1章――【最難関の合流時点】

第2話 スタート地点

「ふう……。そろそろスタートってところかな」


 茶色の髪の毛を隠すように、ヘルメットを被った少年がそう呟いた。サバイバルレースという、妨害行為が当たり前に許されているこのレースに臨むにあたって、彼の装備は軽装を越えた紙装甲と言えるものだろう。

 ヘルメットのことを言っているのではなく、いや、もちろんヘルメットについても言っているのだが、それはただ一つの要素でしかない。ヘルメットなど重要視されない程の要素が、他にもあったのだ。


 周りを見渡せば、バイクや重装備の車、機械馬が引っ張る荷台など――、それぞれの感想は多々あれど、しかしどれもこれも、出場者達のマシンは、装甲としては最低限のラインをきっちりと保っている。


 高速で動くレース中に、選手が互いに接触し、弾き飛ばされて、この海上道路の端に設置されてある鉄の柵に激突したところで、怪我はなく、ダメージは装甲のみ……、中にいる人間には一つも傷がつかないような防御のラインは、きっちりと保っているのだ。


 しかし――少年は違う。


『東部風船都市』、レース地点の一つである『A地点』――準備選手の中でも一番浮いていて、異端だったのは、この少年である。彼はヘルメットを被り、ぴたりと体に張り付いている服を身に着け、そして【ローラースケート】を履いていたのだ。


 ローラーの動きを、滑らかさを確かめているのか、彼はローラースケートのローラーを地面に擦りつけていた。

 からから、と空回りする音が、緊張している空気の中で、遠慮なく響き渡っている。


 それが何回も続き――、その場で走行しているような、動くことのない走りを見せる少年に声がかかる。声の主は、丁度、隣に位置を取っていた、真っ赤でスリムな平べったいスポーツカーの運転手――、選手である。

 窓が徐々に開いていき、顔を出した三十代後半くらいのベテランと言えるような男が、


「おいおい、小僧。そんなおもちゃで出場して、怪我しても知らねえぞ?」


 スタート前の、この緊張している空間で、こうもからからと音を鳴らされていたらできる集中もできないではないか――、と怒るのではなく、文句を言うのでもなく、男は少年を馬鹿にすることにしたらしい。


 ばっはははっ! と豪快に笑いながら、少年の全身を観察する。線は細く、力馬鹿というわけではないように見え、とは言え、特別、頭が切れるというわけでもなさそうだ。

 そういう印象であって、実のところは分からないが――、この『マシン』と言っていいものか分からない、ローラースケートで出場するというのは、本気で優勝を目指しているのではなく、この少年は遊びで、思い出作りで、目立つために参加をしているのか……。

 男は勝手にそう解釈して、納得していた。


 そんな煽りの言葉に、しかし少年は、売られた喧嘩を買うようなことはしない。

 闘争心なく、言い返すというよりは、ただ単純に返事をした。


「いやいや、安心しなよ、おっさん。

 おいらは怪我なんてしねえよ――これはおいらの相棒だからな。いつでもどこでも、どんな状況でもどんな状態でも、おいらのことを守ってくれるんだからよ」


 少年の、山の中にカブトムシを探しに行く小さな子供のような無邪気な表情を見て、男はふんっ、と鼻を鳴らした。

 激昂でもしてくれれば、スタート直後から精神状態を乱すこともできたのだろうが、どうやらその企みは、失敗に終わったらしい。


 少年の戦意は消えていない、空回りもしていない。


 闘争心があるのか、どうか――。男の中で違和感が玉となって、体の中をごろごろと転がるが、取り出す術は思いつかなかった。

 心の中を乱そうとしたら、逆に乱されてしまった。カウンター攻撃を表情と言葉によって決められてしまったようだが、これについて考え、さらに心中を乱そうしているのかと、少年の思惑に寸前で気づき、無意識の内におこなっていた思考を中止させる。


 考えれば考えるだけ、穴にはまる。


 ここはなにもせずに、レースのスタートを待つ方がいいだろう。


 だが、やられっぱなしもそれはそれでしゃくなので――しかし、現段階での言い合いと牽制で、この少年に勝てるとは思っていない。だから自己満足を得るために、勝利宣言のようなものをしておいた。


 腕を窓から出して、人差し指を突き出し、びしぃ! と少年に向ける。


「そんなおもちゃじゃ勝てねえことを、開始数秒も経たない内に、教えてやるよ。これはレースであって、格闘技でもある。スピード重視、テクニックとトリッキーさを重要視させているその前例のないマシンじゃあ、接触対決には満足に参加できないだろうぜ。

 だ、か、ら――だ! この俺が直々に、体に叩き込んでやるっつってんだよッッ!」


 嵐のような言葉に、少年は一歩退きながら、


「あー、はいはい。分かった分かった。相手はしてやるけど、土俵の下でわちゃわちゃされても困るからさー、せめて土俵には上がってくれよなー」


 完全に挑発と取れるセリフだったが、少年本人にそんな自覚はなく、ただ単純に、声をかけられたから言葉を返した程度の認識でしかない。


 少年の視界に、男は入っていないようだった。


 レースとして、選手として――、眼中にはないという意思の表れだった。


 それが無自覚なのだから、男のプライドが傷つけられたのは、確実だ。


 だが、ここで心を乱せば、さっきの状態に逆戻りなので、男は深呼吸をして心を落ち着かせ、これ以上この少年にちょっかいをかけるのはやめておいた。

 これ以上の干渉は、自分の首を絞めることになる。絞め殺すことになる。


 自害と変わらないようなものだった。


「…………」


 男は無言でハンドルを握り、足に力をぐっと入れる。まだアクセルは踏まない――まだ、目の前に見えている信号の色は、赤のままだ。変わらず、ずっと赤のままだった。


 すると、ブザー音と共に、レース開始までのカウントダウンが始まった。

 さっきのヘリに乗っていたレポーターの声ではなく、まったく別の女性の声だったが、彼女の声によって、カウントが、テンから始まった。


 やがて、ナイン、エイト、セブン……と続く。荒い呼吸を繰り返しながら、男は汗を大量にかきながら……、レース寸前の状態としては最悪だった。

 だが、隣にいる少年を見て、若いものには負けられないというプライドが怯えを殺し、成長の階段を上り始める。


 一歩、一歩、しっかりと――芯をしっかりと持ちながら。


 そして、カウントはもう残り、スリーになっていた。


 三つ――あと、三つ。

 ツー、と聞こえて、男は視界を最大限まで引き延ばす。

 色々と見えるものはあるが、それがなにでどういうものなのか、正しく認識しているとは自己評価でもできているとは思えなかった。


 でも――構わない。


 真っ直ぐに、道を、進むだけ。


 それがレースだ。


 だから――、


 ワンとゼロのカウントを、男の耳は拾ってくれなかった。だから、ツーからいきなり、目の前の信号が、赤から青になったので、反射的にアクセルを踏んでしまい、スタートをしてしまった――もしかしたら、可能性としてフライングもあったかもしれないのだが、男はもうそんなことを考える余裕もなく、レースに飛び込んでしまっている。


 遂に始まる――サバイバルレース。


 まず始めの難関は、分岐前の合流地点――の突破である。


 一気に数十、数百と集まる選手とマシンの合流地点を、どう切り抜けるかが、これから先の運命を左右するだろう。優勝も、脱落も、生も、死も――全てはそこで決まる。

 ――かもしれない。


 そして少年は。


 レースが開始してもまだ、スタート地点に立ったままだった。

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