代弁者しかいない世界

和泉茉樹

代弁者しかいない世界

     ◆


 東南アジア某国。

 軍部が長く主導権を握っていたものが、民主派の台頭により、選挙を経て政治体制が変わった。そのはずが数年ののち、軍部は暴力という形で再び主導権を狙っている。

 そんなことが世界中にリアルタイムで中継され、一部の人間には危機感を与え、一部の人間のうちでは怒りへの発火点となり、そして大半の人間は、夕食どきの雑談のテーマにしかしない。

 そういう世界で、俺がやっているのは、いわば戦争の代理人だった。

 ただし、戦場に立つことはない。

「あなたのやることはわかりますが」

 どこか浅黒い肌をした黒髪の痩せた女が、俺を疑り深そうに見てそう言ったのは、一ヶ月前だった。

「実際に人が死んでいるんですよ、えっと……キリマさん」

 キリマ・ナギ。俺が適当に作った偽名は、有名なライトノベルの登場人物そのままだった。

 俺は偽名ですら伏せるつもりで、要はこの時、対面している五人の男女との会話に必要だから作った偽名だった。

 五人は全員が東南アジアのとある国の出身で、今はここ、日本の東京で生活している。

 母国で虐殺一歩手前の市民を助けるという、立派な思想を持っているが、思想だけで手段のない人々。

 戦場と化した市街で命を落とすものの姿に悲鳴をあげ、涙を流しながら、銃声も断末魔も聞くことのできない人々。

 一人一人が声をあげれば、やがて大きな声になると信じている人々。

 俺はそういう人々の代理をする人間だった。

「ここにいて、何ができる?」

 俺がそういうと、女の一人が少しあやふやな日本語で言った。

「何もできませんですけど、でも、何かはしないといけないです」

「しないといけない。それはわかる。で、何ができる」

 女は顔を伏せ、その顔には悲痛なものが多分に含まれているのは明白だった。

 何もできない。

 距離がある。現地にいない。声も届かない。

 つまり、その隔絶を理由に、何もできないと自分を納得させて、何もしていない。

 しかしそれは否定できない。批判もできない。

 誰もはるばる何千キロの彼方に、正義の剣を振り下ろすことはできない。

 ただし、俺の持っている剣は、どこまでも届く。

「とにかく、一ヶ月が勝負だ」

 話を先に進めると、五人ともが真面目な顔でこちらを見た。

「徹底的に世論に訴える。正確には世論ではない。民衆ですらない。相手取るのは、世界、だ」

 それから俺は手短にこれからやることを伝えた。

 一ヶ月というのは、準備期間のようで、実際には手法はできつつある。

 欠けているのは、当事者だった。

 俺、名前すら明かせない誰かもわからない俺が、声を上げたところで、誰も見向きもしない。

 声を上げる人間には、名前と顔と、肌の色と髪の色と、民族と国と宗教と、土地と先祖が必要だ。

 一ヶ月の間で、俺はそんな小さくて巨大な存在の声を、響かせる。

 俺は水面に投げかけられる石ではない。石は、目の前にいる五人であり、その背後にいる彼らの家族や仲間であり、彼らの思想であり、国家であり民族だ。

 俺にできることは、わずかに波を大きくすること。

 そうして大きくなった波が、全てを押し流していくのを、俺は知っている。

「とにかく、情報だ。情報が全てを決する。では、始めよう」

 それから俺は八方手を尽くして、一つの国の一つの思想を、巨大な波に仕立て上げた。

 民衆が大通りを歩く。拡声器の音。威嚇射撃。走り出す人々。発煙弾と催涙弾の煙。悲鳴。本物の銃声。さらなる悲鳴。

 隠し撮りされる暴力の場面。

