もの狂ひ

葛城 惶

        ※

  ー春じゃなぁ...ー


 ゆるやかに流れる大川の水がうねる度に春の陽光がはぜて砕け散る。傍らの堤に植えられた桜の下では老若男女が春の気に酔ったかのように笑いさざめいている。 

 その様を男は見るともなくぼんやりと眺めていた。 


「旦那、着きましたぜ」


 花筏を掻き分けるように櫓を操って、船頭が此方を振り向いた。この若さで巧みに猪牙船(ちょきぶね)を操るのだから、大層な腕っこきであろう。きりりと結びあげた褌と色鮮やかな藍半纏が羽振りの良さを物語っている。日に焼けた赤銅色の逞しい肌えも江戸っ子らしい粋な二枚目振りをいや増している。

 新造や町娘にもさぞやもてるだろう、と男は密かに値踏みした。


 ふうっと息をつき、傍らに置いた二本差しと、竹皮に包んだ菓子を手に船縁に足を掛けた。


「二百文だったな」


「へい」


 男は懐の銭入れを探り、くるくると紐を解くと、小さな銀色の銭を船頭の硬く節くれだった掌に乗せた。


「旦那、ちいと多くありやせんか?」


 怪訝そうな顔をする船頭に男は薄く笑って肩を叩いた。


「なに、祝い事のついでだ。酒代の足しにでもしてくれ」


「そりゃどうも、ありがてぇこって」


 頭を下げる船頭を背に、男は二本差しを腰に差し直し、ひらひらと手を振って花びらで薄紅にそまった道をゆっくりと南へ歩き始めた。

 

 竹屋の渡しからほんの少し南へ下った辺り、一軒の家の前に男は立ち止まった。申し訳程度の、手入れなどまったくされていない生垣から中を覗く。

 乱雑に生えた草花が生い茂る形ばかりの庭に面して家.....というより小屋というに近いような粗末な建屋の縁側に、四月というのに炬燵を背負った老人が陣取り、しきりに筆を動かしている。

 その傍らには草臥れた綻びだらけの着物に適当に結った髪を好き放題に乱れさせた年増の女が箱火鉢にもたれて、老人の筆先をじっと見つめていた。

 男の口許から我れ知らず大きな溜め息が漏れていた。それを聞きつけてか、老人がついと顔を上げ、落ち窪んだ眼でこちらをギロリと睨む。


「誰じゃ。わしゃ客など受けんぞ」


 男は今一度、大きく息をつき、壊れて傾いた木戸に手を掛けた。


「私ですよ。多吉朗です」


 男の言葉に老人と女は一瞬、不思議そうに顔を見合わせた。 

 きちんと羽織を着て、御用勤めの役人らしい礼儀正しい様で草葉を分けて入ってきたのは、老人が旗本に養子に出した次男、支配勘定方の加瀬崎十郎だった。

 引っ越し好きの老人はその都度知らせるのも億劫なうえ、世間付き合いも面倒と、養子に出してこのかた養家に任せきりにしていた。

 無論、男も養い親に孝養を尽くしてはいたが、この酔狂極まりない暮らしの実父にはろくに顔を見せることもなかった。

 会わずとも噂だけは事欠かないこの老人は、ある意味、男にとっては自分とはかけ離れた世に住む他人に近かった。


「兄(あに)さんかい.......えらい久しぶりじゃのう」  


 女が立ち上がり、背後の竹皮やら箱の類いを押し退けて、奥にひょいと手を伸ばし、綿がちらほらと顔を覗かせる墨だらけの座布団を引っ張り出してきた。


「よいよい、かえって着物が汚れる」


「勘定方の倅どのがなんの用だ。わしゃ忙しいんじゃ」


 つっけんどんに言う老人に苦笑いしながら、男は竹皮に包んだ菓子をかざした。


「妻が、たまには向島の父上にも顔を見せてこいと言っておりましたのでね。......此れは土産です。父上は甘いものがお好きと聞きましたので......伊勢屋の豆大福です」


