#2

 修学旅行から帰ってから、私は、ことある毎に金澤先生の居る理科準備室を訪れた。授業の内容が分からない、理科室に忘れ物をしたと、なにかと用を作っては、足繁く金澤先生の元を訪れた。すべては私の恋心が成す行動であった。こんな恋、叶う筈がない。そう思いつつも、その横顔を見に行かずには心が落ち着かなかった。白衣の似合うごつり、とした細い骨格に、無精髭の目立つ顎。私の質問にノートを覗き込む分厚い銀縁眼鏡。それを見るだけで、満足だった。

 だが、そんな私のわかりやすい態度に、何が秘められているかなど、先生はとっくにお見通しだったのだろう。今から思えば。


 高3になり、受験生となってからも、模試の問題が分からないとか、なんやらと理由を付けては、先生に教えを請いに行った。

 そして、冬休みの補習授業のときだった。授業の終わり、先生はさりげなく、私の傍に来て、私の耳元で囁いた。吐息が触れる距離で、私ひとりにしか聞こえぬ声音で。


「松永、悪いが、ちょっと資料の整理を手伝って欲しいんだが」


 胸がドキリとした。予感があった。

 準備室で資料をふたりきりで整理し、その終わり、どちらかとなく、赤らんだ顔と顔が近づいた。先生の白衣と、私の制服の布地が、かさり、と触れあった。

 外からは木枯らしが唸る音が聞こえてくる。

「なあ、松永。お前……好きな人居るか?」

「……居ますっ……」

「目の前にかい?」

 私は頷く。

 そして私たちは、十数秒の躊躇いの後、唇を重ねた。先生の無精髭がざらり、ざらり、と私の頬を刺す。


 雪の中で、恋に落ちてから、ちょうど一年が経っていた。



 あの冬休みから3ヶ月。

 私はその間に、第二志望の大学にどうにか受かり、卒業式を無事、迎えることができた。そして、先生と学校外で会うのは、今日が初めてである。

 その先生は、いま、私の前で夢中でメロンと苺を貪っている。先生が新宿で行きたかった場所は、タカノフルーツパーラーのフルーツバイキングだったのだ。先生は、こんもりと皿に盛られた果物を前にご満悦だ。


「いや、ここ、女性同伴じゃないと男は入れないだろう? だから、今度、彼女ができたら、デートはここにしようと踏んでいたんだ」

 ひとしきり果物を食べ終わると、フルーツティーを飲む私の前で、先生は満足そうにそう述べてみせた。思わず私は言った。

「先生、ずっとずっと、そんなこと思っていたんですか?」

「いや……ずっと、というわけではないが、怜奈と付き合いだしてから、それを思い出してな」

 先生は無精髭に付いた果汁を紙ナプキンで拭いながら、こともなげにそう語を継いだ。そしてその言葉の中には、またしても、さらりと私の下の名前が入っている。


「……今日は、怜奈、って呼ぶんですね」

「今日からは、そう呼ぼうと思っていたんだが、駄目か?」

「駄目じゃないけど……なんで今日から?」

「晴れて4月になって、教師と生徒でなくなったら、呼びたいと思っていたんだよ。ずっと。だから今日……4月2日には逢おう、って思ったんだ」

 そして先生はホットコーヒーを啜ると、真面目くさって、こう付け加えた。

「昨日にしなかったのは、エイプリルフールだと、なんか嘘っぽくて嫌だからだ」

 その様子に私は思わず笑った。

「先生って、結構、験を担ぐ人なんですね。意外……!」

 すると先生は、真面目くさった顔のまま言葉を繋ぐ。

「怜奈、先生、って呼ぶのはもう止めないか。もうそういう関係じゃ、ないし」

「えっと……先生、下の名前、啓……ですっけ?」

 私はそれから戸惑い、フルーツティーの中に視線を落とした。図らずも先生を下の名前で呼んでしまったのが、どうしようもなく恥ずかしかった。数十秒の間を置いて、私は呟いた。

「うーん……、やっぱり、先生は私にとって先生、で……いきなりは……」

「難しいか。そりゃな、そうだわな」

「すみません」

「……おいおいな」


 先生は気を悪くした様子もなく、頷いて、冷めかかったコーヒーをまたぐいっ、と啜る。そしてそれから、銀縁眼鏡のなかの目を細くして、にやりと笑った。

「まぁ、いいんだ。俺は怜奈と付き合えて嬉しいよ。なんせ、私をスキーに連れていって、と言われることは、絶対にないからな」

「……それが、先生の彼女の、絶対条件ですか?」

 私は、ちょっとむくれて、そう聞き返す。

「ああ。……でも勿論、それだけじゃ、ないぞ。怜奈には怜奈の、いい面がもっとある」

 先生は照れもなくそう言うと、皿を持って席を立つ。そして、フルーツの山の方へ、何度目かの歩を向けた。


「先生……まだ食べるんですかぁ? お腹壊しても知りませんよ!」

 私は半ば呆れそう叫んだが、内心はそんな先生が、かわいらしくて、愛しくて、仕方なかった。そんな私に、先生は振り向かぬまま、皿を持った手をひらひら振ってみせる。私はまた、その先生の仕草に、笑った。


 4月2日。語呂は悪いけど、良い日だな、と私は思った。きっと、私は、この日になると一生思い出すだろう。新宿アルタ前の人混みを、むせかえる甘酸っぱい果物の匂いを、そして先生の笑い顔を。


 ……願わくば、それを思い出す私の傍に、この人が、長く居てくれますように。

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四月の二日、フルーツのかほり つるよしの @tsuru_yoshino

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