第三節 阿蘇見ての後の心に比べれば

第8話 大阿蘇や立野の道の遠ければ

「たっての、まるの、たのしみの」


 朝からひと仕事を済ませた後に切れていたブレーキランプを交換してもらったデミオは、鼻歌のように爽やかなエンジン音を響かせて東バイパスを進んでいく。

 束の間浴びた雨粒は間もなく乾き、僅かに開けた窓から吹き込む風で頭の微睡まどろみを吹き飛ばす。


「いやにご機嫌じゃないか」

「だってあにさん、調子の悪かった尻尾が治って丸野さんのところに行くんですよ。病院出てから、あにさんなら蕎麦屋にはしごするようなもんですよ。いいじゃないですか、この解放感と待ち受けるお楽しみが」


 朝早くから所要があって出かけたためにまだ疲れの残る私に対し、尻尾が生えていればこの子は大雨時のワイパー以上の勢いで振っていそうなほどである。

 苦笑しながら、被災の後に移転した市民病院の跡地を過ぎてゆく。


「それで、あにさんは今日、阿蘇に行くって言ってましたけど、北の方回るんですか、南の方を回るんですか」

「両方」

「えっ……」

「買い出しだから北も南も回る。半日でとなると、ちょっと忙しいけどな」


 先程までの楽し気な鼻歌が途切れてしまうほどに衝撃的であったのだろう。

 県庁の前を過ぎるまで、デミオは茫然と走り続けていた。


「いやあにさん、阿蘇と南阿蘇ですと、流石に半日で回るのは無理がありますよ。もっとゆっくりしましょ」

「分かってる、無理は承知だ。ただ、動画にする時間を考えると、今日が目いっぱいなんだ。だから少々駆け足でも行く。本当は最低でも二日がかりで回りたかったんだけど、それはまた今度だな」


 複雑な唸り声を上げるデミオも、保田窪を過ぎるころともなると納得してくれたようで、再び鼻歌を歌い始めている。


「それにしてもあにさん、ここしばらくジョイフルとかハンバーグ屋さんとかの閉店が相次いでましたけど、丸源ラーメンが今度はできるみたいですね」

「ああ。このご時世、新しくできる飲食店は何はともあれ祝福したくなるな」

あにさんだと、夜の街が特にそうですよね」


 からかうようなデミオの言葉に閉口して右車線へと入っていく。

 マクドナルドを左手に進んでいくと、その先に私にとっての阿蘇路が広がる。


「まだこの辺は阿蘇というには遠すぎますよ、あにさん」

「良いじゃないか。ここから先は夢路みたいなもんだ」


 天気は良くないものの、朝からの疲れが吹き飛んでしまうのは我ながら現金なものである。

 とてもデミオのことを笑ってはいられない。


「そういえば、ピースフル優祐悠にも久しく行ってないなぁ。また行かないと」

「そういえば、コロナウィルスで休業されてすぐに伺ってましたよね、あにさん」

「ああ。誹謗中傷もあったらしいけど、今度は応援する番だと思ったからな」


 ピースフル優祐悠は昨年の三月下旬にコロナウィルス感染者が長期滞在していたということで休業を余儀なくされた。

 まだ感染の拡大がどのようなものであるか分からぬ中で、恐怖に駆られたのかそれとも他の理由があったのかは分からぬものの、心無い誹謗中傷が多く寄せられたという。


あにさん、あの時は叫ぶようにして怒ってましたよね」

「ああ。誰が悪いのかなんてない中で、そういうことをするのだけは我慢がならないからな。それに」


 このピースフル優祐悠さんは熊本地震の被災者に、無料で浴場を解放した過去を持つ。

 私はその時に利用することはなかったのだが、そのような心意気を持った方々に向けられた悪意を私はどうしても我慢することができなかったのである。


「いつも通りのあにさん、ですね」

「また、行こうな」


 今日は微笑みかけるだけで通り過ぎたその威容を心に収めてから、私はデミオと何気ない掛け合いをしながら次第に深まる山を愉しむ。

 やがて周りから家屋が遠ざかっていき、大津の道の駅の前を過ぎてから本格的な山道へと差し掛かる。

 豊肥本線と並走するような形となりながら、やがておべんとうのヒライが見えてくると、私もデミオも思わず声を上げてしまう。


あにさん、来ましたよ、来ましたよ」

「気持ちは分かるが、落ち着け。しかし、流石に平日の昼間だとそこまで混雑してないな」

「ええ、ええ。あ、看板が見えましたから、指示器を出してください。入りますよ」


 一つ苦笑して、デミオに促されるままに初めの目的地である丸野石油へとたどり着いた。


 丸野石油は立野たてのは五七号線に面したガソリンスタンドで、親族で経営をされている。

 現在の店長はまだ若いものの、非常にしっかりとされている。

 これだけであれば普通のガソリンスタンドなのであるが、この先の道は四年半もの間閉ざされていた。

 それというのも熊本地震を受けて五七号線も阿蘇大橋も被災し、一般車両はこのガソリンスタンドを前に通行止めとされたからである。

 給油目的であれば入ることはできるのであるが、目の前まで来た車がUターンする姿を多く眺めることとなった。


 そこで現店長はSNSを通した活動を始め、私もそれに引き寄せられて度々訪ねるようになった。

 時には小粋な洒落で満ターンを詠い、時にはラップを歌い、時には南阿蘇の素晴らしい店を謳う。

 阿蘇へ続く道が開けた今も、阿蘇を広く知ってもらうべく仕事と並行して東奔西走するという姿には、自然と頭が下がってしまう。


「今日は店長、いらっしゃらなかったな」

「そうですね。でも、このお店でいいガソリンを阿蘇から降り注ぐ風を感じながらいただくのは、僕にはたまりませんねえ」

「いやに詩的じゃないか」

あにさんほどじゃありませんよ」


 穏やかになった曇り空は、まるで私たちをゆったりと迎えようとしているよう。

 社長の威勢のいい挨拶を受けて、私達はいよいよ新たな道を駆け上ろうとしていた。

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