フジカゲの柴犬はベビーカーのようなドッグカートに入れられていた。後ろ脚に包帯が巻かれているが、前足をカートのふちにかけて耳をピンと立てている様子は元気そうだった。

 フジカゲとわたしは公園の池の周りを歩いた。見える範囲にはほかに誰もいない。フジカゲは、曇りなのにキャップにサングラスをしていて、わたしはマスクだから、怪しい二人組に見えるかもしれない。きっと、夫婦や恋人にも見えなければ、親子にも見えないだろう。犬が不可解な印象を少しはぬぐってくれているかもしれないが。

 犬の名前を尋ねると、決めていないという。保護犬だったのを一週間くらい前に引き取って飼い始めたが、考えても思いつかず、家族がいないからほかに考えてくれる人もいないと。

 わたしの親はペットを飼うことを許してくれなかったことを思い出した。

「わたしはペットを飼ったことがないんですけど、子供の頃、近所の野良猫にメロンっていう名前を勝手につけてました。目が緑色だったので」

 なんの気なしにわたしがそう言うと、「じゃあ、これの名前もメロンにします」とフジカゲは言った。

「え? 本当ですか?」

「はい。いけませんか?」

「いえ、いけないってことはないですけど」

 とことん感情が見えない人だ。なにも伝わってこない。

「どうして怪我してしまったんですか?」

「散歩中にたまたまリードを放してしまったら勝手に走り出してしまって、自転車に轢かれたんです」

「それは……轢いた人はどうしたんですか?」

「そのまま行ってしまいました」

「それはひどいですね」

「なついてもらえない僕が悪いんです。なんだか、ずっと警戒されているようで」

「そうなんですか?」

「はい。可愛がっているつもりなんですけどね」

 こんな話をしに来たわけではないことを思い出した。

「あの、監視カメラの情報がどうとかいうのは、どういうことですか?」

「ああ。調整者の肉体再生機能は引退の時に取り除かれたんですが、認識拡張措置はそのままになってるんですよ。慣れてしまったその機能を取り除くと、精神に異常をきたす可能性があるらしいので」

「認識拡張、ですか」

「はい。本当は、戦場で敵や味方の状況を把握するためのものなんですけど、普段から使っていないといざという時に使えないので」

「監視カメラの映像が見えるってことですか?」

「そうです」

「え……それってどういうことですか?」

「自分から半径五キロくらいの範囲の監視機器と自動的につながれて、いくつもの映像が同時に見えるんです」

「いくつもの映像が同時って、まさに監視カメラモニターみたいな感じですか?」

「いや、違いますね。起きながらいくつもの鮮明な夢を同時に見てる感じです」

 どんな意識状態なのだろう。

「へえ……一生そのままってことですか?」

「そうです」

「つらくないですか?」

「いいえ。もう慣れてますから。調整者になる時に全部覚悟したことです」

「調整者って、再生能力だけじゃなくて、そういうことも含めて調整者ってことなんですか」

「その通りです。最高レベルの再生能力と認識拡張機能を備えた者を調整者といいます。軽度の再生能力を付された警察官は調整者ではありません」

「知りませんでした。調整者ってほんとにすごいんですね。国防軍人は全員調整者だったんですか?」

「いえ、そういうわけではないです。僕は会ったことがないんですが、特殊部隊の人は調整者ではないと聞きました。彼らも全員退役したはずですが」

「へえ、そうなんですか」

 彼は、少し言い訳するように言葉を継ぐ。

「監視機器の情報取得権利があるというのは調整者の特権なのですが、それにみなさんが納得するほどの根拠があるのかどうかは、僕にはわかりません」

「いや、あるんじゃないですか?」

「僕たちの位置情報は国に管理されていますが、それが情報取得権利の代償にはなりませんし」

「国を守るための権利ですよね」

「前はそうでしたが、もうそうではないですから、どう考えたらいいものか」

「今は新しい兵器ができたんでしたっけ?」

「はい。軍は完全に無人化されました。いるのは技師だけです」

「それはいいこと、ですよね?」

「ええ、もちろん。危険な仕事はできるだけするべきではないですからね」

「今はお仕事されてるんですか?」

「いえ、ベーシックインカムに年金がプラスされています」

「そうなんですね」

「あの、どうして嘘をついたんですか?」

 わたしは唐突な言葉に自分でも意外なほど驚いた。

「あ……すみません」

「謝っていただくことはないんですが」

 以前にも同じ会話をした。

「本当のことを言うと、自分でもよくわからないんです。あなたと話したくて」

 本当に自分でも驚くほど正直な言葉だった。

「そうですか」

 彼は特に驚いた様子はない。

「ご迷惑をかけてすみません」

 わたしが謝ると、彼は首を振る。

「いいえ、全然迷惑ということはありません。ただ、あなたのことが不可解すぎて少し気になっています」

「え? あ、顔の傷のことですか?」

「それだけというわけではないですが」

 わたしは、同棲している彼氏に言われて自分で顔に傷をつけたことを話した。ほかの人に話したことがないわけではない。しかし、自分から話したのは初めてだった。以前、友達だった人に話した時のように、引かれてしまうだろうと思った。それでも、ごまかせる気がしなかった。見透かされてしまいそうに思うのは、彼の感情が見えないからだろうか。

