4 ―稲神ヨウ―

  駅までの道を行く。


 ランニングコースにもなっている川沿いのアスファルトは、例に漏れず湿り気を残している。黒色が二色に別れ、鼻をかすめる独特の匂い。冷たさを残す空気が頬を撫で、降り注ぐ日光が和らげる。

 川のせせらぎを遠くに聴きながら、僕はポケットに手を突っ込んで歩いていた。


 靴底に感じる砂利も、胸を占める希望と絶望の気配も。すべからく思考をクリアにしていく。

 できることはやった。

 すこし……いや、かなり時間がかかってしまったが。あの日の答えを返せたことが、僕にとっては大きかった。


 ふと、何の気なしに背後を振り返る。

 もどかしさ、気がかり。複雑な、些細ななにかが頭をよぎった。


 伸びる歩道。僕が上ってきた階段の先まで、ずっと伸びている。名前の知らない木々が遮る先は、よくわからない。

 見渡して目に付くのは、車椅子を押す白衣と景色を楽しむ老人。そして息を切らして離れていくジャージだけだ。


「……」


 遠くにそびえる、大きい建物。ついさっきまで面会していた病院が無機質に赤い十字架を掲げていた。


 しばらくそのまま眺めて、まえに向き直る。

 予感のようなソレが気のせいであったのだと判断した。仮にアタリだとしても、いつか携帯に連絡がくるだろう。

 震える気配のない携帯を意識して、また歩き出す。



 その一歩が、止まった。



「っ、はぁ……はぁっ……」


 息を切らし膝から崩れ落ちる彼女をみて、目を見開く。

 どくんと跳ねる心臓が喉に渇きをもたらし、信じられない光景に判断を鈍らせる。


「く、っ。ふ、ぅ……」

「――、」


 さっきまで目にしていた白衣を汚し。へたり込んだ状態で、胸に手を当て息を整えている。明らかに無理をしており、取り落とした松葉杖が転がっている。

 ――呼吸を忘れる。


 乱れさせた灰色の髪も、変わらない透明感のある瞳も。節々から感じられる懐かしさも。

 すべてが僕をとらえて逃がさない。

 ずっと願っていた瞬間が唐突に飛び込んできたのだ。思考が正常に働くはずもなく、かけるべき言葉もみつからない。



「稲……み、さ」



 途切れ途切れに、田端ミレンは名前を呼んだ。一度は呼び捨てで呼んでくれたのに、わざわざ他人行儀に。

 けれどそのお陰で、彼女がなのかを察する。


 白い頬を薄ら桃色に染めて、儚げで暖かい笑みが向けられる。

 そよ風にも似るささやかな声は。上気させた、みたこともない純真さは。きっと田端ミレン本人のもので――。


「……よかっ、た」


 自然と、笑みがこぼれた。


 互いの胸元から伸びる白い線が、宙で結ばれる。ぶつかった視線がもどかしさを生む。

 駆け寄りたい衝動を抑えて、跳ねる動悸を抑えて。僕は口をひらいた。


「おかえり、ミレン」


 安堵したように。


「ただいま、戻りました」


 頷きが返される。




 手を伸ばす。


 ――あなたが好きです、と。


 そう言って、田端ミレンは手をとってくれた。


 味のしない風。

 明けない夜、虚ろな心。

 それでも僕らは、甘美な現実いまを噛みしめることを選んだのだ。





 fin.

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田端ミレンの恋愛観 九日晴一 @Kokonoka_hrkz

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