銀縁眼鏡の男

南部忠相

銀縁眼鏡の男

「へぇ、あんな所に家が?」


 年のころ17、18程の美しい女が聞く。その問いかけに鋭い目をした身なりの良い30手前くらいの男が答える。


「えぇ、町を一望できるんです。暇が有ったらいらっしゃい。自慢の景色なんですよ」


 女は数日前にこの田舎町に越してきたばかりの役人の一人娘。元の町に残りたかったが両親がそれを許さず、付き合っていた男と別れることになり自棄気味に遊び相手を探していた。


 だが、こんな田舎町に女の眼鏡に敵う相手はおらず、夕暮れ時の喫茶店で暇を持て余していた。そんなところに品の良い優男が現れたものだからそれを捕まえて世間話をしていた。


 男が言うには小高い丘の上、そこにポツンと家があるらしい。一軒しか家が無いため静かで、この時期は花火が良く見えるそうだ。女はその男を気に入り、遊びに行く約束をとりつけることにした。


「日中はだめですよ、私も仕事がありますからね。そう、夕方くらいなら。夕飯を一緒にしましょう」


 銀縁眼鏡を人差し指で上げながら男が言った。これには女も多少身構えた。女から誘ったとはいえ、見ず知らずの男の家へいきなり上がる気にはならない。自棄気味であったはずの女だったが、誘いを断ってしまった。だが、どうにもあの男の事が気になる。


 家に帰った後もそのことが頭から離れず、家の中をあっちへこっちへフラフラとした。ふと、自分がこんなに薄情であったかと小さく笑い、付き合っていた男を思い浮かべる。だが、モヤがかかったようにその顔が思い出せない。


 思い出が消えて行くような、そんな思いのせいで気が急いて居ても立っても居られない。女はついに具合が悪いふりをして部屋へこもり、親へ声を掛けてくれるなと念押しをしてから外へ出た。飛び切りお洒落をしたが玄関に行く訳にはいかず靴は履けなかった。

 裸足のまま通りを駆けてあの小高い丘を目指した。うすぼんやり光るあの小高い丘、あそこへ行けば男に会える。名前も知らない男の姿がその目に焼き付いて離れない。一歩、また一歩と近付くたびに胸がすくようにすべてがどうでも良くなっていく。今はもう、前の男の名前すら思い出せない。足の皮が擦り剝け血を流しても女は立ち止まらず、丘のふもとまでたどり着いた。


 女は坂を上る間にうわぎを脱いでいく。めかしこんでこれから男に会うと決めていたのにその精一杯選んだ服を。

 まるで熱に浮かされたように最後の一枚を脱ぎ捨てて女は家の戸を叩いた。坂を上り息も切れ、汗だくの女は声も出せないほど喉が渇いていた。だが、構わず一心不乱に戸を叩く。

 その時、がらりと開いた引き戸の間からあの銀縁眼鏡が覗く。


あぁ、こんばんは。ゆうはんに、しようねぇ・・・ さぁ、こちらへ、いらっしゃい


 女は恍惚とした表情で男に導かれるまま家へ上がっていった。

 この丘は地元では有名で、衣が川のように打ち捨てられていることから“衣川”と呼ばれている。

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