「そうなんですか」

わたしが話し終わっても、フジカゲの落ち着いた口調は変わらなかった。

「彼氏さんはちょっと変わった人ですね」

「ええ、まあ、芸術家なので」

「それは素晴らしい」

 わたしは嬉しくなった。

「ジビさんのところに通うようになったのも、彼のアイデアなんです。彼の潜在意識からできたデザインを背中に入れてもらうことにしたんです」

「ということは、あなた自身の分析はしてもらっていないということですか?」

「はい、してません」

「そうなんですか」

 わたしは、それはアギンがわたしたちの絆を確かめるために考えてくれたということや出来上がるまで背中を見てはいけないとアギンが言っているということなどを立て続けに話してしまった。

「すみません。こんな話つまらないですよね」

「そんなことはありません」

 不思議と本気で言っているように聞こえた。

「やっぱり彼は面白い人なんでしょうね」

「はい。でもちょっと嫉妬深いので、ほかの男の人と会っているのを知ったら怒ると思います。そういうところも好きなんですけどね」

「相性がいいんですね。僕のようなおじさんにも嫉妬するんでしょうか」

「多分。最近はあまり感じなくなりましたけど、支配欲が強いと言いますか」

 考えてみれば見るほど、アギンとわたしは相性抜群だ。支配欲が強い者と、支配を求める者。

「じゃあ、こうして会うのはまずいんじゃないでしょうか」

「まあ、そうですね。でも、理由があればいいと思います」

「理由、ですか」

「わたしが犬のお世話をするバイトをする、とか」

「なるほど。メロンの世話をですか」

 自然とメロンと口にしているのがなんだかおかしかった。

 そのあと、わたしたちはその公園でたわいもない話を少し続けて別れた。


 施術中、なにか流すか尋ねてくれたジビに、おすすめの音楽を流してくれるように頼んだ。

「いつもいい感じの音楽ですよね」

 上半身裸で施術台にうつぶせになったわたしは言った。

「ありがとうございます」

 ジビは軽やかに言う。

「アロマもいい香りだし。ジビさんの趣味なんですか?」

「そうですよ。AIが選んでいるわけではないです」

 冗談めかした口調で言い、施術を始める。

「ジビさんって、お仕事以外ではなにをされてるんですか?」

「うーん。絵を見たり、描いたりとかですね。それも仕事のためなので、純粋な趣味っていうのはないんです。ぼーっとテレビ見ちゃったりとかしてます。ずっとお家にいますし」

「そうなんですか。ちょっと意外です」

「タトゥーが入っていると外交的だと思われることも多いんですが、わたしのタトゥーは自己満足でしかないんです。お客様へのアピールにはなると思ってますが、それ以外に人に見せる意味はないと思ってます」

「そうなんですね。自分自身にとって大切であればそれでいいですもんね」

「ええ、その通りです。わたしはタトゥーに助けられてます」

「助けられてる?」

「はい。わたし、タトゥーというものがなかったら、とっくにこの体を捨てたくなってたと思うんですよね。でも、今はこの体が芸術のキャンバスだと思ってますから、自分を大切にしようと思えるんです」

「なるほど……素敵ですね」

 ジビの熱い思いが伝わってきた。今出来上がりつつあるわたしの背中の作品も、きっと美しいものなのだろう。

「すみません、勝手に語ってしまって」

「いえいえ」

 わたしは、フジカゲと会ったことを話した。

「潜在意識分析を二回したって聞いたんですけど、上手くいかなかったそうですね」

「そうなんですよ。本当に申し訳なくて、いろいろ問い合わせたんですけど、可能にする方法がわからなくて」

「原因はわかったんですか?」

「ごくまれにそういうことがあるみたいなんです」

「……元調整者だってことが関係あるんでしょうか?」

「あ、そのこともお聞きになったんですね」

「はい。ジビさんも知ってたんですね」

「はい。サヤさんって、もとからフジカゲさんとお知り合いだったんですか?」

「いいえ。前に見かけたことはあったんですけど、知り合いっていうわけではなくて。でもお話してみたらとても興味深かったです。わたしが無知なだけかもしれませんけど」

 わたしがフジカゲと一緒に行った公園の名前を出すと、ジビは公園の名前を訊き返してから言った。

「そこの近くで殺人事件があったらしいですね」

「え、そうなんですか?」

「女性の遺体が発見されたらしいですよ。連続殺人事件じゃないかって、結構騒がれてます」

「連続殺人事件?」

「ご存知ありませんか? ここのところ、いくつか女性や子供の遺体が発見されてるんですよ。手口も被害者の共通点もないらしいですけど、範囲が狭いので、連続殺人事件なんじゃないかって」

「あ、そういえば、ニュースでやってたような」

 流し見したニュース番組をうっすらと思いだした。

「こわいですよね。近くでそんな事件が起こってるなんて」

「そうですね。一人の人が何人も殺してるかもしれないってことですか?」

「どうなんでしょうね。どっちにしろこわいですし。どうやったらそんなひどいことする人が育っちゃうんでしょうね」

「そうですね。普段はなにしてる人なんだろう」

「映画とかだと、普段は普通の人が殺人犯だったりしますけどね」

「そうですね。早く犯人捕まえてほしいですね」

「本当に。サヤさんも、夜に一人で出歩いたりしないように気をつけてくださいね」

「はい。ジビさんも」

 そうは言ったものの、安価な自動タクシーが普及しているのに、夜道を歩いていて襲われるなんてことがあるのだろうかと思った。でも、被害者の共通点がないということは通り魔としか考えられないだろうし。世の中はよくわからないことだらけだ。


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