第2話

2.日本自動車陸上部


 日本自動車陸上部総監督の松崎健まつざきたけしはきれいに整備された陸上競技場のトラックを見つめていた。ここは、日本の大企業といえば誰もが名前を挙げるほど、日本を代表する自動車メーカーである日本自動車の専用陸上競技場である。一企業の陸上競技部とはいえ、長距離、短距離、高跳び、やり投げなどの日本のトップをめざす選手がいて、一般人には想像以上に大所帯である。したがって陸上競技場も非常にきれいで、整備が行き届いていた。松崎はその陸上部全体の総監督であるが、むろんすべての選手のコーチなど、できるはずもなく、コーチは競技ごとに1人から数人いて、それぞれの専門の選手を教えている。なかでも長距離部は昨今のマラソンブーム、駅伝の人気もあり、最も多くの部員が所属している。当然コーチも部の中で最も多く、長距離部だけで1人のヘッドコーチと4人のコーチを抱えていた。


 日本自動車は、駅伝、マラソンの強豪として知られている。これまで元日のニューイヤー駅伝では優勝3回、マラソンではオリンピックにはこれまで4人の選手を送り込んでいて、いわゆる名門として名が通っていた。駅伝のチームを作るには最低でも10人以上の長距離ランナーが必要だが、ニューイヤー駅伝などはテレビの露出が多く、宣伝効果も大きいので、陸上競技部の中ではまさに花形であった。

今日の松崎は、選手に用があるのではなく、長距離部のヘッドコーチである大野春馬おおのはるまを見つめていた。選手には個別のコーチがついて、タイムの計測や、ロードワークの付き添いなどをするが、ヘッドコーチはコーチからの情報や、選手からも話を聞いて、トレーニングのプランやレースに出場する選手選考なども行う。松崎からみた大野は、トレーニングなどに関しては理論派で、精神論を振りかざすことはほとんどない。現場にもよく出て、気になったら選手と直接話をして、コーチと問題点を解決する手助けもしていた。またベテランから新人まで選手を冷静にみて、えこひいきのない評価をする人物とみていた。

「おーい、大野。ちょっと来てくれないか」

それまで様々な選手の動きをみていた大野は振り返り、こちらにかけてくる。

「どうしたんですか」

「いや、なに。ちょっと相談があるんだが・・・」

その言い方から、何やら良くない話の気配がうかがえた。

「あのな、神奈川電算さんから頼まれてな。おまえ、神奈川電算で指導してみる気はないか」

大野にとっては、まさに寝耳に水の話だった。

「はあ?どういうことですか。ちょっと話が突然すぎてどういう意味か分からないですけど・・・ここでは僕は必要ないってことですか」

大野は、日本自動車陸上部を成長させてきたという自負がある。この前のニューイヤー駅伝も、優勝こそ逃したが、2位に入り、その前の年は優勝している。若手も順調に伸びてきて、チームとしての底上げもできていると思っていた。ここでは自分の指導方針が着実に実を結びつつあると実感していたのだが。

「いや、ちがう。もちろんそういう意味ではないんだ」

「そういう事をおっしゃる理由がよくわかりません。どうしてなんですか」

「すまん、俺も、おまえのことは評価している。俺もこんなことは言いたくないんだ」

松崎は苦渋の表情を浮かべた。

「実は、上から話があってな」

松崎健総監督の上というと、日本自動車の本部か?いや、本部はよっぽどのスキャンダルでもない限り、陸上部の指導方針にはノータッチのはずだ。社長や役員が特別な陸上ファンという話も聞いたことがない。となると、松崎に命令できる者で思い当たるのは一人しかないが。

