えぴろーぐ【僕の一人称はなぜ『僕』になりしか】

 僕は今、徳大寺さんとにーにーちゃんの背中を見送っている。まぁ、言った通りに割とすぐだったよな……

 しかし女子に頼りにされてしまう、それも特定の女子に頼りにされてしまう気分というのは悪くない。

 『坂本龍馬』、か。


 戦国VS幕末。歴史ファンを二分する二大人気時代。

 その中で特に人気なのが戦国なら『信長』、幕末なら『龍馬』だ。


 だが僕の場合王道とは外れている。戦国なら『武田勝頼』、幕末ならみんなには言っていないが『吉田松陰』だ。

 『信長』や『龍馬』なら下の名前だけで通じてしまう。大河ドラマのタイトルがそれを証明している。『勝頼』や『松蔭』も通じないことはないが——、フルネームでないと収まりが悪い。そういう意味でネームバリュー的に及ばないというのは否めない。


 それでもなぜこのふたりなのか? ワケは簡単だ。


 どうも僕は勝者に感情移入できなくて困る。勝つのは常に少数。負ける者が大半。たぶん僕も負けることであろうな——サッカー部途中退部、勉強もイマイチだし。だから『戦国の敗北者を抱きしめる会』なんだけど……

 信長も龍馬も志半ばで横死してはいるんだけど、なんか〝敗北〟してるような気がしない。


 だけど〝勝者に感情移入できない、敗者に惹かれる〟とは言ってもただ敗けただけじゃ浮かばれない。ただただ悲惨で気の毒なだけの人には入れ込めない。なんやかんや言ってどこか自分と重ね合わせて見ているから。

 でも敗けても何かが残せたなら。

 〝無駄じゃなかった〟と。

 そうあって欲しい。やっぱり歴史って、入れ込み具合だから。



 武田勝頼は敗けて何を残したか?


 天正十年、武田勝頼は天目山で自刃して果てた。そしてその天正十年(即ち『本能寺の変』が起こった年)前後に急激に領国を拡大したのが徳川家康。

 三河・遠江二カ国の大名から、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領する大大名になった。新たに徳川領になった三カ国、駿河・甲斐・信濃が過去武田領だったことも手伝って、この時大量の武田家元家臣が徳川家に雇い入れられた。これだけ急激に膨張すれば『三河時代からの家臣団』だけで領国を運営できるわけないからだ。

 三河・遠江二カ国だけじゃとてもとても天下人にはなれそうもない。だがここで、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領することで、徳川家康は初めて天下人レースのスターティンググリッドに並ぶ資格を得た。

 そして新たに加わったそれら家臣団を用いて(『井伊直政の赤備え』が特に有名だ)合戦に次ぐ合戦。その白眉が本能寺から僅か2年後の『小牧・長久手の戦い』。数の上で秀吉軍より劣勢でありながら敢えて野戦で勝負し局地的には勝利さえ収めてしまった。後の天下人と五分に渡り合った。『二代目海道一の弓取り』の誕生。この時手に入れた名声を元手にその後徳川家康が天下を獲ったのは周知の通り。僕たちがイメージする徳川家康は正にこの『小牧・長久手』から始まったんだ。

 武田勝頼は死んでしまったが武田が残した遺産はその後の天下統一の礎になったと言えるじゃないか。なにかは確実に残ったんだ。

 とはいえ誰かに言う気も起こらない。なんか負け惜しみのような気もするから。それにどうせ『それ、信玄の遺産だろ』とか言われるんだろう。



 しかし吉田松陰の方はそうしたケチはつかない。


 『土佐弁カッコイイ!』で怪しげな土佐弁で喋っているうちに徳大寺さんからは『坂本龍馬』にされてしまった僕。

 坂本龍馬とは、誰もが認める幕末のヒーロー。テレビ、映画などで幕末モノをやるとたいてい坂本龍馬役にはカッコ良い系の俳優があてがわれる。


 だけど僕は実は今ひとつ坂本龍馬を持ち上げ切れない。もちろんディスってるわけじゃない。凄い仕事をしたと思う。

 坂本龍馬が成した最も大きな仕事が『薩長同盟』だ。これが倒幕、明治維新に繋がっていく。

 正に『ニッポンの夜明けは近いぜよ!』だ。

 だけどこれ、薩摩藩と長州藩がなーんも力を持たないザコ藩だったら、この二つを結びつけてもそれこそなーんの意味もなかったことになる。薩摩と長州あってこその坂本龍馬なのだ。


