第7話

7.新しいソール


 橘らのチームは、ニューテクノロジー社のランニングシューズに対抗するため苦闘していた。新しいシューズを作るといっても、ニューテクノロジーの「カーボンスプリング」のまねはできない。特許の問題もあるが、2番煎じでは、インパクトが少なく、売れる商品にはなり得ない。したがって全く新しい別の技術で、ニューテクノロジーを越えるものを作り出す必要があった。ただ、それは、言うのは簡単だが、実際にやるのは大変である。ニューテクノロジーの技術がすばらしいだけに、これが究極のものに見えてしまうのである。

「これ以上の軽量化は難しいか」橘が言う。

それに対して開発主任の田中が答えた。

靴紐くつひもなどの素材を改良してもあと数グラムでしょう。ソール(靴底)などをこれ以上軽くすると、靴そのものの耐久性や、選手の足に負担がかかります。市販されることを考えるとすぐ壊れるようなものや、選手のけがにつながる物ではとても売れません」

橘は、まずシューズのさらなる軽量化を図って、そのうえで、プラスアルファーを考えようとしていた。プラスアルファーでニューテクノロジーに匹敵するものができれば、軽量化することでさらに上を行くことができるかもしれない。しかし現実は、そのプラスアルファーは、全く見えず、軽量化さえもめどがたたなくなった。そうなると、やはり今までの、うちのコンセプトはすべて捨てて、全く新しい概念で、これまでにないシューズを開発するしかないか。それは、これまで世界にある物とは、全く違う新しい物を生み出さねばならないということだ。早く走れて、軽く、耐久性もある。そんな都合が良い物ができるのか?橘はこの難しい命題を解かねばならないという強い気持ちと、答えがあるのかという不安が胸を交差していた。

「やっぱりソールかな」

ランニングシューズの性能の9割以上を占めるとされるのがソールである。その材質や厚さ、形、重量などいろいろ工夫の余地がある。逆に言えばシューズのその他の部分はそれほど改良の余地がないとも言える。例えばアッパーの部分など、通気性や軽量化、デザインを工夫することは可能だが、早く走ったり、疲れにくいという目的においては、効果はわずかである。結局、どの会社もどんなソールを作るかに行きつくことになる。ニューテクノロジーのシューズもソールに新しい素材を入れて成功したのだ。今回Aスピードもその命題は避けて通れないと橘は思っていた。ただ、どうしたらいいか、今はその手掛かりさえもないが・・・


 中村聡子なかむらさとこは何気なくテレビの情報番組を見ていた。聡子はAスピードでランニングシューズ開発部門にいる。橘は直属の上司であった。聡子は工業大学の化学科を卒業したいわば、“リケジョ”である。子供のころは、体を動かすことが好きなスポーツ少女で、クラブ活動では高校までバスケットをやっていた。しかし、実業団入りをめざすほどの才能はなく、クラブ活動は高校まででやめた。その代わりに興味を持ったのが物つくりである。多くの精密機械、部品、その素材など、それぞれ品質の高さで日本は世界のトップレベルである。その仕組みを詳しく勉強すれば、日常何気なく見ている部品でも、その技術の高さに驚かされる。例えば「鉄」という誰でも知っている素材一つにしても多種多様だ。学校にある鉄棒、道路のマンホールのふた、橋など鉄でできている物は日常にあふれている。一般の人は鉄でできている物と言えば、鉄100%と思っている人も多いかもしれない。しかし世の中に鉄100%の物はほとんど存在しない。じつは鉄100%の物は柔らかく、もろすぎて素材として使い物にならないのだ。ほとんどの鉄は炭素などと混ぜて硬度を高めており、「鋼(はがね)」と呼ばれている。炭素の混ぜ方などで硬度や靱性じんせいと呼ばれるいわゆる柔軟性が大きく違ってくるのである。大きなところでは高層ビルの柱から自動車の骨組み、電車の車輪など、様々なところに鉄が使われるが、用途によってその強度も違ってくるので、単に鉄という枠組みではなく、全く別物と考えたほうが良い。したがって鉄を作る原料の鉄鉱石は非常に安いが、用途に合わせてきちんと精錬された鉄の値段はその数十倍、数百倍になる。聡子はそのような工業製品の素材に魅力を感じて大学を工業大学に決めたのである。当然就職も、オフィスで黙々と働くよりも、“自分はこれを作ったんだ”という実績が欲しくて、Aスピードに技術者として入社した。そして物作りがしたいという希望通りシューズ開発部に配属され3年が経つ。しかし自分の中で「これをやった」という商品はまだできていなかった。ランニングシューズは、構造がそう大きく変わるものではない。しかし、毎年モデルチェンジをして微妙に変化している。それは、アッパーの通気性、撥水性であったり、ソールの衝撃吸収性を高める素材を使ったり、靴底の溝を工夫してみたり、いろいろだ。そういうことには、聡子も素材の提案や、女性から見たデザイン性などの意見を言って、シューズ製作に少しは貢献してきたのである。最近は女性のランナーも急激に増えており、スポーツ店でも女性用ランニングシューズの占める面積が多くなってきた。むろん、女性と男性ではランニングシューズの好みも違っていて、女性は色やデザインに、よりこだわる傾向にある。したがって開発部にも聡子のような女性の技術者は必要なのである。しかし今回はそもそも課題の難易度が違っていた。走るスピードの性能で、ニューテクノロジー社に勝つシューズを作れというのが社長からの至上命令である。色やデザインでごまかしのきかない話であった。ランニングシューズ開発部全員が受けた命令で、聡子もむろん人ごとではない。まあ、社長から言われたのは橘で、聡子は直接言われたわけではなく、できなければ自分が責任を取って首になるわけではないだろう。これまでは、難しい課題でも橘が何とか解決して事なきを得ていたが、今回ばかりは橘も苦しんでいるようだ。まわりの技術者たちといろいろ話すが、だいたいは浮かない顔で、机で頭を抱えたりしていることが多い。自分もチームの一員なので、なんとか協力したい。かといって、そんなに都合良くニューシューズができるとも思えなかった。この業界でも、画期的なものを作り出すことがいかに困難かは聡子も知っている。しかし、なにかヒントは欲しい。ニューテクノロジーは見つけたんだ。不可能ではないはずだ。


