5  マンホール

 ぬるい窓に耳を当て、ケイトは聴覚を研ぎ澄ませている。雨は聞こえない。雷も聞こえない。月の影が見えないので、空は雲で覆われてはいるようだ。天気予報によると、今夜から朝方にかけて降り出すとのこと。



――――「あなたのことみんな心配しているのよ」

――――「困ったときはちゃんと頼ってね。お父さんもお兄ちゃんも、私だってケイトのこと大好きなんだから」



 数日前の、親との電話を思い出していた。母だったのだが、たとえ父でも兄でも、言うことは大体同じだ。

 常日頃の慢性的な苛立ちの原因だった。

 大した成果のない末っ子の自分のことを、信用していないのだ。だからそんな心配する連絡ばかりしかよこさない。


 ため息をつくと、ケイトは一瞬泣きそうになった。ちっとも親を喜ばせられない。だから、何かを成し遂げた実績を今から作るのだ。



 冷蔵庫の前に、大きなリュックサックが口を開いて鎮座している。その時が来たら、ダンの死体を飲み込ませるつもりだ。


「にしても、レオのやつ……」


 自首する、などととんでもないことを言いだしたが、警察に動きは無いようだ。あんなことを言ったものの、やはり勇気が出なくて沈黙しているのだろうか。


 その時、雨音が遠くから迫ってきた。


 ハッとしたケイトは、もう一度レオへ電話をかける。警察が動いていないということは、自首はしていない。もしかしたら今、このマンションの周りをうろちょろしているのかもしれない。とにかく現状を知りたかった。

 だが、二十回ほどコールを鳴らしても、彼が出る気配はない。



――――パタッ、パタッ! パタタッ!



 雨粒が窓を叩く。

 不意に、

 ――レオはこの世にいない――

 ケイトの胸の中に、そう言う結論が導き出された。

 真っ先に、呆れの感情が来た。続いて、苛立ちと使命感に体が熱くなる。

 一人でやるしかない。

 そう思うと、雨の音が、自分を鼓舞しているように聞こえた。



 音が激しくなるにつれ、ケイトの興奮は高まる。冷たい固体のダンを、リュックの口へ滑り込ませる。底にクッションを詰め込んでいたため音は抑えられた。

 重くなったリュックを、ケイトは慎重に背負う。レオは軽々と抱えていたが、普通に重い。手足が垂れていないだけましだった。


 最上階住人専用のエレベーターがあるので移動は楽だ。

 エントランスの自動ドアが開くと、雨の音が迫ってきて、ケイトをあっという間に包んだ。


「……激しいな」


 ケイトは口をにやつかせた。

 水たまりがすでにできているようで、とてもうるさい。傘をさすと、いい音が弾け、ケイトの手に振動を与える。

 濡れた壁を手で伝い、マンションから程近い裏路地へ回る。


 懐中電灯の光を最大にして、マンホールを探した。水たまりが跳ねて見えづらいが、白く照らされる地面の中に、錆びた色の丸を見つけ、ケイトは傍に膝をつく。

 懐中電灯を適当な位置にセッティングし、リュックを背中から下ろす。


 マンホールの淵に触って、引っかかる部分を探す。窪みを見つけると、指先に力を入れて持ち上げる。雨音に交じって、クワンクワンと回る重い金属音。


 リュックに触ると、チャックを引っ張り、冷えた頭髪に触れた。リュックごと落とそうかとも考えたが、そうすると死体を保護してしまって形を保ってしまうかもしれない。ショルダーストラップを持って、慎重にリュックを逆さにする、重心が動く、軽くなる、



 雷が光る



――――ドぽッ



 雨の喧騒に混じって、下水が氷を飲み込んだ気色悪い音が聞こえた。

 ケイトの全身がビリビリと痺れた。開放感が爽快すぎて心臓が痛い。

 達成感に浸りかけたが、見られたらまずい。

 親はどう思うのだろう。ミッションを達成したことをほめてくれるだろうか。そもそも、人を殺した時点で信用は地に落ちているのかもしれない。

 でも、やり遂げたんだ。

 ケイトはマンホール蓋を戻し、リュックを背負う。



「大丈夫ですか?」



 雨音を切り裂く声。

 ケイトは跳ね上がった。

 懐中電灯を掴みそちらへ向ける。一人、誰かがいる。

 見られた!? どう!??


「何かお探しですか?」


 男の声だ。言っていることからして、どうやら見られてはいないようだ。懐中電灯を持って這いつくばるケイトの姿を見てそう考えたのだろう。


「あ、ぁ……大丈夫ですよ」


 パチャン、パチャン――――足音が近づく。


「ほら、傘が」


 傘を取られたらしく、雨をはじくぽつぽつ音が上に上った。


「びしょ濡れじゃないですか、全然大丈夫じゃない、ほらこっち」


 男に手を引っ張られ立ち上がるケイト。

 そのまま手を引かれて、マンションのエントランス前まで戻った。大きな光によって、ようやく視界が開ける。


 目蓋を拭くと、男の姿が滲みつつ詳細になる。

 茶色いズボンに濡れて透けたワイシャツで、「参りましたねぇ」と困り顔で笑っている。自分より一つ二つくらい年上。手にはケイトの傘。全身がぐっしょりと濡れている。

 男の濡れそぼつ暗い色の髪から、ポタポタと肩へ雫が落ちた。


「……ありがとうございます、あの、さっきは、眼鏡を落としたんです」


 ケイトがそう言うと、男は髪を掻き上げ、「あらま」と、皿のように薄くなった瞳を外へ向けた。


「もう、あきらめたほうが良くないですか?」

「はい……明日見てみます」


 ケイトはまつ毛に乗った雫を払うと、指に強い痛みを覚えた。爪が剥がれかけているらしい。

 男はスマホを取り出して弄り始めた。ライトが光っている、道が暗かったから使っていたのだろう。男も目が悪いのかもしれない。

 何やら難しそうな顔をしている。


「俺も待ち合わせしていたんですけどね、いま見つけたので」


 目を丸く開き「この傘お借りしていいですか」と男が訊いてきたので、「ええ」とケイトは承諾する。

 男の姿は、すぐに闇へ飲まれた。水たまりに突っ込まれる靴音と、傘の音が遠ざかっていくのが聞こえる。右に行ったようだ。


 ケイトは安堵のため息を吐く。ミッションコンプリート。親に報告しよう、としたが思いとどまる。犯罪内容をベラベラ喋るなど自殺行為だ。ケイト自身と、レオの二人にとどめておけば、完全犯罪とはいかないまでも、迷宮入りになるだろう。


 ケイトはエントランスに入ると、濡れた全身を包む冷気に身を震わせた。


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