 薩摩藩と長州藩。『開明的』というイメージがあるからたぶん薩摩藩の方を買う人の方が多いだろう。長州藩の方はと言えば『尊皇攘夷』を掲げ関門海峡を通過する外国船にドッカンドッカン砲撃を加えたが、その後外国艦隊に砲撃され返され、挙げ句占領されてしまった藩(占領側が身の危険を感じたらしくすぐに退去した。ちなみに薩摩藩もドッカンドッカンやったが占領はされていない)、というイメージが強く、開明的とはまるで正反対。だから評価もイマイチ。


 けんど、『明治維新』ってのはこういうある意味目茶苦茶な人間がいなければ実現することなど永遠に無かった。テクノロジーの薩摩、イデオロギーの長州、この二つのうちどちらが欠けても明治維新は無かった。

 なんで長州藩がこんな過激なことになっているかと言えば、元はと言えば関ヶ原の戦いで西軍総大将に祭り上げられ東軍(徳川家康)に敗れ去った毛利輝元のせい、というのもあるが、原因の大部分は『吉田松陰』という一人の人。政府(江戸幕府)に逆らったとして犯罪者として処刑されその一生を終えるという、絶句するほどの人生。正になんのいいこともなく敗けたとしか言いようがない。


 近頃はネット配信でかつて公共放送で放送した昔の大河ドラマも簡単に見られるようになった。(「アテプレ〜ベ、オブリガ〜ド」もそれで覚えたもんだ)

 吉田松陰が登場する大河ドラマを見た。痺れた。全てはこれがきっかけだった。俳優の力恐るべし!


 見始めた当初は吉田松陰の妹が主人公になっていて『ヘンな大河ドラマだ』と思った。だけどほどなくその理由に合点がいった。


「我々は間部を暗殺すべし」(by大河ドラマの中の吉田松陰)

 うおおおおおーーーーーっっ! なんちゅう台詞ぜよ。大河ドラマ中で要人暗殺の謀議っ!(「間部」とは京都出向中の幕府老中である)


 吉田松陰、この人は絶対に主役にできない!

 幕府がアメリカの開国要求に屈し天皇の許可もとらず条約を結んでしまったことに対する憤り(ちなみにその時結ばれた条約が治外法権を認めさせられた上に関税自主権を放棄させられたことで悪名高い日米修好通商条約)が動機とはいえ、「暗殺すべし」という空前絶後のこの台詞!

 これ結局実行には到らなかったのだが、実行できなかった理由がぶっとんでいる。これは大河ドラマの中の台詞じゃないが、

「ちょっと京都にいる幕府老中を暗殺するから大砲と銃を貸してくれ」って自分が所属してる長州藩に言っちゃった!

 もはや『暗殺』なんていうレベルを通り越して『叛乱』だよこれ!


 こういう人だから安政の大獄で死罪になるのもある意味当然。この人の凄いところはこの本人がこの世からいなくなっても塾生がその思想を受け継いだってところ。

 塾生というのは吉田松陰その人が主宰していた松下村塾の塾生だ。


 実際京都でドンパチ(蛤御門の戦い)やっちゃう久坂玄瑞。

 それ以上にキてるのが高杉晋作。仲間を八十人集めて二千人の兵を擁する長州藩に戦いを挑み(功山寺挙兵)、勝っちゃった。

 こうして長州藩の実権を握ると、今度は長州征伐しにやって来た幕府軍と一戦交えることもためらわない。

 幕府軍十五万の実に四十三分の一、三千五百ほどの兵力しかないのに逆に蹴散らし、またも勝ってしまう(第二次長州征伐)。


 実はこの時長州藩が使っていた武器は坂本龍馬が流していたりして長州藩に少なからず貢献してるけどさすがに兵力だけはどうにもならない。「いや、その数で普通戦仕掛けないだろ」っていうレベルなのに、「戦やろうぜ!」って言って人も集めてしまう高杉晋作がいなかったら坂本龍馬だけいても時代は動かなかった。

 長州征伐軍(幕府軍)が返り討ちにあったことで「もしかして武力で幕府を倒せるんじゃ?」って思う人が増えちゃって、ここから倒幕から明治維新への流れが決定的なものになっていく。

 

 僕が痺れるのは正にココ。『その人は失敗しちゃった(死んじゃった)けど、後に何かが残った、その失敗は決して無駄じゃなかった』っていう。

 ホント松下村塾の塾生と来たら劇薬となって時代を大回転させちゃうのだ。これは知ってる人は知ってるし知らん人は知らんというどーでもいい知識だけんども、『松下村塾』は『慶應義塾』とほぼ同時期に始まっている〝塾〟だった。

