暁天飛翔(上)
それを取り戻すためならば、なにをすることも
*****
『
真武はすかさず間合いを詰めた。
「愚かなことだ」じりじりと後退する黄龍に向かって、真武は声をかけた。「水の奪いあいで、叔父上が俺に勝てるはずがない。人の幸せを願う龍と、人を罰する龍。どちらが攻め手に適しているかなど、考えるまでもなく明らかでしょう」
「はは。体格的には僕のほうが有利のはずなんだけれどね」
「心根の違いですよ。叔父上は他者に甘すぎる」
「さぁ、どうかな。真武、君は僕のことを買いかぶりすぎているのかもしれないよ。これでも演技は得意なほうだからね」
「面白くもない冗談です」
真武が振り下ろした半月刀の刃を、黄龍は槍の柄で滑らせるようにして退けた。勢いを殺さず回される槍を横目に見ながら、真武は手のひらを宙にかざして呟く。
『
磨き抜かれた氷の盾が槍を受け止める。黄龍はなおも槍を押し込もうとしたが、不意に痛みをこらえるように顔を歪めた。動きが止まる。その一瞬をついて、真武は水槍の柄を無造作に掴む。
『
短く命じて後退する。槍が凍りつき、一拍置いて内側から
あちこちから血を流しながら、黄龍が地面に倒れ込む。喉元へ半月刀を突きつけた真武は、刃を濡らす水滴が黒ずんでいるのに気づいて眉をひそめた。
「
「すまないね」黄龍は
剣から落ちた雫が純白の
切っ先を
「他人事のように言わないで下さい、叔父上。人間の穢れた願いが、あなたを
「それは出来ない相談だ。
「殺すつもりなのに、なにが助けるですか。叔父上、何度も言うようですが、俺達はあの女を生かそうとしているのですよ。あなたがここで待ってさえいれば、すべては滞りなく幸いのうちに終わるのです」
「でもそこには、あの人の幸せはないだろう? ならば僕が止まる理由にはならない」
黄龍が笑った。その手のひらが地面に触れ、頬の黒ずんだ
『
真武は目を見開いた。
風もないのに周囲の草木がざわりと音を立てて揺れ、次いで純白の灰となって枯れ落ちる。草木から引き抜かれたらしい水が一斉に雫となって宙に浮かぶ。水はやはり黒ずんでいた。穢れたそれはしかし、黄龍の支配下にあることの証でもある。
命を殺して水を得たのだ。あの優しさの塊でしかない黄龍がそれをやった。信じられない思いが先だったせいで、真武の判断は少しだけ遅れた。
黄龍の合図とともに、雨滴が放たれた矢のように一斉に降り注ぐ。
我に返った真武は、眼前に手をかざして氷の盾を喚ぶ。雨滴が氷を削った。がつんという鈍い音ともに水槍が振り下ろされたのはその直後だ。
雨で
草木が命を散らして産まれた灰と、春知らぬ凍える雪華。二つが混じりあって吹き荒れる。
激しく刃を交わすといえば聞こえは良いが、真武が優位なのは変わらない。黄龍の動きは鈍く、ほとんどが守ってばかりだ。たまに攻め手に転じたとしても続かない。頬を覆う龍鱗は穢れで黒ずみ、扱う水は少しずつ雪華に変わって数を減らし、ここまでで負ったのであろう傷からはとめどなく血がこぼれている。
それなのに、黄龍は動きを止めないのだった。若草を映した
「……っ、いい加減にしてください」真武は半月刀を振るう手を止めぬまま、耐えきれなくなって叫んだ。「叔父上、あなたでは俺に勝てない! どうせ結末は変わらぬのです!」
「どうかな、真武! そんなの、やってみないと分からないだろう!?」
「やらずとも、明らかではないですか!」
槍で払われた勢いを利用して、真武は黄龍の脇腹を蹴りつけた。態勢がくずれた男に向かって刃を下ろす。警告の一撃だ。眼前で止めれば傷にもならない。少なくとも真武はそのつもりだった。なのに黄龍は、左手の甲で刃を受け止めた。
鮮血が散る。肉を断つ嫌な感覚がある。元より血を流していた場所だ。黄龍は痛みに耐えるかのように体を震わせた。それでもやっぱり、後ろには引かなかった。
真武は刃を引くことも出来ぬまま、唇を震わせる。
「……どうして、ですか」
どうして、そこまで己を犠牲にしようとするのだ。
どうして、たかが人間の願いを叶えようとする。
そこにあなたの幸せはない。心優しいあなたはきっと後悔をするに違いない。そうやってまた一人で傷つくなんて、あんまりだ。
「もう、いいではないですか。お願いです、叔父上。これ以上はやめてください。あの女を生かして、あなたが幸せになる選択肢は存在するのです。そう願うことを恐れるというのならば、俺が願ってさしあげます。あのときのように。だから」
「それじゃあ、駄目なんだよ」
黄龍が絞り出すような声で答えて、刃を掴んだ。翡翠色の瞳と目があう。
そこに灯る光は記憶と違わず優しく、けれど見たことのないほど強い光を宿していて、だからこそ真武は目を奪われる。
黄龍は言った。
「真武、君が僕の
「……身勝手な願いじゃないですか」
「願いとは身勝手なものだよ。あの人だけじゃない。君の願いも、僕の願いもね」黄龍は目元を緩める。「真武。本当はね、誰の願いも間違ってはいないんだ。でも、全ての願いが両立することも決してない。だから僕たちは自分の手で選択しなきゃいけない。叶ったからこそ産まれた喜びも、叶わなかったからこそ感じた後悔も全部背負って。それが願いとともに生きるということなんだ」
