第17話

 深い底から意識が戻るとき、自分が寝ていたことすら気が付かない。

 目を開け、自分が横になっていることを認識して、初めて自分が意識を失っていたことに気付いた。


「え……あぇ……?」


 最初の光景は見慣れたリビングの天井だった。視界の端からLED照明の白い光が飛び込んでくる。まぶしさに目を細めながら体を起こそうとするが、体が重くて持ち上がらない。


「すぅ……すぅ……」

「あー……」


 見ると、横になっている司の胸に頭を預けて寝ている美也孤がいた。組んだ腕を枕にして顔をこちらに向けて寝息を立てている。

 彼女の瞼は赤く腫れあがっている。頬には涙を流した跡があり、よく見ると司の服には涙の跡がシミになっていた。


(あ、俺……確か何かに襲われて――ッ⁉)


 ズキッと首元から痛みが走る。手を当てると、ガーゼが当ててあった。軽く触ると小さい痛みが広がり、その傷が本物だとわからされる。

 痛みは寝起きの頭を無理やり起こしてくる。すると、だんだん気絶する前のことを思い出してきた。

 ひなたを送った後の帰り道、何かに襲われて首を噛まれた。真っ暗な夜道に加え、その犯人も黒いシルエットだったことからその正体は全くわからない。ただ、犯人というには違和感があった。襲われたとき間近で感じた相手の体格。どこか人間っぽくない、むしろケモノの方が近いように感じた。

 自分よりも大きな体格、正体のつかめない真っ黒なシルエット、運動不足とは言えど高校生男子が全く逆らえないほどの膂力りょりょく、そして容赦なく叩きつけてくる殺意。

 詳細を思い出した途端、司の額に冷や汗がぶわッと噴き出た。これまで感じたことのなかった死へ一歩手前まで近づいた感覚。奥歯がカチカチとなり、腕に変な力が入って細かく震える。

 そして、その右手は無意識に美也孤の頭へ伸びた。こわばった手が彼女の髪に触れると、力が溶けていくように消え去って落ち着いた。そしてそのまま手を上下に優しく動かす。指は掛かることなくさらさらした紙の上をすべる。頭頂にある二つの耳に触れると、美也孤のぬくもりが手に伝わってきた。根元をちょいちょいとくすぐると耳がぴくっと動く。それがなんだかおかしくてつい笑ってしまった。

 いつの間にか司の心は落ち着き、深呼吸もできるようになった。ふぅと一息ついたところで美也孤の瞼がゆっくり開いた。


「ぁ……」

「あ、ごめん。勝手に撫でたりし――」

「司さん!」


 司の言葉はガバッと勢いよく飛びついた美也孤に遮られた。美也孤はそのまま両腕を司の首に回し、力いっぱい抱きしめる。


「んぅ――ッ!」

「よかった! よかった! 無事でッ――うぅ……ごめ、ごめんなさい!」


 美也孤はボロボロと頬に大粒の涙を流しながら、何度も謝罪を口にした。

 だが、遠慮のない腕の力に口をふさがた司はそれどころではなかった。


「ぅ――ッ‼ ――ッ!」

「私がいたのに! ぐすッ――ケガ! ケガさせちゃって!」

「――――ッ!(バンバンバン)」


 振りほどこうにも妙に体に力が入らない。そもそも、美也孤が上に乗っかっている形なので、乱暴にどかすこともはばかられる。柔道の締技でも食らったかのごとく、だんだん息が苦しくなってきた。自由な右手で美也孤の背中を叩いて降参をアピールするも、泣き続ける彼女には届かない。