 倒れた誰かを、引きずっていく誰か。

 死者の数が右肩上がりになるグラフ。

 悲惨な光景と、残酷な数字。

 俺はそれらの情報に接した人間から、ささやかな善意を引きずり出す。

 ここをクリックしてください。それは一度、引き金を引くことです。善意の、正義の引き金です。

 この映像を広めてください、それは非道を行うものの上に爆薬を降らせることです。それは人が死なない、むしろ人の死を食い止める爆薬です。

 我々に寄付をしてください。それは我々に食料と弾薬を補給することです。我々が戦い抜くために、正義の戦いを続けるのに必要な物資です。

 英語で、フランス語で、ドイツ語で、ロシア語で、日本語で、中国語で、韓国語で、ありとあらゆる言語で、この広告はインターネット上を走り抜けた。

 今では誰もが知っている。

 小さな国の、小さいかもしれない悲劇。

 それは全世界の、身近で、巨大な悲劇に塗り替えられていく。

 その国の情報インフラは、世界中からの大規模アクセスで麻痺し始める。

 先進国で、国連で、連日の議題になる。もはやどこの国のメディアも、あの国で行われていることを見過ごしたりしない。

 無関係なはずの人々が、僅かな金を送金する。百万人、一千万人、さらに増える。我々の活動資金は潤沢を通り越していく。

 暴力による支配は、こうして民主主義という皮を被った、扇動された善意で修正されていった。

 世界の誰もが間違っていると彼らをなじる。

 世界中が、あの小さな国の軍人を、兵士を、人でなしと指差す。

 正義と悪は、いともあっさりと塗り分けられる。

 間違っているのは、いったい誰か、誰も考えなくなる。

 自分は正しいことをしていると思い込む人々。

 あなたは正しい。あなたは悲劇を食い止めた。あなたは正義を標榜している。

 一ヶ月の間に、世界は少しだけいい方へ転がったようだ。

 あの小さな国から暴力は消えてなくなり、正常な世界が取り戻された。

 あの五人の男女は、事前に決められていた対価を笑顔で支払い、涙さえ流した。感謝の言葉とともに。

 その報酬で、本当の仕事を始めることができる。

 報酬は金だけではない。

 世界中が知ったのだ。

 自分が世界を変えられることを。

 静かな世界、お互いに正義を押し付け合い、監視し合う世界に、一石を投じることがやっとできた。

 全ては整ったのだ。

 小さな波紋は、些細なことだ。

 政治家を否定しよう。国の行方末は、あなた方が決めるべきだ。

 私はあなた方、民衆を鼓舞するために、政治家を断罪しよう。

 あなたが声をあげれば、世界はより良くなる。

 アジアのその国から、動きは始まった。

 政治不信が高まり、議会選挙の結果、政権交代が起こる。

 その動き、民衆による武力を用いない革命が、奇妙に力を持ち始めた。

 ある国では抑え込まれていた民主主義が息を吹き返し、国家は混乱をきたし、統一を欠き始める。

 ある国では、二大政党制のはずが、どちらにも属さないマイノリティーが巨大な勢力となり、国家の形に変質が起こり始める。

 少数民族がどこからか資金援助を受け、独立運動が始まる。

 戦争だ。しかし、戦争が正しいのか間違っているのかは、もはや議論されない。

 戦争しているはずの両者は平等ではない。

 正しい戦争を行うものと、間違った戦争を行うもの。

 誰が正しいと間違いを決めているか、誰にも見えない。

 しかし正義と悪はある。

 どこかに。見えないところ、観念の奥、概念の底に。

 誰かがどこかで声を上げる。

 間違っている!

 正しいことをするべきだ!

