我しそうになったら帰ってきて」

【勿論。さ、行って】


トリックスターに優しく背中を押され、希はもつれそうになる脚でビルの入り口へ走る。

当然鍵はかかっているが、希の能力の前では関係ない。扉に触れただけで勝手に鍵が開かれ、希はガラス張りの扉をくぐると急いで鍵をかけた。


その背が遠ざかるのを見ながら、トリックスターは男の頭をねじ切り足を踏み砕く。


どうせこのくらいでは死なないだろうが、バラバラにしておいたほうが足止めにはなるだろう。











身を休めたお陰で、体力は少しだが回復した。第2ラウンドに備えるべく、希は両手にナイフを握る。 

刻まれた印がそのまま目印になっているならば、隠れたところで意味はないかもしれない。だが、今までの追いかけっ子ではそもそも相手の視界から外れることができなかった。向こうが一旦こちらを見失って、次はどう動くか。見定めてからでも、動くのは遅くないだろう。

入り口を入ってすぐのエントランスに残っていたポスターに能力は発動させ、視界は共有してある。男が入ってくれば、すぐに分かる。


(可能なら足止め用の罠でも作りたいところだけど……ワイヤーとかないかな。何だかんだで一番便利だ)


暗いことを良いことに辺りを見回すものの、棚やらハンガーやら椅子やら、およそブティックに置いていそうなものしか見当たらない。せめてハンガーが金属製、或いは木製であれば良かったのだが、残念ながら柔らかく脆いプラスチック製のようだ。

どうしたものかと思案する希の耳に、硝子の割れる音が響いた。 


(来たか)


極力足音を立てぬように、元はブティックであったのだろう店の、入ってきたそことは対称に位置する出入り口から出ていく。

幸運なことに、店の出入り口のすぐ近くにエスカレーターがあった。止まっているそれを、殆ど飛ぶようにして3階まで駆け上がる。


『カルチャースクールのフロア』と看板の吊るされたそこは、本で見る学校のように、或いはカラオケボックスのように、複数の扉がずらりと並んでいた。

ただしカラオケボックスや教室と違い、部屋と部屋はワイヤー入りの摺りガラス窓で繋がっている。仕切りの役目を果たしていたのだろうカーテンやブラインドは、既に外されていた。


逃げ込む場所を間違えたかもしれない。後悔したところで、迫ってくる足音の主は待ってくれない。

フロアマップを一瞥してから、希は一番手前のドアを開けた。


部屋に飛び込み、ハードル飛びの要領で窓枠を飛び越え次の部屋へ移る。その際に窓に触れ、冊子と鍵を閉めるのも忘れない。

申し訳ないが、机や椅子も軒並みなぎ倒しバリケード代わりにさせてもらった。


血を流しているせいで、元より少ない体力の消耗が早い。ほんの少しでも良いから休息が欲しい。そのためには、相手を引き離す必要がある。


鍵をかけた頑丈な窓に、鬱陶しいほどのバリケード。そう簡単には越えられまい。

だが念のためにと振り向いた希の、3歩ほど後ろ、手を伸ばせば触れそうな位置まで、男は距離を詰めていた。


「――――!?」


咄嗟に希は足を止め、身を屈める。

急にしゃがみこんだ希に対応できず止まった足を足首で分断し、転倒する男から全速力で離れた。


何とか隣の部屋へ逃げ延びたが、体力がもう限界に近い。もうあまり長く鬼ごっこを続けられる気がしない。

乱れた息を整えながら、希が再び振り向いたのとほぼ同時、スニーカーを履いた足が、壁から生えた。


「…………!」


あり得ない光景に目を見開く希を後目に、その足はどんどん壁をすり抜けてくる。

まずは爪先、それから脹脛、膝、腿、そして、胴体。壁もバリケードも存在しないかのように、男は悠然と希へ向かって足をすすめる。

程なくして現れた男の顔面に、希は花瓶を叩きつけた。目に刺さる硝子に男が藻掻いている間に、扉を抜ける。


「ぬかった……!」


壁を抜けられるなら、閉められた窓も高い塀も何の障害にもならない。むしろ希の滞空時間の分、相手が追いつく隙を与えてしまっていたのだ。

何たる不覚、何たる観察不足。

己の体たらくに、希は唇を噛んだ。

ならばいっそ障害物のないところの方がマシか、等と考えながら、再び視線をフロアマップに向ける。お誂向きに、立体駐車場への連絡通路があるようだ。


走りすぎてそろそろ喉が辛いが、言っていられる状況ではない。

迫ってくる足音を聞きながら、壁に手をかけ走る方向を急転換した。







とうの昔に限界を迎えていた脚が、精神という支えを失いへたり込んでしまう。

真っ赤な瞳を真ん丸に見開いて、希は目の前の受け入れられない光景を見つめていた。


立体駐車場へと続く一本の通路、コンクリートの頑丈な橋。

その橋が半ばで崩落しているなど、誰が予想できようか。


「そん、な、」


流石の希と言えど、平静を保っていられない。前に道はなく、後ろには自分を食おうとしている捕食者。疲労が強すぎて、トリックスターを呼ぶことも出来ない自身の状態では、あれと戦うことも逃げることも難しい。

