第二話 どうか私とのすべてを忘れないで
「わたくしの名前は
酒瓶と食器が散らばる
開け放した雨戸の外の景色は少しずつ暮れなずみ、隣家から焼いた魚の香ばしい匂いが漂う。なんとも穏やかな時間だが、シロは気が気でなかった。
事情をよく飲み込めていない
「迎えにあがったと言われてもねぇ。君、ずいぶんとお子様じゃないか」
「人を見た目で判断するのはいかがなものかしら、女。ねぇところで、このお茶。ずいぶんと苦いのですけれど? もう少し蒸らし時間を短くすべきではなくて?」
「ははん、やっぱりお子様だな」蓮安はイチルへ向かって空の茶杯を振った。「二日酔いにはこれくらい苦いほうがいいのさ。いわゆる大人の味というやつだぜ」
「っ、黄龍!」
イチルの鋭い声にシロは慌てて蓮安の隣に正座した。
「シロくん、ますますわんこだなぁ」
「蓮安先生はちょっと黙っててください。イチル、なんですか。お茶のおかわりとか?」
「お茶は結構です」
イチルはじろじろとシロたちを見比べた。
「その女は一体なんなのですの」
「そりゃあ君、見たとおりさ。
蓮安の手が乱暴にシロの肩を引き寄せ、イチルがさっと顔を赤くする。シロはため息をつき、はた迷惑な手をぞんざいに引き剥がした。
「ホラ吹いて得意げな顔するのはやめてください、蓮安先生。みっともないですよ」
「む。みっともないとは失礼な。勝てる戦をとりに行ってるだけだぞ、私は」
「ガキ大将かよ」
「ふふん、純粋で可愛らしいだろう?」
「……
イチルが呟き、蓮安が笑う。シロは咳払いした。
「蓮安先生とはそういう関係ではないよ、イチル。この人は術師で、
「おいおいシロくん、
「それよりイチル。さっきは
蓮安の口を塞ぎながらシロが頭を下げれば、イチルが両腕を組んだ。
「構いませんわ。もとよりアレは、わたくしにつきまとっておりますの。責任の一端がないわけではありません」
「え。妖魔につきまとわれてるって……怪我とかは?」
「あるわけがないでしょう。みっともなく右往左往していたのは、あなた達のほうじゃない」
「心外だな。こっちは冷静に観察していただけさ」
シロの手を引き剥がした蓮安が、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「それより君。妖魔に付きまとわれていると言ったな。それはいつから? どこで?」
「答える義理はありません」
「義理なんざいらない。私は事実を求めているだけなんだから」
「二日酔いのくせに、よく言う。というか、黄龍」
「は、はい」
イチルの怒りの矛先が自分に向き、シロは反射的に姿勢を正した。赤髪の少女は組んだ腕の上で人差し指をしきりに動かし、「いいですか」と言う。
「あなたもあなたよ。先ほどから見ていれば、こんないい加減な女にいいように使われるばっかりで呆れてしまうわ。龍としての
「お、シロくん。随分と言われているじゃないか」
「蓮安先生もでしょうが」
「両方ともよ」
少女の叱責に、シロたちは口をつぐんだ。イチルはため息をつき、義足を動かして立ち上がる。
「帰ります」
「ええと……でも」シロは危なげなく進むイチルを追いかけながら外を見やった。「せっかくなんだ。もう少しで部屋も片付くし、夕飯だけでも食べていかないかい? なんなら泊まっていってくれても構わないし」
「提案の意図が分かりませんわ」
「意図なんて」
「黄龍。あなたが本当に帰るべき場所はここではないのよ」
「分かっているよ」
「どうかしらね」
縁側を抜け、出口までたどり着いた。振り返ったイチルは冷ややかな顔つきでシロを見やる。
「いずれにせよ、ご心配はけっこう。わたくしには、きちんと帰るべき場所も食事をとる場所もありますもの。それでは黄龍、明日の十ノ刻に門前にてお待ちしておりますわ」
「あぁうん、また明日……明日?」
反射的に手を振ってからシロは首を傾けるが、その時にはもう、イチルの姿は通りの向こうへと消えてしまっていた。
「シロくんも
