暁天飛翔(下)

 真っ黒な世界から一転、蓮安リアンは赤黒い床の上に放り出された。


 そこは巨大な鳥籠とりかごだった。いばらを編んで作られた壁からは赤黒いしずくが滴り、薄気味悪く明滅しながら脈打っている。


 蓮安は低く吐き捨てた。


「悪趣味」

「おや、趣向を凝らしてみたのだがね。やはり年頃の娘の感性というのは難しい」


 白々しい声とともに、老爺ろうやが姿を現した。道着から突き出た肌は黄ばんだ包帯で覆われ、顔も随分とやつれている。だが、にこりと微笑むその表情だけは、記憶のなかにある養父と変わらない。


「蓮安。そうにらまないでおくれ。感動の親子の再会というやつだろう?」

「笑わせるな。お前は人間のガワを被っているだけだろうが。妖魔ようまめ」

「そう、そうだなあ。そのとおりだとも」


 立ち止まった老爺は――師父の名である鴻鈞コウキンかたる妖魔は、形ばかりの同情を浮かべて目を細めた。


「滑稽だよ、三流の術士。お前は俺を父と呼びたくない。なれど俺の真名を知らぬ。故に妖魔などと、陳腐ちんぷな言葉で呼ばざるを得ないのだから。百年前にきちんと調べておけば、行く先々で不幸をばらまくこともなかったろうに」

「はっ。お前が書物に名も載らぬほどの下級なのが悪いんだろう。だから三流術士に肉体を滅ぼされて……っ、」


 しゃがみこんだ鴻鈞に無造作にあごをつかまれ、蓮安は顔を歪めた。「俺はお前に感謝しているのだよ」と鴻鈞はことさら優しく言う。


「なんといっても不自由な妖魔の器を捨て、人の体を手に入れることができた。匣庭はこにわの外で生きるということの、なんと素晴らしきことか。だがなぁ、このうつわもいい加減に屑籠くずかご行き寸前だ。ならば新しい器をしつらえねばなるまい。とびきり若くて美しい女の器を」

「……っ、は。目玉の手入れを忘れてるんじゃないのか? これは死人の体だぞ」

「龍の気に入りだ。しなだれがかって甘くさえずれば、心を奪うことだって出来るだろう。なぁ?」

「なんだそれは」蓮安は鴻鈞の顔に向かって唾を吐いた。「あれは私の龍だ。お前なぞに渡すかよ」


 蓮安は密かに地面へ描いていた紋に手のひらをかざした。


 すみ色のひもが立ち上がって鴻鈞の腕をしばる。その体を突き放しながら、蓮安はさらに紋へ一画を足し、柏手を打った。


厄災やくさいをすすげ、流水紋りゅうすいのもん


 勢いよく上がった水柱が鴻鈞の右腕を飲み込む。狙いも威力も十分だ。なれど何事もなかったかのように、老爺の腕が水流のむこうから突き出された。


 蓮安は奥歯を噛み、さらなる紋を完成させる。


『灼熱にて燃やし尽くせ 日足紋ひあしのもん


 水と炎が触れあって爆発した。水蒸気まみれの煙を隠れみのにして、蓮安は走り出す。仕留めたとは思わなかったし、実際そうだった。


 鴻鈞の声が響く。


留蝶蝶を留めよ


 煙を裂いて、むき出しの刃が三本飛ぶ。師父そっくりの掠れた低い声に腹立たしく思いながらも、蓮安はなんとか刃をかわした。


 煙の狭間に見えた鴻鈞の右腕はやはり無傷だ。術を食らって平然としているのだ。生身の肉体ではない。炎で燃えなかったのだから符術でもない。ならば妖魔としての力のせいか。それを判ずるには、まだ証拠が足りない。