「そうかえ、済まんな。...お栄、茶や。茶を淹れてやれ」


「はいよ」


 老人は包みを受け取ると紐も解かずに中から大福を掴み出し、口に咥えた。が片手は相変わらず筆を握ったままだ。


「済まんねぇ、兄(あに)さん。お父(とう)は今朝から機嫌が悪くてなぁ」


 奥へ声を掛けるでもなく、女が筆で傍らの紙に『茶』と書いて、奥へ投げると、何処からか小僧らしき子どもが、盆の上に蓋の欠けた急須と縁の欠けた湯飲みを乗せて、現れた。


「どうぞ......」


 小僧はぺこりと頭を下げるとまた再び奥へ戻っていった。


「お栄、お前なあ.....」


「|私(わっち)の手は墨だらけで汚れてるから、茶が不味くなるから淹れるな、とお父(とう)が言うでなぁ」


 呆れたように言う男に女は悪びれもせず、にかっと笑った。

 男はまたまた大きく溜め息をついた。


「お前なあ......絵師の仕事を貰うようになって、少しも父上の手助けをしているらしいことは聞いているが、お前も一応は女(おなご)だろう。その......もう少しなんとかならんのか、この家は。飯炊きもせん、掃除もせんのは、母が甘やかしたせいだろうが、その|埖(ごみ)の山くらいなんとかせい」


 男が、傍らの竹皮やらの山を顎でしゃくると、女は再びにかっと笑った。


「お父(とう)の手伝いをしとると、なんや忙しくてな。気にしてる暇も無いんよ」


「片付けなんぞせんでもええ。それよりお栄、西海屋さんの頼まれもんはどうした?」


 老人は眉をひそめて、顔も上げずに女に言った。


「ああそうじゃった。して兄(あに)さん、なんぞ用があったんじゃろ?お城勤めが向島くんだりまで来るんは気晴らしなんぞじゃあるまい?」


 女は老人の手元の墨皿を替えながら、ちらりと男の顔を覗いて言った。


「その......頼みがございまして」


 男は恥ずかし気に頭を掻きながら言った。


「娘に......孫が出来まして。祝いに贈る絵を一幅お願い出来ればと......」


「ほぅ加瀬崎十郎どのの初孫かえ。話によっては描かんでもないが......」


 老人はちらりと男の顔を見上げた。


「わかってますよ。天下に名高い為一先生にお願いするんですから。......まあ、しがない支配勘定の懐なので、将軍さまやら津軽のお殿様のようにはいきませんが」


 男はそう言うと懐から小判の包みを取り出し、老人の傍らに置いた。


「ほう、お城勤めの小役人にしては豪気じゃな。してお子はおのこか?おなごか?」


「|男(おのこ)にございます」


 老人はほんの少し顔を上げ、女の方を見た。


「おい、お栄」


「はいよ」


 女は軽く頷くと、ついと立ち上がり、真新しい紙と顔料の入った皿を老人の手元に置いた。


「どれ.......」


 老人は小さく呟くと両の眼を見開き、真っ白な紙に筆を走らせ始めた。





 何時ほど経ったろうか。男は老人の鬼気迫る様に気圧されて、言葉の一つも出せぬままに座っていた。

 ふと川向うから荘厳な鐘の音が漏れ聞こえてきた。川向うは浅草寺だ。この日和なら、さぞや人出も多かろう...と男はちらりと思った。


「ありゃあ、幾つだ?」


 ふいっと老人が筆を止め、彼方を仰いだ。


「八ツ時の鐘じゃね。出来たんか?」


「おうよ。十両ならばこんなもんじゃろ」


 女の声に、男が老人の手元を覗き込むと、黒々とした墨で如何にも力強い鍾馗が、足を踏ん張って仁王立ちしていた。

 その爛とした生きているような眼に睨みつけられ、男は思わず身を震わせた。老人は心なしか口許に小さな微笑みを浮かべると、鍾馗さまの引き結んだ口に朱の顔料をさっと引き、紙の空いている片隅に、無造作に『為一』と殴り書くと、男の胸元に突きつけた。


「ほれ、これでどうじゃ?」


「ありがとうございますっ」


 老人は、絵を受け取りひたすら低頭する男を片眼で見ながら、ぐぃ.....と傍らの土瓶の水を干すと女のほうに向いた。すると女は小さく頷き、男が老人に渡した金の包みを片袖にしまい込んで立ち上がった。


