1-9 弟のぬくもりが欲しかった

 通話を終えると、ケイトはすぐにシャワーを浴びてベッドに入った。

 死体が誕生したベッドだが、特注のものなのでこれでないと眠れないのだ。


 匂い。記憶。存在感。


 ケイトはまどろみながら、ダンとの記憶を遡っていた。

 ある夜、倦怠感から心地良く眠っていたケイトの耳に、ぼそりぼそりと、何かが聞こえてきた。


「……じでありますように。神様、お願いします。レオくんを助けてください」


 やや上から誰かに向かって話している声。真っ暗で何も見えないが、おそらく、ダンは上半身を起こして、何かを祈っている。

 レオというのは確か、ダンの学生時代のお相手だったか。今は海外の戦地に派遣されている、とニュースを見て言っていた。心配で夜も眠れないとでも言うのか。


「元カレのことか?」


 ケイトが声をかけると、ダンの体は大きくビクついた。祈りが止まったうえ、その振動が伝わってきたのでわかる。

 傍のカーテンをめくってみたが、部屋は明るくならない。


「まだ夜です。で、電気つけますか?」


 声の感じから、こちらを振り返っているようだ。その顔は引きつっているのだろうと容易に想像がつく。


「いいや」


 ケイトも体を起こした。彼の背中をぺたぺた触って場所を確認する。


「ごめんなさい、起こしましたよね」

「俺がいる横で、そういうことができるんだな」


 思いやりがあるのか、無神経なのか、ケイトは腹立たしかった。

 ダンは困ったように「う」と呻くと、「でも、心配で……」と弁解する。

 心底呆れて、ため息をつくケイト。


「そんなだから振られたんだろ」


 言葉に詰まったのがわかる。黙っている。

 沈黙が続いたかと思いきや、すり、と擦れる音が聞こえた。水っぽい音。「うぐ」と喉で留まる声。擦れる音が、涙を拭っているものだということを察する。

 ふつふつと、苛立ちが湧き上がってきた。


「うざ」


 ケイトは毛布から素足を出し、ダンの胴体を目掛けどたどた蹴る。足裏に、温かい背中が触れた。涙をこらえるのに精いっぱいだった体はいとも簡単に落ちた。

 べとっ

 肌がフローリングに打ち付けられる音。ダンの吐息が震えている。寒いのか嗚咽を堪えているのか。


 ケイトはふて寝を決め込もうとしたが、少しして彼の鼻をすする音が聞こえ始め、やはりかわいそうに思えてきた。


 ケイトは起き上がり、手探りで冷えた肌を探し当てると抱いて引っ張り上げた。ふわふわとした癖毛の頭を撫でてやると、遠慮がちに腕を回してくる。決して良い扱いをされていないのに、ダンはケイトのことを愛そうとしていた。クリスチャンの親の、素晴らしい教育の賜物なのだろう。


 こんな感じの、弱い弟がいればよかったのに――――ケイトは力を込めた。

 そうすれば、少しはコンプレックスが薄まり、自分の存在が矮小にならずに済む。兄の引き立て役にならずに済む。だから、自分より明らかに劣っている存在が欲しかった。せめて「面倒見がいい次男」という風評が欲しかった。



 ケイトはダンの温かみがほしくなった。しかし、それはもう決して戻ることはないのだ。



 彼が温かかった最後。このベッドの上。二人がかりでいじめていたら、レオの馬鹿がうっかり加減を誤って絞め殺してしまった。心肺蘇生もしたが駄目だった。


 なぜそんなことになったか。


 その日、すでに退社していたケイトが、忘れ物をして裏口から会社に戻ると、何やら言い争いが聞こえた。外が明るかったため、すぐには室内の明るさに慣れることができない。


 よく見えないが、ダンの声と、別の男の声。何とか目を凝らしていると、小柄な影が大きな影に詰め寄られている。面白半分で陰から覗いて聞いていた。

 「レオ」と呼びかけるダンの声。そうか、彼が元カレのレオか、とケイトは察した。そのレオの口から、「浮気者」「懲りずに」という単語が飛び出す。真面目そうなダンのほうに否があったとは、驚いた。


 それで耳を澄ませていると、どうやら暴行が始まったようだ。小さな悲鳴と、ぶつかる音、床に倒れる音、「痛い」、荒い息遣い。


 それはアウトだ。


 やっと目が慣れてきたので、ケイトはさすがに止めに入ろうとする。しかし、ダンがいじめられているのは、見ていて気分がよかった。

 それに当の本人は、体格差もあるのだろうが、その抵抗は微々たるもののようだ。殴りもしないし、本気で嫌がっているようには思えない。元彼が、本当に好きなのだろう。乱暴されることを望んでいるのだろう。


 すると、元彼のレオはケイトに気付いた。ダンはくぐもった声で名前を呼んだ。ケイトは自分が今彼であることを説明すると、二人の間に仲間意識が芽生えたのだ。

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