 だが、あの妖魔を見逃す気も毛頭ない。


 蓮安は地面をこすりながら紋を描きあげた。


『荒天を呼べ、檜扇紋ひおうのもん!』


 うなりを上げた風は竜巻となって前方に飛ぶ。煙が晴れた先で、鴻鈞は余裕の笑みを浮かべたまま右腕を前に捧げた。


 暴風が腕をとらえて引きちぎる。血飛沫ちしぶきが飛んだ。その直後、鳥籠から落ちた赤黒い雫が傷口に触れ、新しく男の腕が生える。


 目を見開く蓮安に向かって、鴻鈞が笑う。


「生の願いを喰らって生きるのは、お前だけではないということだ。三流よ――”転嵐嵐を転ず”」


 鴻鈞が腕を振るうと同時、風が蓮安に向かって矛先を転じた。

 突風に体を引き倒される。なんとか立ち上がろうと彼女は床に手をついた。

 その直後、赤黒い鳥籠の茨が蓮安に絡みつき、四肢を切り飛ばす。


「っ!?」


 激痛に息が詰まる。地面に頬を強く打ちつける。切られた断面に茨から落ちた赤黒い雫が触れた。


 ――生きなければ。


 姿なき声が響き、蓮安は悲鳴を上げる。


 たった一つの望みは、すぐに数え切れないほどのざらついた声となって体の内側を這いずり回った。鮮血とともに肉が押し上げられて、切られたはずの手足が生える。それでも飽き足らずに体中のあちこちの傷が無遠慮に塞がれていく。生きたいと、生きろという声がいっそう大きくなって思考をおかす。


「あぁまったく素晴らしいな! 願いをいくら詰め込まれても、器は綺麗に元通りだ!」


 鴻鈞の嬉しげな声とともに、蓮安は髪を掴まれて顔を上げさせられた。


 老爺は瞳を炯々けいけいと光らせて、赤黒い柘榴ざくろを蓮安の口元に押し当てる。腐った血肉の香りにのって、ぞっとするほど濃い生の願いが注がれた。


 蓮安は咳き込み、耐えきれなくなって吐いた。ひょいとそれをかわした鴻鈞は、少し離れた場所で、「おやおや」と食べかけの柘榴をかじって笑う。


「せっかくの食後の甘味を粗末にするとは。親の教育がなっておらんようだ」

「……っ、なんだ、それは……」

「俺が丹精こめて作った果実さ。大人の臓腑を三人分、願いを九つ、隠し味に赤子の眼球」皮を地面に吐いて捨てながら、鴻鈞は赤黒い蜜の滴る右手をひらりと振った。「だがなぁ、生身の人間に強すぎる願いは毒だ。再生はするが、お前のように元通りとはいかない。だからこうして腐り落ちそうな四肢を包帯でつないでおかねばならん。まったくもって不便というものだろう?」

「……悪趣味……」

「それは先も聞いたなぁ、三流よ」


 蓮安はずるりと床に倒れ込んだ。体を打ちつけることはなかった。床は今や、赤黒い雫で満たされて沼のようになっている。


 生を願う水面に沈む。鴻鈞の笑い声が聞こえたが、それもすぐに遠くなった。


 *****


 鳥籠から伸びた茨が、動かなくなった蓮安の体を包んでまゆを作る。生の願いは濃く、今度こそは生意気な反抗の意思も消えてしまうだろう。


 待ちわびた時に、鴻鈞は心を震わせながら歩を進めた。


 朽ちることを知らぬ女の器を手にすれば、匣庭と現実を繋いで天をあざむき世を渡ることができる。その先に待つのは人々の願い、すなわち絶望の種でもある。


 いかにして己好みの果実に育てようか。来る日に鴻鈞はほくそ笑みながら、鳴動する赤黒い繭へ手を伸ばした。


 その指先はしかし、空を切る。目を見開く鴻鈞に、軽やかな少女の声がかけられた。


「――あらあら、背中がお留守だよお? オジサン」


 鴻鈞は振り返りざまに手を横薙ぎに振るった。腐りかけた手首とともに、破壊された箱の木片が宙に飛ぶ。無事なほうの手で柘榴を掴もうとした鴻鈞は顔をしかめた。


 そこはすでに鳥籠ではない。薄暗い部屋だった。樺木かぼくの調度品と、刺繍をほどこした絨毯じゅうたん。暗闇は灯火と赤紫を宿す燈籠とうろうに照らされ、白檀びゃくだんの香りが華を添える。


