星野瑞樹 1

 彼女と会うまで、全てがモノクロに見えていた。それは、黒のカラーコンタクトレンズをしていたせいなのかもしれない。そんなことは絶対ありえないのだけど、祖母につけなさい、と言われて始めたそれは、存在しない副作用で、僕を蝕んでゆくような感じがした。

 人になって、人に紛れて、もう3年が過ぎた。黒髪にして、黒目になって、人に溶け込めると思っていたのに、僕は未だに人になりきれず、1人しか友だちがいないのだった。

 人に話しかける方法がよくわからない、というのが問題だったのかもしれない。僕は人ではなかったので、何も言わなくても、目線を向けて念のようなものを送れば、相手が何でも与えてくれた。ご飯も、服も、花も、「ともだち」でさえも。

 あのときの「ともだち」と、今僕の隣でカロリーメイトを食べる相川さんとは、全然違うのはわかる。友だちは、僕にその口で敬語は使わないし、その手で食べ物を食べさせたりしない。人になってまだ経験の浅い僕だけど、それは理解していた。

 友だち、と呼べる人は、相川さんだけ。祖母が、「友だち、と言うのは、一緒にお昼ご飯を食べる人のことなんよ」と言っていたので、彼女はしっかりとした友だちだ。そして、僕の顔が好きらしい。別に人の視線には慣れているので、いくらでも見てくれて構わないのに、といつも思う。外見は、いずれ失われる。時の流れと共に消えてゆくものに、意味は無いから。

 相川さんと友だちになったのは、彼女が僕に話しかけてくれた、ということもあるし、何より、僕に「人としてのルール」を教えてくれたから、というのが大きい。今までにも僕に話しかけてくれた人はいたけど、みんな、何かしら見返りを求めてきた。僕と話したことを自慢する者、僕の外見を褒め称える者。誰も、僕の中身を見てくれやしないのだ。もう、たくさんだった。僕はもう、神様じゃない。

 けど、彼女は違った。確かに、僕の外見に興味を持っていたけど、彼女は僕を助けてくれた。そして、教えてくれたのだ。


『人を助けるのに理由はいらない』


 と。普通の人ならば、それは小学校で習うことらしい。だからなのか、祖母は教えてくれなかった。祖母と暮らすようになったのは今から3年ほど前で、その頃僕はもう中学生だったので、祖母は僕がそのことを知っていると思っていたのだろう。

 相川さんは、僕の落としたコンタクトレンズを探す手伝いをしてくれた。彼女が来るまでにも何人か僕のことを見つけた人はいたけど、助けてはくれなかった。不思議だ。小学生でも知っていることなのにね。

 だからこそ、僕に手を差し伸べ、大切なことを教えてくれた彼女には、僕のこの瞳を見せてもいいと思った。日本人らしくない、この青い瞳を。


「昼食、それだけで足りるの」


 ふと思考から離れて、いつも疑問に思っていたことを聞いてみた。いつ見ても、彼女はカロリーメイトばかりだ。ただでさえ細いのに、死んでしまうのではないか、と思う。


「……足りたらいいんだけどねぇ」


 むぐ、とカロリーメイトを口に含んで彼女は呟いた。お腹を抑えてため息をつく彼女に、口許が緩む。こういう仕草ができてしまうし、似合っているものだから、女の子は可愛らしいのだ。何度、女の子に生まれたいと思ったことだろう。そうしたら、僕はずっと、あの場所にいられたのかな。

 別に、あの場所にずっといたかった訳では無いのだ。今、こうして、人として生きるのは好きだから。

 けれど、どうしても、人にはなりきれない。今だって、メロンパンとクリームパンを食べている。普通の人は、昼食にこんなものは食べないらしい。でも仕方ないじゃない?

 だって、僕はかつて、神様だったんだから。

 僕は、静かに問いかける。


「神様って、呼ばれたことある?」


 ええ。ありますとも。










 文化祭が始まったその日、僕は学校を休んだ。祖母の体調が悪く、朝から寝坊したからだ。僕は昔、神様であったので、誰かに起こされなければ起きることができない。それは3年経っても治ることなく、まだ僕は完全な人になりきれないのだ。


「ごめんねぇ。起こしてやれなくて」

「別に大丈夫。どうせ、今日は文化祭だし」


 けほけほ、と咳をしながら謝る祖母に、僕は味噌汁を飲み干して首を横に振る。祖母ももう若くない。体調が悪いのに、こうやっていつものように朝食を作ってくれるだけでありがたかった。


「本当は、いつも昼食も作ってやりたいんだけどねぇ」

「そこまではいいよ。それに、今でも味噌汁とご飯で限界だから」


 ごちそうさま、と祖母から昔、教えてもらった通りに手を合わせ、僕は立ち上がる。

 ずっと僕の食事はパンばかりで、その他のものをほとんど食べたことが無かった。そのせいで、他のものを食べると、はじめの頃はよく吐いてしまっていた。今は、訓練のおかげで味噌汁や白ご飯なんかは食べれるようになってきたけど、それが限界だった。だから、僕の昼食はいつもパンだ。いくら相川さんに咎められようが。


