避暑地に佇む魔女の店 2

「私、弟を愛しすぎているんです」


 出された紅茶を一口すすり、カップを両手で持ったまま森岡は告げた。


「それはまた……どういう意味の愛でしょうか」

「どういう意味というと?」

「家族としての愛なのか、その、恋愛としての愛なのか」

「ももも、もちろん家族としてです! 実の姉弟ですし!」

 森岡は慌てて顔の前で両手を振る。

「家族としての愛ならば、何も問題はないのではないですか」

「私も、大切にしているという意味合いでなら、その愛は誰にも批判されることはないと思います」

「では森岡様は何をお悩みなのでしょう」

 ティーカップを静かにソーサーに置きながら、ひばりは首を傾げる。


「昨年、弟が初めて彼女を自宅に連れてきたんです。付き合い始めてひと月だと、嬉しそうに彼女の手を握りながら言っていました。2人仲良く私に挨拶をしてくれたんですが、その時なぜか心臓がバクバクして嫌な汗が止まらなくなってしまって、それに気が動転して、2人が何を言っていたか思い出せないんです」

 森岡は頭が真っ白になり、自分がその時に何を言ったかも覚えていないのだと言う。


 その翌日から弟は話さなくなった。それだけでは無い。声をかけても目を逸らされ、リビングや食事で一緒になっても、一言も話さずすぐに自室に戻ってしまう。

「もう1年も避けられています。それまでは弟が反抗期だった頃に2~3日話さなかったことはあるんですけど、すぐに機嫌を直していつも通りになったんです。なのに、もう、1年も……」

 森岡は俯き、指先が白くなるほど強くカップを握り僅かに震えている。

「きっと動揺した私が、弟可愛さに彼女に何かひどいことを言ってしまったんだと思います。謝りたくても、避けられているのでチャンスさえ巡ってきません」

 森岡にとって、弟と距離の空いた1年は辛く苦しい日々だったのであろう。落ち着くために口に含んだ紅茶の味が感じられないほどに。

 ひばりはそんな森岡の様子をみて、微笑みを僅かに深くした。


「森岡様、実は私にも弟がおります。中学2年生で、しっかりしていて愛嬌のある可愛い弟です」

 森岡は顔を上げ、ひばりを見る。

「愛おしくて構いすぎてしまうくらいなんですけど。その弟と1年も話せないなんて……。想像するだけで胸が苦しいです」

 右手で唇に軽く触れながらうっすらと瞳を濡らすひばりに、森岡は額に汗がにじむ。

 ――なぜだろう、ひばりさんの優しさを感じるのに、さっきから少し、息苦しい。

「愛にも様々な形がありますよね。決してそれは定型的な型にはまることはありません」

 体温が上がるのを感じた森岡は、ティーカップを握る手に少しだけ力を込める。それを横目に、ひばりは話し続けた。

「森岡様は、弟さんとどのような関係になりたいですか? 包み隠さずに仰ってみてください」

 ひばりの声が脳内に響き渡り、先ほど一階で鳥型の水差しを見ていた時のような感覚に陥る。

「どのような関係と言われると難しいですね。1年前までのように、気兼ねなく話せる関係に戻りたいです」

「それだけでよろしいんですか?」

 しかしその感覚は先程と違って、気持ち悪さというよりも、高熱を出した時のふわふわとした浮遊感に近い。

 ――だめ。

「えぇ、せめて姉弟として、最低限の会話だけでも――」

「本当に?」

 ぐるぐるとひばりの声が脳内を駆け巡り。必死で蓋をしていた感情が少しずつ溢れ出る。それを救って再び戻そうとする。出してはいけない何かを必死に食い止める。

 ――だめだったら。

「ほ、本当に……」

 本人も気づかぬうちに虚ろになっている森岡を見て、ひばりの口角が上がる。滑らかに孤を描く唇から、森岡はもう目が離せない。


「本当は?」

 ひばりの声が、森岡の大事な蓋を軽やかに払った。


「……できることなら、ずっと私のそばにいて、ずっと私だけを見ていてほしいです」

 森岡の中で、留めていた感情が濁流のように流れ出た。


「わかりました。これ以上、森岡様がお辛い思いをしないよう、おまじないをご用意いたします。リヒト」

「承知しました」

 ひばりの呼び掛けに、部屋の奥にあった戸棚の陰から男が現れた。リヒトと呼ばれたその男は、ひばりの前に立ち頭を垂れる。

 森岡は突然現れたリヒトに驚き、目を見開き固まっている。


 ――もしかして、今の話ずっと聞いてた……?


 森岡の不安を察したひばりが、横目でリヒトを見ながら話す。

「この子はリヒトです。絶対的に私に仕えてくれる者なので、ここで聞いたお話はどこにも漏らしません、ご安心ください」

 ひばりは明らかに自分より年上の男性の頭を、まるでペットを愛でるように撫でながらそう言うと、リヒトは気持ちよさそうに目を細めた。

 階級制度が撤廃されて長らく経つ現代の日本において、ここまで主従関係がハッキリとした人間同士を見たことがない。なんとなく他人の見てはいけない部分を見てしまった気になって、つい顔を赤らめてしまった。