 そして陰りゆく優美さに満たされた世界で、寄り添うに二人の少女が立つ。


「やだなぁ。すーぐに箱を壊しちゃうなんて、そこらのチンピラとやること変わんないじゃん。ね、キシちゃん」

「そうね、姫子ヒメコ。野蛮で卑劣だわ」


 くすくすと笑う姫子に静かに応じて、イチルは唐傘からかさから転じた刀を抜いた。


「だから、わたくしたちで止めなければ」


 義足で地面を蹴って、イチルが飛び出した。機械仕掛けの足は、先の同士討ちで破壊されたはずだ。それが無傷ということは、ここは少女の匣庭はこにわの内ということか。


「……小娘どもめ」


 鴻鈞は歯噛みして、無事なほうの左手を宙で踊らせる。


『留蝶』


 紋から産まれた三本の刃がイチルを退けた。鴻鈞の視界の端で赤紫の光が舞う。


幻惑イリンクス


 姫子の声が響くと同時、鴻鈞は強烈な目眩に襲われた。体が傾ぐ。その一瞬の間にイチルが刃を閃かせる。


 鴻鈞は転がるようにして逃れながら、床に突き立った刃を左手で掴んだ。イチルの二撃目を乱暴にはらい、さらにつま先で刃を蹴り上げる。イチルがのけぞった。切れた赤髪が宙を舞う。


 鴻鈞とイチルの間に赤紫の光があふれ、現れた新たな木箱が鴻鈞の刃を防いで砕けた。小賢しい。鴻鈞は胸中で吐き捨て、千切れた右手首を赤紫の光の中へ突っ込む。


顕姿姿を顕せ――姮娥コウガ


 光が凝集し、姫子の姿を引きずり出した。驚いたような顔をする少女の妖魔に向かって、鴻鈞は刃で斬りつける。


 鮮血のごとく赤紫の光が一斉に舞い、イチルが悲鳴を上げた。


「姫子!」

「行って、キシちゃん!」


 姫子が口から光をこぼしながら叫ぶ。耳障りなそれを、鴻鈞は更に刃を押し込んで黙らせようとした。だが姫子は苦しげに呻いただけで、一向に倒れない。


 鴻鈞は呆れてため息をついた。


「愚かだな。大人しく俺に従っていれば、お前にも分前わけまえをくれてやったというのに」

「……腐った人間の願いを、って? んなもんいるわけねーだろ、ばーか」

「低俗な妖魔らしい口答えだな――”留蝶”」


 地面から産まれた新たな刃が姫子の体を貫いた。鴻鈞が刃を引き抜けば、少女の体が傾いで赤紫の光とともに消えていく。


 それでもなお、姫子は苦しげな顔のまま、せせら笑った。


「残念、全部はずれよ」


 奇妙な言葉に、鴻鈞は眉をひそめた。その間に姫子の体が消える。追撃の気配もない。ならば何がはずれなのか。


 義足が床を叩く音に、鴻鈞は顔を上げる。逃げるようにして立ち去るイチルの手には白い紙が握られていた。残念、全部はずれよ。殺したはずの姫子の声が再び蘇り、鴻鈞は己の失態に気づく。


「おのれ小娘! 俺から、なんの秘密を奪った!?」


 赤紫の残滓を踏みつけて、怒りもあらわに鴻鈞はイチルを追いかける。紋から喚び出した刃がイチルの義足を貫いた。


 少女が倒れ込むと同時、匣庭の景色が揺らめいて消える。鳥籠の茨からもいだ柘榴を齧って捨て、鴻鈞は新たに生えた手で刃をつかんだ。


 赤黒く鼓動する繭に向かって、イチルが必死に地を這っている。今にも泣き出しそうな顔は青白い。だのに動きを止めぬ人間に、鴻鈞は見苦しいと胸中で吐き捨てて刃を振りかざす。


「終わりだ」

「――いいえ、終わりなどではない」


 頭上から響いた青年の声に、鴻鈞は顔を跳ね上げた。ひしゃげた鳥籠の茨を踏んで、龍鱗りゅうりんに顔のなかばほどを覆われた黄龍コウリュウが己を見下ろしている。


 その直後、穢れを帯びた幾百もの水槍が妖魔に降り注いだ。



 *****



 真っ暗な世界に落ちながら、彼女は何度も四肢を飛ばされ、同じ数だけ再生された。


 喧騒けんそうは遠い。周囲は気味が悪いほど生暖かい。血肉の臭いに満ちている。そうして響くのは、願いの声だけだ。


 生きたいという声。生きろという声。生きなければならないという声。声、声、声。たくさんの声が響いて、身の内を満たして、あぁやっとこれで生きることができると、痛みに怯えなくてすむのだと、あの人のために生き続けなければならないと、見も知らぬ他人の安堵が、得体の知れない喜びが湧き上がって、もう自分はこれでいいのだと、全部投げ捨ててしまえと、そんな気持ちになりさえもして。


