浮気だけじゃない

鶴森はり

いらないひと

「今日、友達が来るの」

 休日の午後。リビングで寛ぐ司に、妻が感情のない表情で呟いた。

 言外に邪魔だと伝えているようで、苛立ちに任せて棘を彼女へと向けた。

「友達呼ぶとか優雅で良いよな、お前は。俺は仕事で疲れてんだけど。休日ぐらい家でゆっくりさせてくれよ」

 妻は黙り込んだ。人形のように棒立ちする姿を一瞥して、わざとらしく大仰な溜め息をつき、緩慢な動作でソファから立ち上がった。

 結婚して二年。後悔のみが心を占めていた。

 妻はお淑やかに夫に従う女であった。意見をせず黙ったまま、責任を放棄するのだ。

 交際時期は、言いなりの相手に対して優越感に浸れた。しかし今となれば面白味の欠片もない女で、苛立ちの要因でしかない。

 結婚生活での鬱陶しさは十分に思い知った。

 我慢した方だ。既に、愛想は尽きており別の女を娶ろうと決断していた。

 予めポケットに忍ばせていた葉書サイズの封筒を取り出し、目の前に投げ捨てた。

 妻は目で追ったが、触れようとすらしない。致し方ないと中身を乱雑に散蒔いた。

「これ、どういうことだよ」

 数枚の写真。

 妻が見知らぬ男性と二人並んだ後ろ姿が写されていた。

 先日、尾行して物陰から隠し撮りした切り札である。

 妻が同窓会へと出掛けた日。

 もしかしたらと準備すれば、失笑する程に期待通りの光景が広がっていた。

 本当に浮気したのか、久しい友人に会って談笑に花を咲かせただけなのか。

 遠くから覗き見をしただけの司には分からないが、真実など興味が無い。

 浮気現場に見えなくもない、それで十分であった。

「浮気とか最悪だな」

 切っ掛けの装置としては重畳。罵られた妻は、やはり黙り込んだ。修羅場で熱くなる司を尻目に無表情。

 動揺するのではと期待していた司は躍起になり追い打ちをかけた。

 離婚。慰謝料。次々と問題を提示し責め立て、極め付けに離婚届を広げる。

 圧倒する快感に酔いしれ、鼻を鳴らした。

 司が記入すべき欄は全て埋まっており、後は妻が空欄を書くのみ。

 用紙を眺めて、彼女は貝のように閉ざしていた口を開いた。

「貴方は、本当に良いの?」

 淡々とした口調に勿論だと頷いた。

「浮気をするような妻は、いらない」

 トドメの一言。蔑みを込めた目線を、妻は真っ向から受け止めた。

 感情の起伏が乏しいまま用意したペンを走らせる姿に、最後まで可愛げの無い女だと心の中で毒を吐いた。

 時間は掛からず、残すは彼女の証人欄。司は不備がないか確かめようと手を伸ばした。

 だが。触れることは叶わなかった。

 妻が紙を奪ったのだ。呆気に取られている内に素早く仕舞い込んだ。この期に及んで抵抗するのかと眉を顰めた。

「会って欲しい人、来たわ」

 ぽつりと呟いた彼女の顔を見て、ぞくりと肌が粟立った。

 無を貫き通していた妻が、笑ったのだ。ぞっとする歪んだ微笑み。

 酸素がなくなったかのような錯覚。呼吸、身動きひとつ出来ない。

 凍り付き、瞬きも忘れて凝視した。

 時間が止まったかのような空間。

 静寂を切り裂くように時計が鳴った。二時を知らせる音がやけに大きく響き渡り、司はびくりと身体を揺らす。小さな悲鳴が自分の口から発せられた。

 同時、玄関から何者かが侵入する気配。廊下を無断で歩き、リビングの扉を開く。勢い良く振り向き、人物を認識した司は、恐怖と驚きに腰を抜かした。尻餅をつく姿に、侵入者は愉しげに喉を鳴らす。猫のような愛嬌のある目が加虐的に輝いた。

「紹介するわね。最近友達になったばかりで」


 ――貴方の浮気相手よ。


 断言する妻に迷いはない。確信しているのだ。

 突如襲いかかった危機に真っ白になる頭を叩き、打開策を模索する。

 状況が飲み込めない、大体何故彼女が妻を知っているのだ。

「あんたが寝てる間に携帯を見ちゃったの。既婚者とか初耳で、マジで焦った」

 軽い口調で浮気相手の彼女に説明される。

 覗くなど最低な行為だと声を荒らげるが、嘲りの笑い声で吹き飛ばされた。

「お嫁さんに事情を話して謝ったら、騙された貴方は悪くないって言ってくれて」

「それから二人で追い詰めようって誓ったの」

 女達は心底愉快そうに、いたぶってくる。お前が悪いと指を指す。

 確かに既婚者である事実は隠していたが、離婚した後、浮気相手とは結婚するつもりであった。

 隠し通せる、全て上手くいく。それは甘い幻想に過ぎなかったのだ。

 裏切られた女達は、ほくそ笑む。

 嵌められたと無意識に呟けば、女達は罵った。躊躇なく踏みつけるように。

「人を不倫に巻き込んでおいて虫が良すぎ」

「被害者は私たち。間違えないで」

 剰え私の不貞を捏造して慰謝料なんて、面の皮が厚いわね。愛想が尽きたわ。

 後ろ姿で証拠にもならない写真を破り捨て、離婚届を抱きしめる妻に縋ろうとした。手を伸ばし、彼女の服の裾を掴む。

 だが、すぐさまに、乾いた音と共に、叩き落とされた。妻の綺麗な爪が、司の手の甲に当たり、痛みが走る。

 妻だった女は凍てついた瞳で射貫いた。

「浮気をするような夫は、いらない」

 吐き捨てられた、終わりを告げる言葉に打ちのめされ、司は力なく項垂れた。

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浮気だけじゃない 鶴森はり @sakuramori_mako

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