 必死な司に気付かない美也孤は、安心と不安がごちゃ混ぜになって昂った気持ちがぼろぼろとこぼれだす。

 うなじに顔をうずめて鼻をすすることで、司の首筋に美也孤の涙が伝う。その雫にぎょっとするも、叩いていた手を止め、赤子をあやすように美也孤の背中を優しくさすった。


「ひぅ――ッもしかしたら、死んじゃうかもって思いっちゃいましたうえぇえぇええぇぇえん」

「――――ッ(パタン)」


 彼女に落ち着くよう背中をさすり頭を撫でてみるも、ずっと泣きっぱなしで収まる気がしない。

 やがて、手の力が抜けていき意識が遠のいていったところで、ようやく腕の力が少し緩んだ。


「ぅえ……すん……あれ? 司さん? 司さーん⁉ また気絶しちゃいましたー⁉」

「――――はッ⁉ 死ぬとこだ!」

「死んでない! よかったぁ!」


 がばっと勢いよく上半身だけ起こすと、美也孤がソファーから転げ落ちそうになる。慌てて背中に手を回して自身に引き寄せたところで、司は自身の違和感に気付いた。


「わ、わ、司さん大丈夫ですか?」

「あ、あぁ。いや、なんか思ったよりだるいというか力が入らないというか……」

「まだ全快じゃないんですよ。寝てください!」

「いやいや、さすがにそろそろ夕食用意しないと」


 壁時計に目をやるとすでに七時を回っていた。本来なら夕食の準備をしなければならないところだが、キッチンに顔を向けると見知った後姿があった。


「汐さんが準備してくださってますよ」

「おーう、司は寝ときなー。夕食もうすぐできるから」

「ほら、大人しくしてください!」


 美也孤に押し倒され、司は再び横になる。

 やることが無いのであれば遠慮なく休ませてもらおう。風邪をひいたとお云うわけではないが、妙に体がうまく動かない。


「どうぞ、麦茶です」

「あ、あぁ。ありがとう……天河さんが助けてくれたの?」

「すみません。私が助けたというには遅かったです。家の外で司さんの声が聞こえたので飛び出したのですが……」

「いや、あれは事故だよ。仕方ない」


 コップを受け取り、麦茶を喉に流し込む。冷たさに頭を冷やされる。

 美也孤が謝罪を述べるが、彼女の責任ではない。


「あれは……ツキモノ?」

「おそらく、そうだと思います。私が見つけたらすぐに逃げちゃったので、確認はできていないんですけど」

「ツキモノに襲われるのって滅多にないことじゃなかったの?」

「あ、す、すみません!」

「いや、ごめん。責めているわけじゃないんだ。ただの、質問」

「ごめんなさい……」


 何度も謝られると、逆に司のほうが申し訳なくなってしまう。

 確かに危なかった。首を噛まれているわけなので、何ならもっと大事になってもおかしくなかった。

 けれど、これは美也孤の責任ではない。不幸な事故なのだ。

 だが彼女はそう割り切れていないようで、心苦しさが顔にも耳にも出ている。昼間のような元気な美也孤の耳はすっかりぺたんこにしおれてしまっている。

 どうしたものかと悩んでみるも、上手く言葉が見るからない。なので、話題を変えることにした。


「そういえばさ、天河さんは住民票とかもらうために実家に帰るんでしょ? いつ?」

「えーっと決めてないですね」

「二尾も言ってたけど、提出期限はまだ先でも余裕をもって準備しておかないと」

「はい、そうですね……じゃあ明日のうちに準備をして、明後日の朝に出発しようかと思います」

「うん、それがいいよ」


 美也孤が実家に帰ったらしばらくは会えないだろう。その実家がどこにあるかによってかかる日数も変わりそうだが。


「○○県の××市です」

「関東か。思ったより近いな」

「はい。用事が終わったらすぐもどります!」

「……両親も人間?」

「気になりますか? 会ってみます?」

「いや、いいよ」


 そこそこ気になるところだが、なんだかはまってはいけない深みにはまりそうなので丁重にお断りする。


「というか、なんで天河さんはご両親と離れて暮らしているの?」

「あぁ、それはですね――」

「できたよー」


 と、そのとき台所から汐の声がかかった。出汁のいい匂いが漂ってくる。

 だるいといっても立てないほどではない。司は美也孤に手を貸してもらってソファーから立ち上がる。寝すぎたせいか、軽い立ち眩みが起こったがそれ以外は特に体に異常はない。


「よく寝たねー。首はもう大丈夫?」

「うん。手当ありがとう」


 礼を言うと、汐は「いやいや」と手を振って美也孤を指さした。


「手当てをしたのは美也孤ちゃんだよ」

「そうだったのか、ありがとう」

「いえいえ、でも大きなケガが無くて良かったです」

「大変だったんだよー。あんたを負ぶった美也孤ちゃんとばったり玄関前で会ったとき、美也孤ちゃん大泣きしてたんだからねー」

「汐さん⁉」

「救急箱渡してあげたらべそかきながら手当てしてたよねー」

「もう! 汐さんそれは言わないでって話だったじゃないですかぁ!」


 赤くなって抗議する美也孤に「そうだったけー?」と汐はにやにや笑っている。


「べそかきながらか……」

「やめ! やめ! その話はおしまいです!」


 先ほどの泣き顔を見たこともあり、容易に想像できた。

 実際、司の想像通りであった。美也孤はぐずりながら、ぼろぼろ泣きながら丁寧に傷の手当てを行い、それが終わった後でも心配でそばを離れられなかった。司をソファーに寝かせたあと、なにかできることはないかと考えるも何も思いつかず、かといって無理やり起こすこともできず、ただただ罪悪感に押しつぶされそうになりながら見守るしかできなかった。いつのまにか気負い疲れて寝てしまい、司の服には涙の跡がシミになっている。


「ほら、司さんも座って!」

「わかったわかった。押すなって」


 ぷんすこ怒る美也孤に強制的にテーブルに着かされる。

 食卓に着くとどんぶりが三つ置かれてあった。


「きつねうどんか」

「狐⁉」

「卵焼きも作ったよー」


 大根おろしも添えられた卵焼きもある。

 いざ目の前に夕食が並ぶと急にお腹も空いてくるものだ。

 テーブルについて手を合わせる。


「いただきます」

「どうぞー、漬物はここ置いとくから好きにとってね」

「……天河さん?」

「あ、はい! 何でもないです。いただきます!」


 若干、挙動不審な美也孤をいぶかしむ。一口うどんをすすったところで司は一つ考え浮かんだ。案の定、美也孤はまだうどんに手を付けず卵焼きをほおばるっている。


「きつねうどんって、狐が入っているわけじゃないぞ」

「え⁉ そうなんですか⁉」


 箸を落として驚愕に固まる美也孤を見て、汐がしばらく腹を抱えて笑うのだった。

 美也孤は真っ赤になって恥ずかしがっていたが、結局はかけつゆまでぺろりと平らげたのだった。

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