「ジェネラルマネージャー、ですか」

否定しないということは、そうなのか。日本自動車スポーツ部のジェネラルマネージャー石川幸平いしかわこうへいは、日本自動車が支援しているスポーツ全般の統括をしている。日本自動車ともなると、メインのオーナーとなっているスポーツクラブだけでも、陸上部をはじめ、サッカーJリーグ、バドミントン、ラグビーなどのプロチームや実業団など多岐にわたっている。むろんそれらの運営には大小の差はあるものの、これだけのスポンサーになれば、それなりの金がかかる。陸上部なんかは、これだけの大所帯でも運営費はそんなに多くないほどである。それでもやる企業側のメリットは、主に企業イメージの向上、広告塔としての価値などである。また良い成績が上がって、マスコミに報道されれば、一般の社員の士気も上がるだろう。それは仕事の効率や新規採用にまでかかわってくる。従って、プロチームはもちろん、実業団であっても、ただ試合に出させるだけでよしとしておくことはしない。優秀な選手は試合の遠征なども特別待遇だし、勝てば報奨金も出る。また、人気選手は自社CMに出たり、意図的にファンとの交流をしたりすることは欠かせないのである。陸上部も、人気選手を市民のハーフマラソン大会にゲストで出させたり、中学、高校でのランニング教室なども行っていた。石川は個々の選手やコーチに技術的な指導をすることはなく、もっぱら経済的な面での損得勘定、つまり会社にとって「その運営費は適切ですか」といったところをついてくる。むろん、先ほど述べたように、スポーツには入場料や応援グッズなど直接金銭になるものだけでなく、イメージやPR活動のようにお金で測りにくいものもある。陸上競技は、入場料収入やグッズの販売はほとんど無いので、目に見えて入ってくるお金は少なく、野球やJリーグに比べると、直接収入はほとんどいないと言っていい。賞金レースはあるといっても、年に何回も出られるわけではない。例えばプロゴルフのように毎週のように試合に出て賞金が稼げないのも、日本では陸上のプロ選手がほとんどいない理由といってもいいだろう。陸上競技をする者にとっては、数少ないプロ選手も含めスポンサーは必須なのである。そういったことで、選手とスポンサーの間に見えない上下関係ができてしまうことはある。石川のように経済的原理のみをふりかざす者には、好き勝手言われたりもするので、大野は石川が苦手だった。しかし大野と石川は、年1回の運営会議で顔を合わすが、個人的に会話を交わしたことはほとんどなかった。むろん個人的に特別恨まれることも心当たりがない。

「何で石川さんが・・・」いぶかしげにそうつぶやいた。

「実は、片岡なんだ」

「片岡・・昭彦ですか?」

石川の話から、突然片岡の話題になった。どういうことだ。

片岡昭彦かたおかあきひこは日本自動車陸上部、長距離部門のエースである。大学時代からスター選手で、箱根駅伝は4年連続出場、区間賞3回。鳴り物入りで日本自動車に入ってきた。素質はあるし、日本国内では文句なくトップレベルで速い選手だ。日本国内のマラソン大会でも優勝経験もある。しかし、大野は片岡のことを“殻を破れないでいる”とみていた。練習はするが、大学時代からやっているメニューとほぼ同じようなことをやりたがり、コーチの助言はほとんど耳を貸さない。簡単に言えば大学生の時の監督を崇拝していて、それが絶対であると信じているようなところがあった。大野から見れば、「やり方次第でもっと記録は伸びるだろうに」と思うほど才能にはあふれている。しかし案の定、ここ最近はマラソンなどの記録も伸び悩んでいた。まあ、それでも走れば優勝候補になるほどの実力者ではある。「一度挫折でもすれば、周りの意見を聞く気にもなるかもしれないが」と大野は思っていた。

「やり方を変えてみたらどうだ」一度大野は片岡にそのことを直接言ったことがあった。しかし、その時は「わかりました」と聞いたふりはするが、結局片岡は、練習方法などは変えようとしなかった。

「片岡は、中学生の陸上指導や会社のイベントに、自分ばかり参加させられるのが不満と言ってきた。まあ、それは人気選手だし、そもそもおまえの責任とはいえないよな。それに、おまえのやり方で、走り込みが少なくなって練習にならないとも言ったらしい。走り込みを控えめにして、筋トレなどの基礎トレーニングを重視するおまえのやり方が不満なんだということだ。同じような考えの、取り巻きの選手を含めて、石川さんに直訴したらしい」

片岡は石川の親戚筋らしいと聞いたことがある。それで、本来訴えるべき松崎を飛び越えてジェネラルマネージャーに行ったのか。片岡に辞められると、人気のエースがいなくなるのでちょっと困るからな。