黄龍がそっと刃を押した。真武と彼の間に半歩にも満たない距離が出来る。
その先で、黄龍は微笑んだ。それは夜光花の灯る中庭で向けてくれた笑顔と、全く同じだった。
「だから、君の手はいらない。ありがとう。そして、すまない、真武。でももう、僕の願いと君の願いは分かたれたんだ」
真白の灰と、穢れた水と、鮮血と。すべてを背負って、黄龍は
『
*****
ハイネは、胸元でぱきんと
真夏の陽射しが降り注ぐ
「あぁもうキリがないのだねェ! 一ツ目クン、もっとこう、ばばっと! ざくっと! そう、そうだ!」
黄龍から受け取った胸飾りは、割れた音がしたわりに傷一つない。だが、その表面には
もっとよく見ようと、ハイネが顔を近づけた時だった。ばしゃんと音を立てて花の飾りが水に戻る。それは地面に落ちるのを待たず身の丈ほどもある水泡となって、ハイネを包んだ。
「っ……!?」
彼女は息を呑んだ。文字通りだ。中は水で満たされていて息などできようはずもない。水泡の向こうで社が驚いたような顔をして叫んでいるが、それもくぐもっている。
ハイネはなんとか逃れようと泡を内側から押して爪を立てるが、柔らかな膜はびくともしない。そのうち息が続かなくなって、彼女の口からあぶくがこぼれた。
一体何故と、彼女は息苦しさの狭間で思う。これを君に、と言った時の黄龍の穏やかな顔を思い出した。けれど、その先を考える前に限界が来る。
息ができない。耳鳴りがして視界が暗くなる。その狭間で、冬の龍の背中を見た。人を罰する龍。長く続く冬のように、他者にも己にも厳しい人。それでも人々を寒さから遠ざける炉端のように、そっと寄り添う優しさを持っている彼。
「っ、真武……!」
最後の息をこぼして、ハイネは大切な龍の名前を呼ぶ。
水が凍りつき、涼やかな音を響かせて割れた。急に入り込んできた空気に、ハイネは咳き込む。体がぐらりとかしいだが、たくましい腕に抱きとめられた。
顔を上げたハイネは、真武と目があってほっと微笑んだ。
「ありがとう。来てくださったのね」
「……叔父上の術だ」
「真武?」
真武はぐっと唇を引き結んだ。相変わらず冷たい声のまま、なのにどこか寄る辺ない子供のように泣きそうな顔でぽつぽつと言う。
「俺を引き離すためだけに、叔父上がお前を狙った。お前が俺の名を呼べば、俺は行かざるをえないから」
「……黄龍は私を
「っ、叔父上はそんな卑怯な真似をする方ではない」
反論は予想通りだったが、ひどく弱々しい。ハイネはそっと龍を抱きしめた。
「分かっているわ、真武。あの方は優しいもの」
「だが、お前の命を危険にさらした」
「
「怒っていないのか」
「ふふ。そうねえ、文句の一つでも言おうかしらね。次に会った時に」
「……次に」ぽつぽつと続いていた真武の言葉が少しの間だけ途切れた。「次なんて、あるのか。叔父上は俺達のことを嫌いになったんじゃないのか。だから、こんな」
真武の言葉はしりすぼみに消え、きゅっとハイネの背中に回れた手に力がこもる。
あぁまったくこの龍は、人よりもよほど長く生きているのに、ちっとも別れに慣れていないのだ。ハイネはほんの少しだけ呆れて、けれどその優しさがやっぱり愛おしいと思って、彼の背中をそっと叩く。
「大丈夫よ。あの人が笑ってしまうくらいお人好しなのは、あなたもよく知るところでしょう?」
それが証拠に、真武の体には怪我一つないのだから。
真武はおずおずと頷いて、ハイネの体をぎゅっと抱きしめた。まるで大きな子供ね、とハイネが苦笑したところで、「ぬあっ、ちょっと待つのだがねェ!」という騒がしい叫び声が一つ。
二人のすぐ近くに、切り落とされた妖魔の頭が吹っ飛んできた。ハイネはすんでのところで真武の体に囲われるが、びしゃりと降りかかる赤黒い血までは避けきれない。
頭から血をかぶった真武が、極寒の声で呻いた。
「……お前……どういうつもりだ……」
「い、いやいやいや!?」社と一ツ目がそろって、ぶんぶんと首を横に振った。「
ハイネはさすがに気の毒になって、真武の袖を引いた。
「ねえ、あまり乱暴はしないでください。社さんは私を助けてくださったのよ」
「あんなやつに守られずとも、俺がいるから十分だろう」
「そういう意味ではないのだけれど」
「そこの男と一緒に下がっていろ。目ざりな妖魔を殺す」
「真武」
名前を呼べば、冬の龍は立ち止まって振り返った。その顔はすっかりいつもの仏頂面を取り戻していて、ハイネはほっとしながら微笑む。
「どうか、怪我はなさらないでね」
「心配されるまでもない」真武はそっけなく返して、妖魔のほうを向く。「
鈴を鳴らすような音がして、周囲の空気が一気に凍る。家々を銀の霜が覆い尽くす。そうして雪華舞う中、冬を従えた真武は半月刀を抜き放った。
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