アズラエルがいてくれれば。

つい考えてしまった手前勝手を、頭を振って払う。


(どうにかしないと。どうしたら良い?……………どうにか、出来る、のか?)


向こう岸は飛び移れる距離ではない、下に飛ぶにも高すぎる。逃げ隠れしたところで、あれが相手では意味がない。何とか立ち上がりはしたものの、どうしたら良いかが分からない。


せめて此処に希自身以外の命がかかっていれば、希は勝率の低い賭けにも出ただろう。だが、今この場で危機に瀕しているのは希だけ。


空回りする思考を持て余し立ち尽くす希の腕を、背後から伸びた手が掴んだ。


「ぁっ、」


ぐるりと身体を反転させられ、男と向かい合う体勢で量の手首を掴まれる。逆光で暗くなっている男の顔の中心で、金色の瞳が獰猛に輝いていた。

裂けるように開かれた口から覗いた赤い舌が、愛しむように、希の肌に刻まれた印を舐める。


両手を掴まれているせいでナイフは使えない。

せめてもの抵抗に蹴りつけてみるも、腹立たしいことに男はびくともしてくれなかった。


せめて無様だけは晒すまいと男を睨む希を見下ろし、男は口を開いた。


《……か》

「ん?」

《食べられたいか?》

「…………?」


張り詰めきった空気も忘れて、希はぱちりと目を瞬いた。


食べられたいか、など。何故わざわざ尋ねる必要がある。

悔しいが勝敗はついた下さい捕まった時点でこちらの負けだ。ならば食えば良いではないか。無論抵抗はさせてもらうがそれにしても、こちらに尋ねる必要などなかろうに。


訝しげに首を傾げた希の頬を、男の爪が引っ掻いた。

あえてゆっくりと爪を立て、焦らすように、耳から顎へ爪を滑らせ皮膚を裂いて血を流させる。悪趣味だと鼻白む希に、男は再度問うた。


《食べられたいか?》

「……………」


不可解な言動は、得てして見ているもの、聞いているものを却って冷静にしてくれる。

折れかけた精神を持ち直し、希は空回りしていた頭をちゃんと働かせ始めた。


こちらには理解のできない言動でも、一度ならず繰り返すと言うならそこには何かしらの意味があるはず。

では、この男の行動の意味は何だ。捕らえた獲物を食わず、こちらの意思を聞く意味は。

この男の問に拒否を示せばどうなるのだろう。或いは答えなければ――――答える前に、死んでしまえば―――



「―――ああ、そういうことか」


にんまりと、赫い瞳を細め、唇を吊り上げて、希が笑う。

掴まれた手からぱきりと、骨が砕ける音がしたが、浮かべられた笑みは消えない。寧ろ一層の嘲笑を浮かべ、息のかかる距離にある顔を見上げた。


「俺からの許可なくして、お前は俺を食えないのか」


これに襲われ、命は取り留めたが心を壊してしまった人達を思い出す。

譫言のように、「食べてください」と繰り返していた意味を、今理解した。


死体の残っていた人達は皆、一撃で殺されていた。この男は彼等、彼女等を、そして自分を、食わなかったのではない、食えなかったのだ。

「食べてほしい」という言葉を、引き出せなかった故に。


「哀れだな。餌に許しを乞わねばならないなんて」


ありったけの嘲りをこめて吐き捨てると、頬を殴られた。切れた口から溢れる血を舐めて、やはり希は挑むように笑う。


「そんなに腹が減っているのか?ならば俺にそれを言わせてみろ。できるものならな」


追いかけっ子では負けたが、持久戦では負ける気がしない。コルドゥラが戻ってくるまで持ちこたえてやろうじゃないか。

くつくつと笑う希に、男はせっかくそれなりに整っている顔をしかめた。

