人魚葬

尾八原ジュージ

人魚葬

 肌寒い雨の夜、あたしは海岸で人魚を拾った。当時は尾びれを除くと体長70センチ、入れると1メートルくらいのまだ小さな子だった。

 赤ちゃんみたいなちっちゃな上半身に魚の下半身がくっついていて、光が当たると複雑な銀色にきらきら光る。顔はちょうどあたしと同い年くらい、つまり16歳くらいの、お人形さんみたいな美少女だ。この美形と赤ちゃんの上半身とはまるでミスマッチだけど、アンバランスな人魚は、お城みたいなあたしの別荘によく似合う。

 パパが昔4メートルのシュモクザメを飼っていた水槽で、人魚は優雅に泳いだ。栗色の長い髪が水の中で踊るようになびき、時折尾びれが水面に躍り出てちゃぷんと音をたてる。

 人魚の頭はあまりよくないと聞くけれど、この子はあたしのことは好きらしい。あたしが水槽を置いている部屋に入ると、嬉しそうにこちらに向かって泳いでくる。水槽に触れると、ちっちゃな手でガラス越しにあたしの手に触れてくる。死にかけていたところを助けてあげたから、あたしのことを恩人だと思ってくれているのかもしれない。

 透明な壁の向こうにある血の気の薄いピンクの唇を見ていると、あたしは人魚ちゃんをぎゅっと抱きしめて、キスをしたくてたまらなくなる。ただ本当にそれをやると、人魚の体温が上がって病気になることがあるそうなので、ぐっとこらえることにしていた。


 拾ってきた当初は、ぐったりとした人魚を前にとにかく慌てた。なにせ人魚ちゃんときたら口を利かないので、どこが痛いの、誰に連絡してくれだのという情報が得られない。岩に当たったのか、人間でいえば右太股にあたる部分がざっくりと切れて、ピンク色の魚肉と白い骨がそこから覗いていた。

 泡を食ったあたしは主治医に電話をかけ、主治医は獣医につないでくれ、獣医は人魚に詳しい学者につないでくれた。

『お嬢さんの家に、人魚が入るような水槽はありますか』

「どうしよう、大きいのしかないんですけど。4メートルのシュモクザメを飼ってたやつしか」

『大きい分には大丈夫ですから。落ち着いて』

 使用人を何人も呼んで大きな窓のある部屋に水槽を移動させ、海水と同じ濃度の塩水で満たして人魚を入れた。人魚はゆっくりゆっくりと沈んでいき、水槽の底にトン、と横になった。閉じられた瞼の長い睫毛が、青白い肌に深い影を落としていた。

『そしたら新鮮な魚をね、何でもいいですから腹を裂いてやって。その大きさでしたら普通のスーパーで売ってるようなアジね、あれくらいのを5匹くらいでいいでしょう。かならず腹を裂いてやってくださいね。そしたら一晩静かに放っておけばもう大丈夫ですから』

 あたしは言われたとおりに魚をやって、ずっと眺めていたい気持ちを抑えながら部屋を出て、自分の寝室に閉じこもった。ベッドの上に転がりながら、こんなに心臓がドキドキするのは病気のせいかしらと思った。

 あたしは「もしも明日の朝人魚が死んでいたら、自分で料理して食べてしまおう」と決めた。あの子の亡骸を冷たい土に埋めてしまうのも、暗くて広い海に返してしまうのも、どちらも絶対に嫌だった。「人魚 レシピ」で検索したがあまりおいしそうなものはなかったので、コックに聞いてみようと思った。肉はきれいに食べて、骨はとっておいて飾りにしよう。

 人魚の骨で作ったリースのことを考えている間に、いつの間にかあたしは眠ってしまった。そして、どこまでも青い青い海の中で、人魚を抱っこしてゆらゆらと泳ぐ夢を見た。現実のあたしはちっとも泳げないのに、夢の中では海月のように自由に揺れていた。

 翌朝見てみると、水槽に入れた魚はきれいさっぱり消えてしまって、人魚だけが優雅に水の中を泳いでいた。昨日ぱっくり開いていたはずの傷はもうほとんどふさがりかけていて、あたしは昨日大慌てしたのがばかばかしいやらほっとするやら、正直人魚を食べ損ねたのが少し残念な気もした。


 それから人魚はずっとあたしの別荘にいる。あたしも療養のためと言って本宅に帰らず、学校にも行かずに人魚のそばで暮らしている。机もベッドもこの部屋に運んでしまって、ほとんど外に出ることもなくなり、いつの間にかあたしの肌もこの子のように青白くなってきた。

 人魚はだんだん大きくなった。今では全長2メートルは超えているだろう。美少女の顔に赤ちゃんの上半身なのは変わらないけれど、下半身の魚の部分がずいぶん伸びて太くなった。

 天気のいい夜には大きな窓から月光が差し込み、人魚は一際美しく水中を泳ぎ回る。銀色の鱗と、巨大な蝶々のような尾びれがきらきらと輝く。心臓がきりきりと痛んで寝苦しい夜、あたしはベッドの上でいつまでも人魚が泳ぐのを眺めている。

 人魚の口には尖った小さな歯がみっしりと生えていて、その歯で魚を骨ごとばりばり食べてしまう。あの小さな口で、1メートルくらいの大きなブリを丸ごとぺろりと平らげる。そして一度存分に食事をすると、その後3日くらいは何も食べない。

 人魚の水槽の水はまったく濁らず、魚から流れた血は初め赤い霧のように水中に広がるものの、どんどん薄くなっていってしまう。どうやら、人魚が肌から血液を吸収しているためらしい。血も肉も骨も、人魚が食べたものはすべて透明な水になってしまうみたいだった。