 慶應義塾の原型は一八五八年に福沢諭吉が江戸鉄砲洲に創設した洋学塾であり、一方今に知られる松下村塾の原型は一八五六年に吉田松陰がこの塾を主宰し始めたところから始まっている。(実は松下村塾という名前の塾はそれ以前からあることはあったが主宰している人が吉田松陰の叔父さんだった)

 けんど、慶應義塾の塾生の方は毒にも薬にもならんかった。(スマンのう)


 この違いは主宰者のキャラの違いから来ていると考えて間違いない。

 福沢諭吉は『実学』『実学』言う人だった。しかし『実学』の中身が『実際に役立つ』だった。

 吉田松陰の方も実は『実学』『実学』言う人だった。しかし『実学』の中身が違っていた。吉田松陰の言う実学とは実践の学で「実際に行動してしまう」ことを意味していた。つまり『やっちゃえー!』ということ。


 つまり福沢諭吉は『実利』。吉田松陰は『実理』。

 読みは同じ『じつり』でも中身が違っていた。

 あまり学問に利益を求めすぎると時代を動かすような大きな事ができない人になるのかもしれない。その代わり小さい幸福は得られるかもしれないけど。


 このように吉田松陰とは、間違っても現役の首相が「私は松蔭先生を尊敬しています」などと言ってはいけないような人なのだ。


 きっと久坂玄瑞も高杉晋作もこう思ったに違いない。

『あの先生(吉田松陰)ならこれくらいのことやってたよな』と。


 トンデモない人が近くにいると感覚が麻痺してきてトンデモなく思い切ったことができるようになるのかもしれない。でなけりゃ医者の息子(久坂玄瑞)や良家のボンボン(高杉晋作)にあんなことができるわけがない。


 そこで我らが『しーずかちゃん』ぜよ。

 ワシゃ誤解しとったかもしれんぜよ。

 自分より弱い人間を支配し自分の言うことをよくきく人間にだけ偉そうなことを言う人間だと思っちょった。

 けんど、生徒会のお偉いさん相手にしても、誰を相手にしても態度が変わらんでトンデモないことを言えるとなりゃあこりゃあ凄い人ぜよ。

 昔サッカー部で、強いヤツに媚を売り、弱い僕には居丈高になる嫌なヤツがずいぶんたくさんいた。せめてそういうヤツらがいなければ環境はずいぶん変わったものになっていたはずだ。

 ワシゃあれ以来集団ちゅうもんが嫌いになったぜよ!

 そんなヤツらに比べれば『しーずかちゃん』は男より男らしいおなごぜよ。


 それに仲間に入りたそうなのに素直に入れんとこなんか、カワイイっちゅうか、やっぱりようけおもろい人ぜよ。

 ま、こんなこと口にすればきっと向こうが怒りゆう。絶対に口にはできんぜよ。

 けんど、ワシが守っちゃるき!

 ——僕にとって怪しい土佐弁は照れ隠しのカムフラージュだ。


 そういうトンデモない人の近くにいれば僕も変われるかもしれない。

 女子としては間違いなく徳大寺さんだけど、それとは別の存在感がしーずかちゃんにはある。それは『吉田松陰』好きに通じている気がしてしょうがない。



 そしてこれもまた誰にも言ってはいないが、高校生にもなってもまだ一人称を『僕』で通しているのには理由がある。

 吉田松陰の一人称が『僕』だったからだ。幕末長州藩内の流行語でもあるらしい。


 高校生にもなって『僕』などと自分のことを言えば『イケメンじゃないと似合わない』とか『小学生か』とか言われそうだが、実は『僕』ってのは『僕』だけで完結してない。『僕』というのは『君』とセットになっている。『君と僕』でワンセットだというのは知る人ぞ知る、だ。


 『君』とは君主とか主君の『君』で、『僕』というのはなんと『下僕』の『僕』だ。決してスカした言い方じゃないし、幼い一人称でもない。

 つまり話している相手を『君』と呼び、自分の事を『僕』と言う。これを互いに呼び合えば相手を尊重し自身を謙譲するという形になり、相手に敬意を払いつつも対等だという意味になる。つまりつまり吉田松陰の一人称が『僕』であったということは、塾生と称する者たちを集めて偉そうに上から『教えてやる』といった先生風を吹かさなかったということだ。


 こりゃ十二分に〝開明的〟と言えるんじゃないか、松下村塾は。


 怪しげな土佐弁は〝坂本龍馬かぶれ〟だな、と誰にでも解りやすいが、よもや『僕』に〝吉田松陰かぶれ〟という意図があるとはだーれも気づくまい。現にそうそうたる歴女の皆さんからは何とも言われてはいない。そのうち気づかれるかもしれないが————


                                 (了)

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