希の手首を掴む手を滑らせ、恋人たちが手を繋ぐように指を絡ませながら、その爪を手の甲へ突き刺す。

いつの間にやら長く伸びていた爪に穿かれた自身の手を、希は冷ややかに見つめた。

男の足がほつれ、1つの塊から細長い触手の束に変わる。足に絡みついてくるそれを見下ろす希の目は、やはり冷たい。


「残念だが、これくらいでは俺は痛くも痒くも怖くもないな」


殴る、蹴る、引き裂く、絞める。素手で痛みを与えようと思えば、出来るのは精々そのくらいが想像出来る。

そして想像できることならば、よほどでない限り耐えられる。

落ち着き払った希に男は更に不機嫌そうに顔を歪める。その顔が不意に、真ん中から2つに裂けた。



人の皮を脱ぎ捨て、本体が現れる。

昆虫のように顔からはみ出した、丸々と大きな目、獣のような牙。太い手足に見えるそれは細かな腕やら足やらを継ぎはいだもの。尻尾か触手か分からないものは蠕き地を舐めている。そのうちの一本が、希の眼窩の形をなぞる。

人の姿から随分と膨張したそれを一瞥し、希は感想を口にした。


「あらゆる動物の混ぜもののような姿だな。興味深い」


その姿すら脅しにならぬと悟った異形が、再びするすると人の皮の中へ戻る。

もう少し観察したかった、という思いは内心に留め、希は悔しげに顔を歪める男を煽る。


「次はどうする?ヒヒ、ハハハハハ。これで終わりか?人間の子どもひとり膝を折らせることも出来ず諦めて空きっ腹を抱え惨めにすごすご逃げ帰るか?」


からからと笑い続ける希を見下ろす男の目がいよいよ怒りに燃える。残されていた尻尾が鞭のように希の足を打ち、皮膚が裂けた。血に濡れた尻尾はそのまま蛇のように希の身体にまとわりつき、首に巻きつく。

内臓を圧迫され、希の口から血が溢れた。


【食べられたいか?】

「さぁ、どうだろう」


にっこりと笑って希が答えた次の瞬間。見覚えのある黒鉄の刃が、男の尻尾を貫いた。


「ぇ」


目を瞬いた希のまさに目の前で、柄に棘を持つ凶悪な黒鉄が燃え上がる。

男を確実に焼き払いながら希には一切の熱を与えないこの炎は間違いなく彼のもの。

何故、などと考える間もなく、巨大な白い犬に跨った本人が、片割れと共に現れた。


「葬嗚!」


赤い髪をした青年は、炎を操る能力を持ち、人ならざるものを相手取って戦う希の友人だ。

声をかけられて初めて希に気付いたらしい。鬼を模した面の下で、瞳が瞬かれた。


「―――ぇ、は、希!?何でここに」

「すまない!遅くなった!」

「大丈夫です!」

「コルドゥラさん、何で希が、ぇ?知り合い?」

「葬嗚くん、呆けてないでとりあえず先にアレを片してしまいましょう」

「あ、ああ、そう、だな………?」


トトリにとりなされ、あからさまに混乱した表情を浮かべながらも葬嗚は鬼面を纏う。

とはいえ、既に決着はついているようなものだ。

葬嗚の炎に焼かれては再生し、そのそばからまた焼かれ、悪あがきに伸ばした触手さえ瞬く間に切り落とされ貫かれて灰となる。

なまじ再生能力が高い故に却って地獄を味わっているそれに、コルドゥラが歩み寄った。


「これで、終わりだ」


燃え続ける体に手を翳し、呪文を唱えた瞬間、炎に包まれていたそれは小さな小さな球体となりコルドゥラの手の中に収まった。

再度呪文を唱えながら、コルドゥラは握りしめたそれを、懐から取り出した鏡の中へ放り込んだ。

何も映さなくなった鏡を、コルドゥラは探検を突き刺し割り砕く。



[newpage]





