第47話 決別の時
龍造寺氏 …肥前佐嘉郡を中心に勢力を張る一大国衆。少弐氏に反旗を翻す
龍造寺
龍造寺
龍造寺孫九郎 …剛忠の孫(家門次男)
少弐氏 …東肥前の大名 大内氏に滅ぼされたものの、再興を果たす
少弐
馬場
馬場
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翌日、一人の老人が首級と向き合っていた。
「…………」
老人は言葉を紡ごうとしない。
床几の上に座ったまま、じっと見つめるだけ。
だがやがて彼は立ち上がると、首級を両手で優しく持つ。
そして再び腰を掛けると、膝の上に首級を置き静かに囁いた。
「悔しいか頼周、わしじゃ。その様に顔を歪ませるでない」
場所は佐嘉の北外れに位置する高木村。
ここに陣を構えていた、水ケ江勢のもとに届けられたのは、馬場親子の首だった。
そして設けられた首実験の場で、剛忠は頼周の首級に語り掛けていたのだ。
彼の首級には、血を洗い流し、化粧を施し、髷を整えるなど、少弐重臣に相応しい処置が施されている。
しかしいくら装っていても、剛忠の目には、頼周が死の間際に見せたであろう、怯えと苦痛に歪む表情がありありと窺えた。
龍造寺粛清を果たした後、彼は驕り横暴を働いた。
だが最期は、潔い死に様を見せて欲しい。
そう期待した剛忠だったが、首級の表情を見て落胆せざるを得なかったのだ。
やがて彼は首台に首級を戻す。
するとそこに、一人の家臣が進言してきた。
「恐れながら大殿は、去る一月、多くの御一門が討たれた際、頼周めが勢福寺城の城門前に首級を埋め、登城してきた者達に踏ませた事をご存じでしょうか?」
「噂は聞いておる」
「ならば今度は、この二つの首級を水ヶ江城の城門の下に埋め、出入りの者に踏ませては如何でございましょう?」
あくまでその口調は提案。
しかし顔は高揚し、強い目力を剛忠に向けていた。
目には目を、歯には歯を、報いを受けさせるべきだと。
さらに陣中を見渡してみると、同様の視線を向ける者が、他にも数人いた。
対して剛忠は、そなた達の気持ちは分かる、と前置きした上で諭す。
「頼周の所業は狂人の振る舞いじゃ。その様な情の無い事を、我らもするべきなどと申すでない」
「されど、頼周は少弐の佞臣にござります。首級を踏むのに何の遠慮が入りましょうか?」
「佞臣……?」
その言葉を聞いた途端、剛忠の顔は険しくなった。
だが進言した者は高揚しており、剛忠の心情を意に介していなかった。
「はい。少弐の御館を
「黙れ! そなたに頼周の何が分かる!」
陣中に剛忠の大喝が響く。
対して提案した者は、冷や水を浴びせられ言葉を失った。
普段物静かな大殿が、発言を遮ってまで、何故これ程激昂しているのか?
目を丸くしていた彼は、およそ剛忠の内心を理解出来ないでいた。
対して剛忠は言って聞かせる。
彼が少弐再興を志し、傷だらけになりながらも戦い続けた幼少期のこと。
懸命に知恵を絞って立ち向かった、筑紫満門謀殺のこと。
己より遥かに強大な西千葉家に対し、果敢に討伐に赴いたこと。
どれもすでに二十年以上も前の出来事だ。
詳細を知らない者が増えていくのは仕方がない。
だが頼周を語る上で、粛清だけで評価してしまうのは明らかに誤っている。
それを今、正せるのは自分だけ。
剛忠の説得は次第に熱を帯びていく。そして──
「奴の所領は、東肥前のごく僅かに過ぎん。だが少弐のため、己の全てを賭け生き抜いたのだ! その忠臣の首級を踏めなどと、どうして命じられようか!」
剛忠がそう話を締めると、周囲の者は恥じて、皆黙るしかなかった。
だが剛忠本人も、年甲斐も無く熱く語ってしまった事を恥じ、すぐに冷静さを取り戻した声で命じる。
「二人の首級は万寿寺と高城寺へ送り、懇ろに葬ってやれ」
水上山万寿寺は佐嘉郡の北、與止日女神社から一キロ余り西にある、禅宗の寺院である。
剛忠の弟である
また春日山高城寺も勅願寺や幕府の祈願所として知られ、多くの寺領、田畑、山林を有する肥前の名刹だった。
剛忠は二つの名刹に葬る事で、馬場親子の名誉を守ったのである。
やがて首実験が終わり、片付け始めた家臣達が、首級を陣から持ち去ろうとする。
だが剛忠は退席しなかった。
頼周との付き合いは、実に四十年近い。
縁あって、戦国という同じ時代に、肥前と言う同じ土地で、少弐という同じ家中の下、共に生きた。