「……くそくらえ」


 彼女は――蓮安は、震える唇で吐き捨てた。


 破壊と再生を繰り返した体は引きつけを起こしたように跳ねるばかりで、一向に思いどおりに動かない。今考えていることだって、気を抜けば願いの声に流されて消えてしまいそうだ。願いの声。あぁそうだ。そうだとも。


 奇妙な一致に、蓮安はうっすらと笑った。あの情けなくてお人好しの龍でさえ、願いの声を無視して動くことが出来たのだ。それを自分ができないでどうする。


 消えそうな意識をかきあつめて、ぶるぶると震えるばかりのあごを上げた。世界は相変わらず真っ暗だった。地の底で夜の底だ。天上の星の光なんて届かない。それでも彼女は知っている。


 もう、あの大火の夜ではない。だからこそ万人のための星ではなく、たった一つの彼女のための星の名をぶ。


「来い、シロくん」


 その言葉を待っていたかのように、闇に亀裂が入った。


 薄く差し込んだ光の先から、冷涼な風が吹き込む。澄んだ水の気配が願いの声を退ける。


 そして蓮安は必死に指先を伸ばし、己を探すシロの手をしっかりと掴む。


 澄んだ音を立てて繭が壊れた。再び蓮安は外の世界に放り出されるが、今度はたくましい腕に抱きとめられた。


 彼女は顔を上げ、随分と血まみれになったシロに向かってにやりと笑う。


「っ、はは……遅いぞ、シロくん」


 シロはため息をついた。


「それだけ元気なら、何の心配もいりませんね」

「ぬかせ。麗しい乙女は命の危機だったんだぞ」

「大人しく守られてくれるような人でもないくせに」


 苦笑したシロの胸元を小突いて、蓮安はよろめきながらも立ち上がった。


 手のひらを何度か開け閉めする。痛みはないが、適当に再生されたせいで思い通りに動かすのは難しかった。竹筒に残っている呪墨じゅぼくも残りわずかだ。


 まったく散々だなと思うのに、シロが涼しい顔で「大丈夫ですか」などと問うものだから、「もちろんさ」と頷いてみせた。


 獣の唸り声が響き、二人はそろって前を向く。突き立った水槍を蹴散らして、鳥籠から赤黒い茨が伸びた。それは肉塊を拾い上げて繭を作る。不自然な鼓動は心臓のそれだ。


 蓮安は肩をすくめた。


「残念、シロくん。妖魔殿は諦める気がないらしい」

「構いません。先生と僕で潰せばいい」

「ひゅう、頼もしい限りだな」

「先生、これを。イチルからです。しくじったら許さない、と」

「おや。イチルちゃんが?」

「僕が来るまで、先生を守っててくれたんですよ。社の一ツ目を持っていたので、安全な場所に避難してもらいましたけど」


 手渡された紙を見やった蓮安は、にんまりと笑った。かたわらで、シロが引きつった顔をする。


「完全に悪役顔ですよ、それ」

「ふふん、美女はどんな表情をしたって許されるものなのさ」

「その性格、もう少しどうにかならないのかなぁ。いたっ」


 蓮安がシロのつま先を踏み抜いて黙らせたところで、熟れた果実が爆ぜるようにして繭が破けた。


 腐臭とともに血まみれの鴻鈞がぼとりと落ちる。かろうじて人の面影はあったが、体躯は巨大ないぬのそれだ。赤く濁った四つ目がぎょろりと動き、骨の髄から揺らされるような咆哮ほうこうがあがる。