あにさん、ちいとわっちに付き合っとくれ」


 去り際に男に声を掛けると、女は奧に消え、何やらごそごそと動き、やがて先ほどよりは若干ましな着物に着替え、片手に包みを抱えて現れた。


「じゃあ、お父(とう)、ちいと西海屋さんに届け物をしてくるけぇ。飯は後でええな。なんぞあったら喜助がおるけぇ、言うたらええ」


 女はそれだけ言うと歯の欠けた下駄を突っ掛けて庭先に降り立った。


「|兄(あに)さん、待たせたの。じゃあ行こうかい」


 男は後も見ず、すたすたと歩き出す女に呆れつつ、老人に深く一礼してそのあとを追った。




「お前は本当に父上そっくりだな.....」


 女は堤沿いにぶらぶらと気怠げに足を運ぶ。

 男はその墨の汚れのついた横顔を眺めながら呟くように言った。すると女は不機嫌そうに顔を歪めた。


「そんなことはない」


 ふうっと女の口から小さな息が漏れた。


「|私(わっち)はお父(とう)には遠く及ばん。お父(とう)はなぁ......今朝も、猫の一匹もよう描けんと言って、心底嘆いとった。.....私(わっち)はあそこまでは狂いきれん。...まだまだ小童(こわっぱ)にもなれとらん」


「しかし、お前の美人画はなかなかの評判と言うではないか。時には父上に代わって描くこともあると聞いたぞ」


 小さく首を振って女は言った。


「それはなぁ.....私(わっち)の前とお父(とう)の前じゃあ、女(おなご)衆の見せる顔が違うからじゃ」


「見せる顔?」


「ほうじゃ。女(おなご)衆はなぁ、お父(とう)の前じゃあ、少しも良く描いてもらおうと取り繕うがな、私(わっち)が向き合うとなぁ、本性をまんま出すんじゃ。見栄と気位をさらけ出す。だから『お前が描いたほうが面白い』と言って、お父(とう)は私(わっち)に描かせるんじゃ」


「本性......か」


 男の眼から見ても、妹であるこの女は美人とは言い難い。四角い額に突き出た顎......まあ、平たく言ってしまえば父親に似た面相はあまり誉められたものではない。

 美醜にこだわる女達は当然、彼女を侮蔑的な眼差しで見るだろうし、見下して自らの美貌を見せつけるように意気高に振る舞うだろう。

 彼女は、妹は臆しもせず、平然とそれを画布に映し取り、相手の本性そのままに描き出すのだ。

 ゆえに、女の見栄と意気地が見事に活きた美人画が出来上がり、男の絵師とはまた違う味わいを持って、人々を惹き付ける。


「私(わっち)もお父(とう)ほどに狂えたら、ちいとはましな絵を描けるようになるんかなぁ.....」


 男は溜め息混じりに言う妹の顔をじっと見た。彼女の言う『本性』とやらをその内に見るなら、それは間違いなくあの老人と同じもの。あの老人と同じ『絵』というものに取りつかれた『物狂い』。絵師にしか成りようのない渇えた魂の唸りを男は感ぜずにはおれなかった。

 

「じゃあここで」


 女は渡しに近付くと、ふっと足を止めた。そして片袖をもぞもぞすると、何やら男の手に握らせた。


「おい、これは......」


 それは紛れもなく、男が先刻、老人に渡した金の包みだった。


「|私(わっち)とお父(とう)からの祝いじゃ。貰っておけ」


 男は事も無げに言う女の顔を唖然として見つめた。


「しかしお前.....」


「ええんじゃ。お父(とう)は絵師の矜持さえ認められりゃええだけじゃ。私(わっち)がこれを納めれば、少しも銭になる。心配いらん」


 にっかりと笑って女は、片手の包みを軽く叩くと、男の背をとん......と押した。


「可愛い孫に鯛でも菓子でも買うてやりや。私(わっち)もそのうち顔を見に寄らせてもらうわ」


 女は男を渡し船に押し込むと、船頭にー頼むわーと一言告げて、くるりと踵を返した。


「お栄、お前.....」


 女は、男の船が岸辺を離れた頃、くるりと一度だけ振り向いて、大きく手を振った。

 ざあっと巻き起こった風に紛れてその顔はよく見えなかったが、その姿は男には誰よりも美しく思えた。






......老人は、後の世に葛飾北斎と伝わる画狂人。彼とその娘お栄こと葛飾応為のささやかに目出度いある春のことだった。







 


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