最後は袂を分かってしまったが、自分の人生を形作る上で、彼が欠かせない大きな存在だったのは間違いない。
だがら今は、ただ刮目すべきだ。彼が歴史の表舞台から去っていく様を。
さらば唯一無二の忠臣よ──
剛忠はそう覚悟を決めたまま、二つの首級が去っていく様を最後まで見送るのだった。
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逆襲という大願は果たされた。
ここからは、今回の動乱に関わった家や人々について、その顛末を記しておきたい。
まず、剛忠と呼応して挙兵した村中家。
当主胤栄は、四月十六日、夜になってから神代家の千布城に押し寄せ、攻め落とす事に成功。
粛清から始まる龍造寺家と神代家の遺恨は、これで更に深まる事になる。
次に馬場政員に嫁いだ家純の娘について。
龍造寺粛清を受けて、彼女は政員と離縁し水ヶ江家に戻っていたが、後に千葉胤連と再婚。胤連との間に嫡男胤信を儲けている。
そのため胤連養子の彦法師丸は、天文二十年(1551)、養子関係を解消し鍋島家へと戻っていった。
そして与賀家について。
西肥前に派兵したものの、剛忠決起から頼周討伐までの動向がはっきりしない。おそらく沈黙せざるを得なかったと思われる。
西肥前出兵で、当主日勇(俗名盛家)と、その次男信以、三男三郎四郎が戦死。
長男鑑房はすでに近隣の国衆、高木家の養子となっており、家には不在だった。
また与賀家には、家を興した胤家(剛忠の長兄)の実子、胤直もいたが、彼も有馬との戦いで戦死した。
この様に与賀家は当主と一族を尽く失ってしまっており、とても再起を図れる状況では無かったと思われる。
与賀系統の一族が脚光を浴びるのは、胤直の子、家親の代になってから。
家親は龍造寺一門の中でも大きな所領を持ち、家中に影響力を及ぼす事になる。
最後に馬場家について。
頼周、政員と柱二人を失ったものの、家が滅んだ訳ではない。
その後は幼少の政員嫡男、鑑周を当主に就け、少弐傘下の一国衆として、龍造寺の威勢拡大の前に再び立はだかる事になる。
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そして季節は巡り秋。
佐嘉は平和を謳歌していた。
しかし慣れない一木での隠棲生活が祟ったのか、剛忠の体は日を追うごとに衰弱の度合いを増していった。
食事は飲み込むことが難しくなり、量も減るばかり。
手足、背中、腰では、神経の痛みと痺れが付きまとう。
八十を過ぎてなお丈夫だった足腰も、誰かの支え無くしては歩けないほど衰えてしまっていた。
自分の死は遠くない。
悟った剛忠は、最後の仕事に取り掛かった。
現代で言うところの終活である。
まず行ったのが、水ヶ江家の一族に対する、土地と建物の分与。
次に自分の死後における、後継者と一族の処遇を決めた。
そしてそれらを記した物を、遺言として関係する一族に渡していったのである。
「お呼びにござりますか?」
そして一族の中で、最後に剛忠の書斎にやって来たのは、孫九郎だった。
剛忠は彼を見ると神妙な顔で頷き、机の上に書状を用意する。
だが他の者とは違い、彼に用意された書状は二つあった。
「まずこれに目を通せ」
うちの一つの書状を剛忠から受け取ると、孫九郎は中を開く。
そこには以下の文が記されていた。
一字の事承り候 鑑兼の名を遣わす 義鑑 龍造寺孫九郎殿
「これは……?」
「今後の当家の頼りとするは大友家じゃ。故に当主義鑑公に一字を与えて下さるよう頼んでおいた。義鑑公の「鑑」に、わしの「兼」の字をそなたに遣わそう。以後孫九郎
人生の大きな転機だった。
鑑兼はよく通った声で「ははっ!」と応えると、神妙に御礼を述べて平伏する。
現状、水ヶ江家の後ろ盾となってくれる大勢力は、大友家しかいない。
その
大殿は自分に期待してくれている。それはつまり──
内心で期待を膨らませた鑑兼は、さらにもう一つの書状を受け取り、中を開く。
そこには彼が望んだ一文が記されていた。
「 一、水ヶ江家惣領の地位は、鑑兼が継ぐ事 」
※勅願寺… 国家鎮護・皇室繁栄などを祈願するため、天皇や上皇の命で創建された、または帰依を受けた寺のこと
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