振り返った先で蓮安が楽しげに笑い、シロは顔をしかめた。
「ここまで来ておいて、言うことがそれですか」
「なに、君の人間関係を理解しておくのも重要だろう?」
「さようで」
日が沈んだばかりの暗い縁側を、はだしの蓮安が踊るように歩いていく。それを追いかけながら、シロは「訂正させてもらいますが」と言った。
「イチルはただの友人ですよ。鵬雲院にいた頃はあれこれと僕の仕事を手伝ってくれて、頼もしい限りだったんですから」
「あぁ、なるほど。どうりで君の
「……匣庭の景色は幻だと、あなたが言ったんでしょう。蓮安先生」
渋面を作ってシロが答えれば、蓮安が空気を揺らして笑った。
「よく理解してくれて嬉しい限りだよ、シロくん。では一つ忠告しておいてやろう。あの子から目を離さないようにしたまえ」
「どういう意味ですか」
「匣庭あるところに妖魔ありだ」蓮安は夜色の唐服をひるがえして振り返った。「考えてもみたまえ。妖魔は匣庭にしか現れない。なぜか。それは匣庭の中が妖魔にとって住みよい環境だからだ。よって妖魔のなかには、わざと人間を匣庭へ
「は……? ちょっと待って下さい。匣庭に堕とす?」
「そうだとも。なに、簡単な話さ」
とんっと、蓮安に胸元を突かれ、シロは思わず後ずさった。
背中が雨戸について、がたりと鳴る。蓮安は足を絡めるようにしながら柔らかな太ももを押しつけた。慌てて身を引こうとすれば、女の指先がシロの
蓮安は唐服の
「こんなふうに」蓮安がささやき、細い指先でシロの頬に触れた。「やわらかく包んで、優しくさえずって、まぐわってしまえばいい」
「いやちょっと、」
「シロくん、待てだよ。待て」
「っ、」
動きかけたシロの手を無造作に掴んだ蓮安は、低い声で優しく諌めて唇を寄せた。胸元にちりとした痛みが走って、シロはたまらず呻く。
「蓮安、先生」
「あぁどうか私とのすべてを忘れないで」
低く、
不意にシロは、己を戒める細い手をふりほどいて乱暴に掴みたくなった。その間際でけれど、
「とまぁ、こんなふうに誘惑すれば、呆気なく匣庭の主になるというわけさ。妖魔というのは人間を
「っ、なんなんですか……!」
「くくっ、実践してみたほうが早かろうと思っただけさ」ひらりと身を離した蓮安は、赤面するシロをおかしそうに眺めながら言う。「なに、心配はいらない。明日は私も行って、君を助けてやろう」
*****
翌朝、約束の時間ぴったりに蓮安邸の門前へ現れたイチルは、シロを見るなり眉をひそめた。
「黄龍。どうして、その女がここにいますの」
「どうして? そりゃあ君、話は至極簡単だよ。シロくんが頼りないからだ。そして私が、この世界で誰よりも
「あなたの話は聞いていませんのよ、女」
イチルの物言いたげな視線に肩をすくめ、シロは歩き始めた。
「行こう、イチル。こうなった蓮安先生は止められないんだ」
「黄龍、わたくしはあなたとお話するために日を改めたのよ。あなたがどこでどんな
「そんな関係じゃ……」ない、と即答しかけて昨日のことを思い出し、シロは顔を手で覆った。「……ない。誓ってない。本当に」
冷たい視線が突き刺さり、シロは肩を落とした。恥ずかしいとかそれ以前に、なんだかもう情けない。蓮安のあれは
というか、と無意識に
遊びでいきなり迫る人間がどこにいるのか。普通、こういうのはもっと時間をかけて関係を深めてからすべき行為だし、そもそも自分がされる側なのはどうかというか、どうせするなら自分のほうからすべきというか、そこは
いや違う。そもそも彼女とそういう関係にはなってない。断じてなってないのだ。
悶々とする間に、シロたちは小さな
「君はどうして妖魔に追いかけられることになったのかな、イチルちゃんや」
「馴れ馴れしく呼ばないでいただける?」イチルは両手を膝に置き、目を細めた。「それに、その話はどうでもいいと昨日申し上げたはずでしょう」
「そういうわけにはいかないさ。なぁ、シロくん」
なんで、こうも引っ掻き回しておいてから話をふるんだ、とシロは蓮安を