 周囲の茨が一斉に蓮安たちに向かって放たれた。シロが蓮安をかばうようにして立ちながら、低く言う。


「足止めします。援護を」

「応ともよ」


 足元の槍を蹴り上げて掴み、シロが茨を薙ぎ払う。その影に隠れるようにして、蓮安は素早く地面に紋を描いた。


極夜きょくやに打つ、四色ししょくを染める 厄災をすすげ、流水紋』


 柏手を合図に、水柱みずばしらが茨の束を貫いた。大穴をくぐるようにして二人は茨の渦から飛び出す。


 獣の咆哮が頭上から注いだ。シロが蓮安を突き飛ばし、黄ばんだ鉤爪かぎづめを槍で受け止める。


 粘ついた唾液を撒き散らして、鴻鈞がにたにたと笑った。


「いいなあ、いいなあ、羨ましいなあ。美しい体、美しい獣、願いを叶える力、すべて俺にはないものばかり。少しは恵んでくれたっていいんじゃないか。なあ」


 獣の意思に応じたように、赤黒い茨が一斉にシロへと矛先を向けた。彼は舌打ちして獣を退け、地面を覆う水に手をひたす。


恢網かいもうの水嵐!』


 放たれた無数の水槍が、茨を穿うがった。笑いながら逃げる鴻鈞を追いかけて、シロは赤黒いつたを駆けのぼる。


 時おり放たれる茨は、すべて槍で串刺しにして地面に縫い止めた。足場が途切れたところで最後の槍を掴んで飛び出し、鴻鈞の体に突き立てる。


「あああああ痛いなあ、痛いなあ、痛いなあ!」


 狂ったように笑いながら、鴻鈞は四つ目をぎょろぎょろと動かして大声でいた。空気が震え、シロの体が吹き飛ぶ。


 蓮安は柏手を打って叫んだ。


『高らかに打ち鳴らせ、稲光紋いなびかりのもん!』


 辺り一帯に突き立った槍を伝って、轟音ごうおんとともに白雷びゃくらいが鴻鈞と茨を打ちすえた。

 

 赤黒い鳥籠が大きく震え、黒焦げになった茨がばたばたと横倒しになる。大狗おおいぬもまた、地に落ちた。蓮安の目と鼻の先だった。


 巨体がびくりと痙攣けいれんする。そして狗の背中から、濁った赤黒い目を持つ黒腕が勢いよく生えた。


 目を見開く蓮安に、鴻鈞は笑う。


「時間だぞ、三流」

「っ!?」


 黒腕が蓮安の体を掴んで引き寄せた。腐った血肉の臭いを撒き散らして、鴻鈞が蓮安の肩に噛みつく。


 激痛とともに生の願いが入り込む。こらえきれなかった悲鳴が蓮安の口から漏れる。妖魔が赤黒い目を歓喜に輝かせた。


「さあさあさあ、混じってしまおう。つがってしまおう。おかしてしまおう。我が愛しのうつわ永久とわに明けぬ夜。天を欺き、幸いを、」

「っは。餓鬼ガキじゃあるまいし、浮かれてべらべらと喋るなよ――なぁ、渾沌コントン


 真名を呼べば、大狗の体が強張った。

 赤黒い目が動揺したように忙しなく動く。その頭を無造作に掴み、蓮安は凄絶せいぜつに笑った。


「イチルと姫子が真名を教えてくれたのさ。お前はすっかり忘れているようだがね」

「お、あ……」

「おやおや、呆れたな。可愛い我が子の話も聞けないくらいに、私の後ろが気になるとは。まぁ気持ちは分からないでもないがね」


 澄んだ水の気配が、蓮安の頬を撫でた。足音が止まり、背後でシロの朗々とした声が響く。


夜葬やそう水月すいげつ


 鈴を鳴らすような音とともに、シロが得物を握った気配がした。


 真名で縛っているにも関わらず、渾沌が暴れながら咆哮ほうこうを上げた。わずかに残っていた鳥籠の壁が崩れ、茨が立ち上がる。


 往生際が悪いと怒鳴りながら、蓮安はつま先を動かして、肩からこぼれた血を床に塗りつける。


『春嵐にて匣庭を開け、桜花紋おうかのもん!』


 シロが鴻鈞を引きつけていた間に描いた紋が、最後の一画を迎えて完成する。


 鳥籠の床いっぱいに描かれた方円が、薄紅うすべに色に輝いた。匣庭という強い願いを否定する散華さんかの光が、生の願いを塗り込めた茨を次々と喰らって吹き荒れる。


 世界は、絢爛けんらんの春を迎えた。生と死の狭間で桜が舞う。刹那の季節を謳歌おうかするように、いっそう強く輝く。



 そして人を滅ぼす美しき槍が、蓮安の体ごと渾沌を貫いた。



 妖魔が目を見開く。その頬を撫で、蓮安は微笑んだ。


「さよならだ、師父シーフー







 ささやかな別れの言葉は、桜花おうかの光にまぎれて風に散る。

 それから、彼女は。

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