 その声に大勢が賛同する。誰もが、自分たちの声がどこかに届くことを、もう十分に知っている。知りすぎるほどに。

 ある時、俺のところへ記者がやってきた。

 ほとんど閲覧数がない、インターネット上のサイトの記者だった。

「あなたが始まりだと噂されていますが」

 その女性は真面目な顔でこちらを見ていた。

 場所は山間にある小さな家で、別荘地と呼んでもいいが、季節は冬間近で人気は少ない。冬になると大雪が降り、別荘を持っているような連中には酷なのだ。

 記者の女はボイスレコーダーを回し、手元には小さな手帳とペンがある。

「始まりというと?」

 こちらから確認すると、それは、とその女は言い淀んだ。

「どこから始まったと思いますか?」

 こちらからそう確認してやると、女記者は低い声で唸り、「一年前です」といった。

「一年前、あなたはある国の民主化運動の活動家たちに、助力しましたよね」

 意外に調べることは調べたようだ。

「民主化運動は正しかったはずだが?」

「ええ、あれは正しかった。間違いなく、正義です」

「なら、何か問題があるのか?」

「いえ、問題があるのは、手法です」

 ほう、と俺が声を漏らすと、女記者が勢い込んだ。

「民衆を扇動することが、あなたの仕掛けですよね? 情報を駆使して、人々の善意を刺激して、その善意を上手く誘導する。そうすれば、世界を変えることができる」

「そんなには上手くいかないな」

「しかしあなたにはそれができた。そのはずです」

「どのようにして?」

 俺がそうやり返すと、女記者は手元の手帳に視線を落とし、きっと顔を上げてこちらを睨んだ。

「善意です。全てが、それです」

「つまりあなたは、善意が間違っていると」

「正しいからこそ善意と呼ばれる。だから善意は間違っていません。しかし正しいという価値観自体が正しいかを検証する能力を、あなたは欺いたんです」

 どう答えるべきか、少し考えた。

 女記者はまだこちらを睨んでいる。

「欺いた、という表現はいい。しかし善意を欺くと、どうなるのだ?」

「善意というラベルの張られた、悪意が氾濫する」

「しかしみんながみんな、それは善意と思っている。善意に対して、それは悪意だ、と声をあげれば、その声をあげたものは悪を標榜すると見える」

「見えるだけです。本来的な多様性にある許容する力を、あなたは欺いている」

 ただ、と女記者が首を垂れる。

「あなたの欺瞞で、救われた人が大勢います。ですから、私はあなたを完全には否定できません。あなたには、実績がある。世界をより良くしたという、実績が」

「俺は何もしてない。やったのは大勢の人間だ」

「そういう責任逃れですか?」

「責任逃れか」

 思わず俺は口角を上げていた。反射的な表情を隠すために、さっと手で口元に触れ、笑みを消した。

「例えば、政治家を否定する人間は、どういう責任を負うんだろう? その政治家が何かの不祥事を起こしたりすれば、あるいは否定するのは正義で、正義には責任は伴わないのかもしれない。正義に責任が伴わないと自然と発想できるのは、なぜだろう。正義とは大勢に利する思考で、大勢が利益を得てるのなら、何の責任も生じないのか」

 女記者が手元の手帳にペンを走らせ、こちらを見る。

「つまりあなたは、正義の元に何らかの行動を起こすものにも責任があるはずなのに、彼らは自分達が正義だと主張することで、何らかの責任逃れをしていると、そう言いたいのですか?」

「正義はいい。悪もいい。ただ、人は実際に傷つき、倒れている。抑圧され、弾圧され、住む家を失い、食う物もなく、さまよう。それは誰の責任だろう。政府か、軍隊か、商人か、農夫か、宗教家か、思想家か。誰の責任だときみは思う?」

 女記者が顔を伏せる。俺は黙って、彼女が喋り始めるのを待った。

 沈黙は長く続いた。かすかにボイスレコーダーが音を立てている。

「自己責任などとは、少なくとも言いたくありません」

 それが女記者の返答だった。

 俺は黙って頷いてやる。彼女は目をまだ伏せている。こちらを見ていない。

「誰もが、正しいことを求めています。社会や、世界に。それは間違っていません」

「それは俺もそう思う。みんな、正しいことをしたい。それは基本的な願望だし、必要不可欠な願望だ」

「それを利用するのは、正しいことですか?」

 女記者がこちらを見るのに、俺は肩をすくめた。

「利用していない。全ては、誰もが願ったこと、望んだことだ。それだけは真実なんだよ。みんながみんな、正しいことを求めた結果、世界は今の形になった。それが真実」

 女記者は俺の目をまっすぐに見て、二人ともが口を閉じた。

 記者が一度、頷く。そして表情を少し緩めた。

「あなたの職業は、なんですか?」

「一年前だったら、傭兵と名乗っただろう」

「傭兵?」

「戦場に出ない傭兵だよ。密林でも砂漠でも市街地でもなく、陸でも空でも海でもない場所で戦う傭兵だった」

 ペンが手帳の上を走る。

「それでは今は、なんと名乗っているのですか?」

「簡単に言えば、代理人だ」

「代理人。何の代理人ですか?」

「なんだろうな」

 あまり考えたことはない。

 前に考えた時は、代弁者、とも思った。しかしいつの間にか、俺が何も言わなくても、大勢が大勢の代弁をし、叫び、喚いているのが今の世界だ。

「戦争の、ですか?」

 女記者の言葉に、俺は目を閉じた。

「戦争なんて、どこにある?」

 目を閉じているので女記者の姿は見えない。ただ、わずかに身じろぎしたのは感じる。

「戦争はどこにあるんだ?」

「世界中にありますよ」

「善意の押し付け合い、正義の押し付け合い、それが戦争か? なら俺は、戦争代理人ではない」

「民衆の代理人でしょうか」

「民衆など、どこにもいなくなった。誰もが当事者であり、様々な形の武器を手に取り、引き金を引いている。代理人など必要としない」

 女記者は何も言わない。俺も何も言わない。

「職業をなんと紹介すればいいか、それだけでも教えていただけますか?」

 俺は瞼を上げた。

 女記者の真面目な顔がそこにある。

 何かを信じている顔だ。

 自分の正義、自分の善を信じている顔。

 俺は口を開いた。

「不詳、でいいだろう」

 女記者が苦笑いする。俺もさすがに笑うことができた。

 女記者はボイスレコーダーを停止させ、それを手帳と一緒にカバンに入れた。

 彼女が出て行ってから、俺は椅子にもたれかかり、天井を見上げた。

 世界を変えることはできた。

 しかし世界そのものは変わらない。

 巨大な器の中の波が、激しく揺れているだけだ。

 二度と収まることのない波が今、そこには起こっている。

 そのうち、誰かが波を鎮めるかもしれない。

 その時を俺は、是非見てみたい。

 ふと、そう思った。



(了)

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