「妖魔につきまとわれている人間は匣庭の主になると、蓮安先生が言っている。僕はそれを心配してるんだ」シロは首を傾け、イチルを見やった。「君は知らないと思うけど、匣庭の主にはね」
「叶えたい望みがある、でしょう? それが原因で都合の良い世界を作り出し、そこに閉じこもってしまう」
シロが目を丸くすれば、イチルは小さく鼻を鳴らした。
「よく存じておりますわ。だって黄龍、あなたは匣庭に囚われた。だから鵬雲院へもどれなくなった。これを取り戻すために、わたくしは深灰へ来たのですから」
「それならもう解決しているがね」
運ばれてきた饅頭を頬張りながらの蓮安の言葉に、イチルが眉を跳ね上げた。
「……どういうことです、女」
「どうもこうもない。シロくんのしょうもない匣庭は私が壊してしまったからだ」
黙り込んだイチルに、シロは首をすくめて頷いた。
「事実だよ。まぁ、言い方はあれだけど」
「お待ち下さい、黄龍。ならば、今すぐにでも帰れるのではなくて?」
「それもその、無理なんだ。蓮安先生が僕をここに引き止めているから……あぁうん、イチル。
「……信じがたいですわ」
「……そうだね、僕もそう思う」
「なにを辛気臭い顔をしているんだ、君たちは」
二つ目の饅頭に手を出しながら、蓮安はシロたちを鼻先で笑った。
「状況はこれ以上ないほど簡単だぞ。私はね、全ての匣庭を消してしまいたいのさ。シロくんにはこれを手伝ってもらいたいだけ」
「それは……」イチルがゆっくりと言った。「匣庭がなくなれば黄龍は戻れるということですの」
「まぁ、そうだな」
蓮安がこともなげにうなずけば、イチルはしばし考え込んだあと、頷いた。
「分かりました。ならば、わたくしもお手伝いいたしますわ」
シロはぎょっとしてイチルを見やった。驚いたのは蓮安も同じらしく、珍しく饅頭をくわえたまま赤髪の少女を見やっている。
しかしてイチルは、至極真面目な面持ちで
「まず着手すべきは匣庭を探すことね。現実と境界なく混じっているというならば区別するのが難しそうだけれど」
「ええと、イチル……?」
「なにか
「いや、あの、イチルさん」
「なんですの、黄龍」
氷点下のイチルの眼差しに
「本気で言ってるのか……? 匣庭を減らすのを手伝うって……?」
「もちろんですわ。すべての匣庭をなくせば、あなたは鵬雲院へ帰れるのでしょう。わたくしの目的とも合致しますもの」
「そう簡単な話じゃないぞ、イチルちゃんや」蓮安が呻くように言った。「おそらくは書物で匣庭のことをかじったんだろうがね、主というのは元々人間であった以上、妖魔よりも厄介なところがある。君みたいな小娘になんとかできるわけがない」
「まぁ、わたくしはそこの情けない龍とは違いますのよ」
「その点は同意するがな」
「同意しないでくださいよ……」
ささやかな反論の声を上げたシロは、女性陣から揃って呆れたような目を向けられる羽目になった。
シロは首をすくめて冷えた
二人連れの客と目があった。わざとらしい口笛を吹く
見覚えのある顔に、シロは思わず咳き込んだ。
「わ、龍のお兄さん。大丈夫かい?」
「大丈夫かい、じゃないですよ……! 二人とも何してるんですか!」
藤色の髪の少女、もとい少年こと十無に声をかけられ、シロはたまらず声を上げた。十無はきょとんとした様子で首をかしげ、社を見やる。
「なにって、のけものにされて寂しいから、ちょっとしたお茶と見せかけて話に混じろうとしてたんだよ。そうだよね、黒色眼鏡のおじさん」
「十無クン!? そこまで
「社さんは混じらなくていいです。うるさいですし」
「若造クンが相変わらず吾輩に
ずかずかと歩み寄ってきた社は、シロ以上に冷ややかな視線をおくる蓮安たちへびっと指をつきたてる。
「お試し登用なのだよ、諸君。これが唯一にして最高の解決策なのだがねェ!」
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