 その夜に聡子が見ていた情報番組は、坂道を楽に登れるようアシストしてくれる自転車というものだった。しかも電動アシストではなく、ペダルのギアに取り付けるだけでよく、ほぼすべての自転車に、後から取り付けることが可能らしい。全く電気などの動力は使わず、坂道が楽に登れるという。

「そんなことがあるのか」

聡子は身を乗り出した。この自転車のアシストの原理はこうだ。自転車はペダルをこぐときに、ペダルの軸が地面と垂直になったときに、力が入りにくく、こぐのが最も難しいそうで、そのときにアシストの歯車についているシリコーンのゴムの反発でアシストし、こぎやすくなるという物である。ゴムの反発力はペダルが地面と水平の時に力をためることができる。自転車をこぐときの力のバランスを考えたアイディア商品であった。これを付けると非力な女性でも楽々坂道を登れるそうだ。実際に女性タレントがにこやかに坂道を登っている映像も流れている。

「そんなもの付けちゃったら、自転車のレースにならないじゃん!」

聡子は自分しかいない部屋でテレビに向かってそう叫んだ。むろん返事はない。そんな装置を付けただけで、速く走れるのであれば、ロードレースや競輪など、レース用の自転車にもみんなこの装置を付けるのではないかと考えたのであった。こんな革命的なことがあるのかと、あとでよく調べてみると、実はそう都合良くはならないようであった。この装置は電動アシストではないので、エネルギー保存の法則から、全体のパワーが増えるわけではないのである。また、このアシストは素人には確かに有用のようだが、競技をするレベルになると役に立たないもののようであった。それにしても、テレビは「画期的な商品です」とメリットについてはセンセーショナルに紹介し、往々にして不利なことは隠して放送することがある。

「おかしいと思った。でも理系の私でさえ、だまされるところだったわ」

確かに、放送ではうそはないだろう。しかし、性能には限界があり、“ママチャリ”レベルの人には有用と断っておかなければ、誤解をまねくのではないか。そんなことを考えていたが、ふと、別な思いにとらわれた。

「シリコーンの反発によるアシスト・・・こういう感じのことが、シューズに使えないかな」

突如、聡子はそう思った。シューズにさっきのシリコーンのような物をつけてもよいのか。聡子は陸上競技のルールを調べてみた。

世界陸連が定めた陸上長距離のシューズにおける新ルールでは(1)靴底の厚さが40ミリ以下(2)靴底の内部に埋め込まれ、反発性を高めるプレートは1枚まで(3)2020年4月30日以降、競技会で履くには4カ月以上の市販期間が必要などと定められている。また、靴底または踵には、うね、ぎざぎざ、突起物などがあってもよいが、これらは、靴底本体と同一もしくは類似の材料で作られていることが必要であるとされていた。

靴は直接地面に触れる一番下のアウトソールは堅い材質のゴムで作られ、しかも地面を捉えて滑りにくいことが必要である。その上のミッドソールは衝撃を吸収し、足に負担がかかりにくい事が主な目的である。両者はもちろん異なった素材で作られるが、要するにゴムか、類似の素材であるなら違う素材を使ってソールを作ってもかまわないということである。ニューテクノロジー社はソールに炭素繊維のシートを埋め込んでいるので、ゴムである必要もないと思われる。この規定の範囲で前に進む力を強めるシューズはできないか。

「さっそく明日部長に相談してみるか」

今はまだ、そのひらめきは、解決に導くには余りに漠然としていた。しかし今まで真っ暗闇であった空から1本の細い糸が垂れ下がってきた気がした。もしかしたらそれは、あえなく切れてしまうかもしれない。しかし聡子は明日、橘に話したくて今夜は眠れそうになかった。

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