「リヒト、薬棚から軟膏を1つ持ってきてくれる? まだ包装はしなくていいよ」

「承知しました」

 リヒトは恭しくひばりと森岡に頭を下げ、くるっと踵を返し部屋を後にした。


「えっと、リヒトさんは執事……とかなんですか」

 森岡は小声でひばりに尋ねる。森岡の目には、リヒトが漫画やドラマに出てくる令嬢に仕える執事のように映っていた。

「執事ではないですけど、まぁ……似たようなものです」

 ひばりはにっこりとほほ笑み、ティーポットに残った紅茶をカップに注ぎきる。

 詮索しすぎたかと少しだけ気まずさを感じながら、カップから立つ湯気をぼんやり見ながら、リヒトが戻るのを待った。

 先程まで森岡が冒されていた熱は、気づけば跡形もなく消え去っていた。

「失礼いたします。品物をお持ちしました」

 白いシルクの布がかけられたトレーを持ったリヒトは、素早くひばりの斜め後ろに立ち、スッと胸の前に差し出す。

 その流れるような美しい動作に、森岡は感嘆の息を漏らす。

 リヒトが布を外すと、そこには小さな銀色の丸い容器が置かれていた。ひばりは容器を手に取り、蓋を外し中身を確認する。

「これは口紅です」

 そう言ってひばりは森岡に見えるように差し出したが、中身は白っぽい軟膏のようなものだった。

「特に色はついていないんですね。確かにリップバームのように見えますが……」

「最後にもう一工程あって、それで完成となります。作業をしてきますのでこのままお待ちいただけますか?」

「わかりました。よろしくお願いします」


 ひばりは席を立ち、衝立の奥へ消えた。ぼんやりと先程の2人のやり取りを思い出す。

 ――きっとひばりさんはお嬢様なんだな。

 ひばりの艶やかな仕草や上品な立ち居振る舞いを鑑みると、そう納得せざるを得ない。そのひばりに仕えるリヒトもまた、恐ろしく優雅な動作をするものだから、森岡がそう思うのも無理はなかった。

 魔女の店なんて言ってるけど、実はお嬢様のただの道楽なのかしら……と森岡は考え始めた。もっとおどろおどろしい儀式や、大鍋でぐつぐつと何かを煮込んでいるとんがり帽子の魔女を想像していた森岡には、目の前の品のある女性がとても魔女だとは思えなかった。


 ――さっきの薬作りも特別変わったことなどなかったし、お店もおしゃれで不思議な雰囲気ではあるけれど、これと言って魔法や魔術的なものがあるわけでもない。強いて言うなら、現代にそぐわないこの二人の主従関係に違和感を感じるくらい。おまじないなんて、やっぱり気休めだったのかな。


 弟との関係修復のために、慣れない遠出をしてこの地までやってきた森岡は、残念な気持ちを小さなため息にして吐き出した。


 ひばりは作業台の前に立つと、引き出しの中から銀のナイフを取り出し、それをエタノールで湿らせた布で拭った。消毒されたナイフで左手の薬指の腹に小さな切れ目を入れ、自らの血を銀色の容器の中に1滴垂らした。すると、先ほどまで白濁していた軟膏がみるみるうちに赤く染まり、あっという間にべにに変化した。

 指の傷口をチロと舐めると、血は立ち所に止まり、傷口も薄くなっている。


「お待たせいたしました」

 ひばりが戻ると、持っていたトレーの上には、先ほどと同じ容器に、赤く染まった口紅が入っていた。

「赤くなってる」

 森岡は感心したように覗き込む。どのようにこんな短時間で色を付けたのかを尋ねると、企業秘密ですとだけ返された。

「使い方は簡単です。この口紅を塗り、弟さんに話かけてみてください」

「え? それだけですか?」

「はい、それだけです。ただし、唇に塗るときは左手の薬指を使って塗ってください」

「左手の薬指じゃないと駄目なんですか?」

「ええ、おまじないですからね。ちょっとしたルールがあるんです」

 ひばりは悪戯っぽい笑みを浮かべてみせるが、すぐにその笑みを掻き消し、鋭い視線で森岡を見つめる。

「一つだけ注意点があります。弟さんとの関係に変化があったら直ちに使用を中止してください」

「直ちに、ですか」

「これは絶対です。守っていただかないと、せっかく関係が修復されたとしても再びヒビが入る可能性があります。できれば残りは焼却し、容器は捨てるようにしてください」

「……わかりました」

 森岡は「関係にヒビ」という言葉に胸がキュッと締め付けられた。もう二度とこんな思いはしたくない。たとえおまじないが空事だったとしても、これ以上の関係の悪化はない以上、信じて頼るほかないのだ。


 森岡を店の出入り口まで見送るひばりは、研究のために効果の程が知りたいのでまた店に来てほしいことを告げる。

 お嬢様の道楽でしている商売だと思っていた森岡は、研究のためという予想外の言動に少し面食らったが、

「あはは、そうですね。効果があったらまた来ます」

 と、笑って了承した。

「ありがとうございます。森岡様の幸せを願いながら、またのお越しをお待ちしております」


 *


「ひばり様、よろしかったのですか?」

 工房に戻り、リヒトが淹れなおしてくれた紅茶を飲みながら一息つく。

「何がー?」

「お代です。ひばり様の血をお使いになられたまじないを、あんな破格の値段でお渡しするなど……。それにあのレシピは――」

「いいのよ。お客様の幸せは私の幸せ。それにちょっと実験も兼ねてるしね」

「そうでしたか。目的達成のために大切なお客様を実験台になさるその冷酷さ、景仰を禁じえません」

「ちょっと、人聞きが悪いわよ」

「ひばり様の幸せは私の幸せでございます」

「やかましい」


 ひばりは森岡の幸せを願いつつ、そして実験の成功を祈りつつ、残った紅茶を飲みほした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る