「指導方針に不満があるのなら、直接自分に言うか、100歩譲ってもヘッドコーチの松崎さんに言うのがスジじゃあないのか」

大野は至極まっとうな正論を思ったが、口に出すのははばかった。やり方はどうであれ、チームのエースと複数の選手が明確に反旗を翻したというのなら、それを「まあまあ」と、うまくまとめるのは難しいかもしれない。仮に元のさやに納まっても、しこりは必ず残るものだ。大野にしてもプライドはある。自分の理念を完全に曲げてまで、選手に迎合するのはいやだった。選手の顔色を見て、言いたいことが言えない。それならばコーチの意味は何なんだということになる。

それにしても、総監督の松崎が、神奈川電産の名前まで出しているってことは、完全に外堀も内堀も埋まっているってことだな。松崎にしても上と下から突き上げられて、にっちもさっちもいかなかったのだろう。大野を不当に解雇するわけにはいかないので、なんとか再就職の口を探してきたのかもしれない。

「考えさせてください。それに先方の話も聞いてみたいですし」

そうは言ったが、もうこれは辞令のようなもので、断るという選択肢は閉ざされているようなものだ。まあ、無職になって、いちから就職先を探すか、この日本自動車に意地でも残って、一生窓際の仕事をするのであれば、この話を断ることも可能かもしれないが。

「そうか、すまんな」

松崎は申し訳なさそうに小声で言った。


 大野春馬は、千葉県の西側にある商業都市に生まれた。東京の都心からも比較的近く、いわゆるベッドタウンとして人口も増加傾向にある町だ。父親は地元の企業の営業職、母親はスーパーのパートをしていた。両親とも忙しかったが、大野が一人っ子であったこともあり、小さい頃は父親もよく遊んでくれていた。その父親が高校まで、部活動で陸上部の短距離種目をしていたことから、小学生になったばかりの頃から大野にも走り方などを教えてくれた。むろん6歳とか7歳の子供相手なので、遊びの要素がほとんどであったと思われる。それでも、そういう訓練をたまにすることで、運動会のかけっこには大いに役立った。ほとんどの子は、走ることについて誰にも教えてもらえない。練習もせず、本番をただただ全力で走るので、フォームもでたらめ、力の入れようも無駄なところが多いのだ。その中で理想的なフォームを教えてもらい、時々練習を積んでいる大野は、クラスの中では敵なしの速さであった。

「春ちゃん、すごいなー」

友達はみんな大野をほめてくれた。子供心にもクラスの中で1番のものがあるのは誇らしいものである。特に足が速いというのは周りの子からの称賛を浴びやすいのだ。そういうわけで、陸上によりクラスの尊敬を集めた大野は、当然陸上が好きになり、中学では本格的に陸上部で活動をすることになった。

大野が入学した中学校は、千葉県でも名門の陸上部があり、部員数も多かった。ここでは今までとは勝手が違う。これまでは素人か素人同然の相手に勝ってきたが、ここは群雄割拠の陸上経験者が多く集まる戦場である。その中で、大野は埋もれてしまいそうになっていたが、そこの監督さんが800mと1500mの中距離をやらないかと勧めてくれた。ほぼ100m中心の短距離しか練習してこなかった大野にとって、未知の距離ではあったが、監督は大野のスピードとともに心肺機能の高さ、回復力の速さを見出したのであろう。これを契機に、大野は中距離でぐんぐん頭角を現していく。最初は後半までスタミナが持たず、練習についていけなかった。しかし、400m走って200mジョギングでつなぎ、また400mを走るというインターバル走などでスピードと持久力をつけ、徐々に後半までスピードを保てるようになってきた。ここで大野が大事だと思ったのは体幹の筋力である。特に上半身のフォームを安定させストライドを伸ばして行くには背筋の力が欠かせない。そして腹筋を使って後ろの足を素早く戻す必要があるのだ。大きな筋肉を使えば当然のことながら大きなパワーが生まれる。大野はこの体幹を鍛えるトレーニングに人一倍時間をかけた。そうするとタイムはおもしろいように縮まっていく。