「今日はどう過ごすんだい?」

「んー……文字を読む練習でもしようかな」

「それはいいことだね。屋根裏部屋にたくさん本があるから、どんどん読みなさい」

「ありがとう。ばあやはしっかりと休んでいてね」


 祖母がお盆を下げ始める。ごほごほっ、という嫌な咳が、どことなく、僕の心をざわつかせた。


 

  

 

 

 

 屋根裏部屋に行くと、僕は椅子に座り、本棚から本を手に取った。正直、内容はどうでもいいのだ。それが本でさえあれば。

 ページを開くと、白い紙の上に黒いインクでびっしりと文字が印刷されている。僕はしばらくの間、それを根気強く見つめ続けた。

 神様だった頃、一通りは文字の読み書きや計算の仕方を教わった。けれど、本は読んだことがなく、人になって初めて本を手に取ったとき、これは何だ、と聞いて、祖母を困らせてしまったことを、今でも覚えている。

 物語、という言葉の意味がわからなかったのだ。

 僕にとって、現実、という世界だけがただ一つの物語であり、他の物語など、知る由もなくて。そして、虚構、というものも理解できなかった。無いものをあるように書く、人特有の思考が。

 「本を読めてこそ一人前の大人」と教えてくれた祖母の言葉に従い、これまで何度も本とにらめっこしてきたけれど、1度も読み切れた試しがない。精々、文庫本の半分ほどまでだ。

 本の文字を辿っていくと、頭に入れた端からどんどんと拡散していって、物語が構築されない。学校の国語のテストも散々だ。

 もちろん今日も、ふう、と溜息をついて本を机に投げ出してしまう。


「僕は神様だったから、こんなの読めなくていいんだよ!」


 屋根裏部屋は狭いので、僕の声が盛大に跳ね返り、思わず耳を塞ぐはめになった。

 本をすらすらと読める人は羨ましい。だって、自分の人生以外の物語を、体験することができるのだから。



 


 

 

 2日目、祖母は大分調子がよくなったようで、僕を笑顔で見送ってくれた。高校は徒歩で行ける距離だ。

 教室に着いてSHRがあった後、中庭で静かに過ごそうと窓を見ると、大量の機材と学ランを着た人たちがうろうろとしていたので、肩を落とした。うるさいところは嫌いだ。あの日のことを思い出すから。

 喧騒から目を逸らして、相川さんの方を見る。一緒にいて、と視線をやったのだ。こういう風に見つめれば、みんな僕に従ってくれることを、僕は知っていた。


「……一緒に回る?」


 うん、と頷けば、彼女は仕方ないなぁ、とばかりに笑った。ほら。やっぱり僕はまだ、人になりきれていなかった。ふっ、と自嘲気味に口の端を上げたけど、彼女はそれに気づかなかったらしい。僕の手を引いて、歩き出した。

 色々と校舎内をさ迷い尽くした後、結局、僕らは教室に戻り、ゆっくりとすることにした。どこもかしこも人だらけで、途中、人酔いしそうだった。

 教室には誰もいなくって、最初からここにいればよかったじゃん、と思ったけど、一緒に行動してくれた彼女に失礼なので、言わないでおいた。

 僕と彼女は元々会話が多い方ではないので、このときもこうやって、互いに黙り込んでいた。

 こんな文化祭中はすることもないので、僕は空を見上げる。死ぬほど青い空は、今日も綺麗だった。こんな空を見ていると、僕の目をくり抜こうとした「ともだち」がいたことを思い出す。


『神様の瞳はとっても綺麗ですね』


 彼女は僕とは違って、闇を呑み込んだみたいな真っ黒な瞳だった。どうやら、僕の瞳が羨ましかったらしい。僕をいつも見つめていた沢山の茶色っぽい瞳の方が、まるで飴玉みたいで綺麗だと思っていたんだけどな。

 その「ともだち」は周りの大人たちに連れ去られ、その後、姿を見ることは無かった。彼女も僕と共にもう解放され、この世界で普通に生活をしているはずだ。いつか会って、何故あのとき、僕の目をくり抜こうとしたのか、話を聞きたいな、と思った。

 がさがさ、と音がして、彼女が本を読み始めたことに気づいた。窓に映っているのは黒っぽいカバーの文庫本で、彼女の小さな手によく似合っている。文字を追う真剣なその瞳は、窓ガラスと太陽光に透かされて、キャラメルのようだった。


「何の本、読んでるの」


 なんの前触れも無く、問いかける。


「太宰治さんの『人間失格』。ほら、この前の現代文のテスト、太宰治さんだったじゃない? それで興味が出てきて、買ってきたの」

「へぇ、見せて」


 窓の外から目を離し、僕は彼女の方に身を乗り出した。彼女が僕に本を向けてくれたので、僕はしばらくその文字の羅列をじっ、と見つめたあと、ふぅ、とため息をついて、やはり彼女の方に戻した。


「駄目だ。読める気がしない」

「本を読むの、苦手なの?」

「うーん、そうだね。僕は神様だから」

「まーたそんなことを言う」


 くすくす、と彼女が笑うので、僕も笑みを浮かべて、また窓に視線を戻した。


「楽しい文化祭だね」

「そうね」


 窓の外から見える中庭は、沢山の人で賑わっている。また来週になれば、あの場所は僕たちの場所になるのだ、と言い聞かせて。

 そしてまた、僕の神様でない日々が始まる。

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