「呆気なかったですねぇ。葬嗚くんお面つけた意味ありました?」

「俺もそれすごい思ってる……てか、希、本当に何でここにいるんだ!?怪我してるし!」

「大した傷じゃないよ、大丈夫」

「大してる!」

「落ち着け。私から事情を説明する」


コルドゥラの声に顔を上げ、希はまたも驚愕の表情を浮かべることとなった。

希よりも葬嗚よりも高い背をした、豊満な体つきをした女性がそこに立っている。服装もワンピースから、黒いナイトドレスへ変わっている。

思わず、希は葬嗚に尋ねた。


「コルドゥラさん、だよな?」

「凄いよな、俺もびっくりした」

「このくらいの魔術、アッフェンヴァル家の魔女ならば使えて当然だ」

「魔女」

「すまなかったな希。君がああ言う行動に出ると分かっていたら、少女ではなく厳つい男にでも化けたんだが」

「それでも襲われてるのを見たら助けますけど。なぁ葬嗚」

「勿論」

「君達は良い子なんだな」


驚きと感心をはらんだ声で、コルドゥラが呟く。希と葬嗚は、不思議そうに顔を見合わせた。


「そうだ、あれは結局何だったんですか?人間ではない、ですよね」

「奴等は『バイト』と呼ばれる種族だ」

「………ああ、biteか、なるほど」


bite。噛みつき。単純だがとても分かりやすい名前だ。


「種族、ってことは、まだ沢山いるんですか?」

「ああ。だが、これ以上増えることはない。始祖たる奴を封印したからな」

「始祖だったんですか、さっきのが」

「ああ。残っているバイト達も、私達が始末する。君達の手を煩わせることはない」

「手伝いますよ?妖怪退治は俺の仕事ですし」

「気持ちだけいただく」

「どうして」

「あれは元々、我が一族の禁術により生まれてしまったものなんだ」


苦々しく顔をしかめ、コルドゥラは罪を自白するように重い口調で告げた。


「本当につまらない話なんだが、我が先祖は魔術師の例に漏れず不老不死の研究をしていてな。試行錯誤を重ねた末、禁術に手を出してしまったらしい」

「不老不死とはマァ随分つまらないものを目指されたんですねェ。生き物は死が必定であるのだから、死なないものは死んでいるようなものでしょうに」

「トトリ」

「はぁーい」

「耳が痛いな」

「その禁術の結果があれなんですか?」

「ああ。実験は成功というべきか、失敗というべきか。あの通り並外れた再生能力を手に入れた代わりに、人の形を保てなくなってしまったんだ」


そこで異形と化した己に慄き、自死でも選んでくれればまだ良かった。

だが、人の姿を、理性を失ってなお、それは生に執着したらしく、100年以上を生きながらえている。


「だから人を襲ってその身体を奪っていたのか」

「勿論食うためでもある。それに、あいつは噛んだ人間をバイトにすることも出来た」

「まるでゾンビか吸血鬼だな」

「実際似たようなものだ」


作り出したバイトは、創造主に忠実に従う。

人間とは奴にとって、食い物であり、衣服であり、手駒だった。


「災厄の化身と化した祖先を放置するなどできるはずもなく、奴を追い続けて私で六代目。漸く片をつけることができた」

「六代目……そんなに長くあれを?」

「情けないがな」


獲物を喰らえばすぐに壁なり地なりに潜って姿を眩ませ、食べた相手の皮を被って人の世に紛れるバイトを補足するのは、いくら同族といえど困難であった。何とかバイトを捕まえられないかと考えた末、コルドゥラはバイトを追うのをやめた。代わりにわざとらしくバイトの起こした事件をかぎまわり、うまそうでか弱そうな子どもに化けることで、奴の獲物になろうと、つまり、追う側から追われる側になろうと試みたのだ。


まさか自分以外にもバイトに目をつけられたものがいるとは思わなかったが、結果として彼に助けられた。

それに、葬嗚の炎の能力がなければあれほど簡単にバイトを抑えることもできなかっただろう。


「君たちのお陰だ。本当にありがとう。そして巻き込んでしまってすまない」


深々と頭を下げてから、コルドゥラはしょんぼりと眉を下げた顔で希を見やる。


小さな手は砕かれ、足は裂かれ、口元は血にまみれて、そこかしこ怪我を負わされている。平然としていられるのが不思議なくらいだ。

回復の魔術を使えれば良かったのだが、生憎コルドゥラは癒やしの術は覚えられなかった。


目に見えて落ち込むコルドゥラに、希は笑顔を向ける。


「慣れてるから大丈夫だ」

「それが本当ならそれはそれで心配だ!」

「ウチのギルドで手当するから本当に大丈夫ですよ」

「ならばせめて私にも手伝わせてくれ」

「いや、これくらいなら別に手当

も」

「「駄目だ」」

「ええ」

「アズラエルに心配かけたくないだろ?」

「ぅ……」


仲間であり友人である男の名前を出され、希が怯む。すかさず葬嗚が追い打ちをかけた。


「俺も今すごく心配してる。血出てるし、痛そうだし」

「…………分かった」


いかにも渋々と言った表情で頷く希に苦笑を向けながら、葬嗚は電車の幽霊である継流卷を呼ぶベルを掲げた。

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