「なぜみんなこんな重要なトレーニングをしないのだろう」

他の選手も練習の合間に筋力アップのトレーニングはするが、大野からすると、申しわけ程度のものに見えた。身体を作らないまま限界まで走るトレーニングをし、故障していった選手が何人もいた。体幹を中心に柔軟でしっかりとした身体を作っておけば、けがをしにくくなる。この体幹の大切さは100mでもマラソンでも大事であることは後になって気づくことになる。


 大野が専門にした800mや1500mは、日本と世界のレベルは男女ともにかなりの開きがある。特に最近は外国勢のスピード化が顕著で、日本人は初めからそのスピードについていけない。オリンピックなど、世界規模の大会では、参加標準記録が超えられず、日本人は出場することさえほとんどできない競技なのだ。それゆえ日本では800mとか1500mの競技は、一般にはあまり知られておらず、テレビ放送があるのは、NHKがせいぜい年に1回放送する日本陸上競技選手権大会くらいである。しかしヨーロッパなどでは、この中距離種目はかなり人気がある。この競技の面白さは、前半からの駆け引き、スピード感などもあるが、何と言っても最後のラストスパートの競り合いにあるといっても過言ではない。800m競争は「陸上の格闘技」と呼ばれるくらい、コースの位置取りでは選手が肩をぶつけあり、コースを塞いだりして駆け引きをする。ラスト200mくらいから位置取り争いがあり、そしてラスト100mの勝負で勝敗が決まるのだ。それはさながら競馬のGIレースでのラストのたたき合いを見ているようだ。


 800mはセパレートコースからスタートし、トラックをわずか2周する競技である。それゆえ、初めから100mを15秒前後の速いスピードで走ることが必要である。むろんそのようなスピードで走り続けるには、体内に酸素を取り入れる心肺機能と、たまった乳酸を処理し続ける能力が必要である。大野にはその才能があったのであろう。また、監督も的確なトレーニングを指導することで、大野はめきめきと力をつけていった。高校もスポーツに力を入れている所に入学し、陸上を続けた。そして高校3年のインターハイで、800mは3位、1500mでは優勝するまでになった。

大学に入っても、大野の成長は続く。大学2年のインカレでは1500mで2位に入り、全日本陸上選手権大会にも出場した。しかしこの後、大野に悲劇が訪れる。それは、大学3年のインカレの時であった。


 この大会の800mに出場した大野は、予選は難なく通過し、決勝に臨んでいた。勝負の決勝、スタートのピストルが鳴り、勢いよく選手が走りだす。第2コーナーを回ってオープンレーンになる。第3コーナーでは選手たちはできるだけ内側を回りたいので、ひしめき合ってくる。コーナーを回っている最中に、大野は後の選手の足が当たり、バランスを崩した。そこに横から入ってきた選手と接触し、大野は転倒する。さらに運が悪いことに、転倒した大野の足に後続の選手が倒れて、のしかかってきたのだ。

「バキッ」という嫌な音を聞いた大野はそこから動けなかった。膝を抱えてうずくまる。右膝内側側副靱帯損傷、膝に外側からの強い力がかかることによる、膝関節を支えている内側の靱帯の損傷であった。しばらくはギブス固定、その後関節鏡手術を行い、リハビリをしていくことになった。ギブスをまいた大野のところに、足がかかった選手が泣いてお詫びに来た。大野はその選手を責める気にはなれなかった。わざとではないことは分かっている。不運としか言いようがないのだ。

「大丈夫、気にするな。800は格闘技なんだから。俺は必ず復帰するよ」

大野はそう言って、相手を気遣った。その後大野は選手への復帰をめざして必死にリハビリを行った。しかし、大野がトラックの表舞台に戻ってくることはなかった。中距離における伸びやかなスピードはもう出せなくなっていたのであった。

ただそれでも、大野は陸上界から足を洗うのではなく、なんとか陸上界とつながりを持とうとして、それ以降、大野は陸上の指導者の道を目指す。そのために教員の免許も取得し、高校生なども指導してきた。父がいなければ陸上はやらなかったかもしれない。中学の時の監督がいたからこそ、800や1500で自分を輝かせることができたのだ。そういう出会いに多くの子供や若い選手が恵まれて欲しい。そして心の底では「いつか日本の陸上界が、世界と対等に渡り合う日が来て欲しい。そんな自分の夢を未来のアスリートにかなえてもらいたい」そういう思いは常に持っていた。

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