 六月にあたしの誕生日があったので、本宅からねえさんがやってきた。あたしは大好きなねえさんに、大事な人魚を見せてあげた。

 ねえさんは人魚をまじまじと見つめて、「洋子さんに似てるわね」と言った。

「あたし、こんなきれいな顔じゃないわ」

「そんなことないわ。似てるわよ。なんだか私よりも姉妹みたい」

 確かに健康的で溌剌としたねえさんより、あたしはこの青白い肌の人魚に似ているかもしれない。それはちっとも嫌なことではなく、むしろあたしを喜ばせた。

 人魚をうっとりと眺めながら、ねえさんはあたしに尋ねた。

「洋子さん、この子どうするの?」

「どうって?」

「この子を食べるつもりなのかしら、と思って」

「最初に拾ってきたとき、このまま死んじゃったら食べようと思ってたけど、今はそんな気がしないわ」

「ああ、そうなの」

 ねえさんは少し言いにくそうに「人魚が薬になるなんて迷信だものね」と呟いた。そう、人魚は薬にはならない。あたしの病気も治せない。

 少しずつ少しずつ心臓が石になっていく、あたしの病気。

「それにね、ねえさん。そんなにおいしくないらしいわよ、人魚って」

「確かに、おいしそうではないわね。愛玩用の生き物ってそんなものよ」

 そうね、とあたしは相槌をうった。

 ねえさんは誕生日のお祝いに、あたしに真珠の首飾りをくれた。その夜、ベッドの上で大粒の真珠を眺めながら、これはあたしよりも人魚に似合うと思った。人魚の首にかけても平気かしらと思ってネットで調べてみたら、「誤飲のおそれがあるのでやめましょう。人魚は金属の類を消化できません」という記事を見つけた。それもそうだと思って、あきらめることにした。

 空には大きな満月が浮かんでいた。人魚は月光が好きだから、こんな夜には一番元気に泳ぐ。水槽の中をうねるように泳ぐ人魚を見ていると、あたしはそう遠くないところまで迫っているらしいあたし自身の死を、怖れることすら忘れてしまう。


 夏の終わりのある夜、あたしは胸に激しい痛みを感じて目を覚ました。これまでに感じたこともないような強い痛みが、ギリギリと心臓を締め上げていた。呼吸がどんどん浅くなっていく。あたしはボロボロ涙を流しながら、必死に枕元のブザーを押した。

 暗い部屋の中、水槽の中を漂う人魚の黒いシルエットだけが浮かんで見えた。

「人魚ちゃん、痛いよぅ」

 あたしは水槽の方に手を伸ばした。人魚は紅葉のような両手をぺったりとガラスにつけ、顔をこちらに向けている。あたしを心配しているのだろうか。それとも餌にするために、本能的に弱った生き物に注目しているのだろうか。

 住み込みの看護師が部屋に駆けつけるまで、あたしは人魚の影を見つめていた。こんな日に限って空が曇っているなんて、ついていない。こんな夜は人魚の顔が見えない。美しい髪も白い肌も鱗の輝きもよくわからない。

 やがて発作が収まったあたしにせっつかれ、主治医はしぶしぶあたしの病状を、正直に教えてくれた。これからはこの痛みがどんどん強く、どんどん頻繁になっていくのだという。心臓が動かなくなってあたしが死んでしまうまで、あたしは痛みに怯えて生きていかなければならないのだ。まだ幾ばくか残された自分の余命を、あたしは震えるほど怖れた。


 次の晴れた満月の夜までに、あたしは三度の発作に襲われ、そのたびにひどい苦しみを味わった。痛みのない時間は、次の痛みを怖れて泣いていた。発作のたびに激痛はその強さを増していった。

 だからその夜は、待ちに待った夜だった。

 クレーターまで見えそうなほど大きくて明るい、黄色い月が出ていた。人魚は今まで見たことがないほど目まぐるしい勢いで泳ぎ、水槽越しにあたしと手をつないで愛らしい唇をぱくぱくと動かした。それは本当に、あたしに何かを語りかけているようだった。

 きらきら光る月夜の人魚は、あたしにすべてを忘れさせてくれる。死の恐怖も痛みも、その昔知らない国で起こった出来事のように遠い、遠いものになる。

 あたしは水槽に梯子をかけ、身に着けていたものをすべて脱ぎ捨てると、ナイフでお腹を刺してそのまま縦に切り裂いた。痛かったけれど、病気の発作ほどではなかった。内臓がこぼれないように下腹を押さえながら、あたしは一歩一歩梯子を上った。

 人魚は何かを期待するような顔で、あたしを見上げていた。天気予報をチェックして食事のタイミングを調整していたから、今夜はお腹が減っているはずだ。梯子を上り切ったあたしは、頭のてっぺんから水槽の中に落ちた。水しぶきが月明かりを反射して、宝石のように輝いた。

 血の霧を噴き上げながら水の中に沈んでいくあたしを、ちっちゃな、ふっくらした腕が抱き留めた。目の前に人魚の顔があった。もうガラス越しではないあたしの人魚。短い腕に抱かれて、あたしたちの顔はもうくっつきそうなほど近かった。

(ちゃんとあたしを食べてね、人魚ちゃん)

 動かしたあたしの唇から泡粒が漏れ、人魚の髪を飾った。

(あたしを食べて、人魚ちゃんの周りにある透明な水にしてね)

 あたしは人魚の唇にキスをした。人魚はふっと顔を離すと口元をほころばせ、小さな口にびっしり並んだ真珠のような牙で、あたしの喉元にかじりついた。


 ずうっと一緒だよ。


 あたしは人魚にそう囁いた。

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人魚葬 尾八原ジュージ @zi-yon

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