お砂糖、スパイス、それから貴女。

お砂糖、スパイス、それから貴女

 「それ」を見たのは、放課後だった。

夏休みだというのに「大学受験講座」という名の特別補講を終え、寮に戻る気にもなれなくて、学院の近くの、河原沿いの道を散策していた時。

ギラギラ照り付ける太陽の光が、制服の半袖から出た私の素肌を容赦なく焼き、汗を吸ったブラウスがいつもより少し重く感じる。何もかもが憂鬱だった。

 「ここにXを代入して云々……」と垂れる数学教師の声も、世界史の担当が黒板に書いたマルクス・アウレリウス・なんとかという昔の偉い人の名前を必死に書き留めるクラスメイトのシャーペンのカリカリいう音も、彼女たちのクソ真面目な不細工な顔も、「お前ら、今は大変だけどな、これはお前たちの将来のためなんだ。だから頑張ろうな」なんていう無駄に暑苦しい性格の担任のご高説も、ジュケンベンキョーも何もかも。

何よりも腹正かったのは「あの子」が視界にいなかったこと。

 「あの子」とは高校三年にあがった時にクラスが分かれてしまった。

これまで――保育園も小学校も中学校も、今までたったの一度だってこんなことはなかったのに。

 合格して二人で入学したそこは、目には見えない監獄のようだった。

見渡しても緑しか目に入らない立地。「清貧」を良しとする校風、毎朝のミサ。

ひたすら「将来」「目標」を機械がプログラミングしたかの如くひたすら並べる教師たち、理解させるだけが目的の面白みのない授業、疑問も持たず一心にノートをとる同級生、嫌に熱の入った部活動の様子。

 ありがたいことに、元々頭の出来は良いほうなので、成績の面で落ちぶれることはなかったけれども、高校生活に自由やら青春やらは、一ミリ、いや一ミクロンもありはしなかったのだ。結局、忌まわしいあの場所にいた頃と殆ど変わらない日々。


 それでも、二年までは2人一緒だからやり過ごせた。

不確実な将来とやらに怯え、一心不乱に勉学に、慈善事業にと励む同い年の少女たちを二人で嘲笑し、授業中はこっそり手紙のやり取りをし、放課後は部活なんてものに目もくれず、真っ先に寮へ戻る。

クラスからは二人、孤立したが、それでも昨年までは、私たちはとてもとても幸福で、満たされていたのだ。


 帰寮してからは一緒に夕食の支度。

寮には食堂があったけれど、値段の割にさして美味しくないし、何より他の生徒と顔を合わせるのは嫌なので、私たちは共同の部屋で自炊をしていた。

 寮は普通皆、一人部屋を割り当てられるのだが、入学時に私が「親が交通事故で亡くなってからずっと、施設でも学校でも二人だった。だから特別に二人で一部屋を使わせてほしい」と情に訴えてみせたら、無駄に長い職員会議の末、許可が下りたのだった。

 一週間に一度は、二人で少し遠くの商店街まで買い出しに赴いた。

如何にも品行方正な女生徒に見える女学院の、地味で野暮ったいセーラー服から、ゆったりとした色違いのワンピースに着替え、買い出しに行く。

これは二、三年ほど前にあの子が古着屋で見つけた掘り出しものだった。私が白で、あの子が黒。シンプルだけれども、胸元に並んだ三つのくるみボタンが個性的で可愛らしい。

寮の玄関で、入学時から私たちを気にかけてくれている寮母さんに外出届を出し、シンプルな黒のサンダルを突っかけ、校外にでる。


 学院からバスで15分。商店街は、わりと好きだ。

両親が亡くなる前、4人で暮らしていたところがこんな雰囲気の場所だった気がする。

店主が客に「今日はこれがおすすめだよ!あとこんなんも入ってきてる!珍しいよ!」と呼びかける声、子連れの主婦がどれがお買い得かと、値段や品の質を吟味する様子。特に用事もなさそうなのに集まって井戸端会議としゃれこむ近所の中高年、ブームが終わるとすぐ潰れて翌シーズンには別の流行ものを前と違う顔の店長が扱うテナント。

少し前はタピオカの店だったけれど、今はバナナジュースの店に変わっている。面白い。

町の変わらないところと変わっていくところとを眺めながら、のんびり二人で買い物をする時間が愛おしかった。

 贔屓の肉屋の店主はいつも優しくて、一等好きだ。特に事情は言っていないけれど、何か察しているのかもしれない。

「いらっしゃい。……おお!桃花ちゃん杏花ちゃん久しぶりじゃないか!!今日は合い挽きが安いよ!!二人とも頑張り屋さんだから今日も特別にサービスしちゃうよ?」

太陽のような笑顔で話しかけ、肉を買うといつも私たちの頭をガシガシ撫でて、「今日もありがとな!」と言ってくれる。

あんまり覚えていないけれど、お父さんもこういう豪快な人だったと思う。

店主の奥さんも好きだ。楚々とした見た目だけれど、商品をパックに詰める仕草はてきぱきしていて素敵だ。

この人も優しい人で、店から出て袋のなかを見てみると、飴玉や手書きのメッセージが入っていたりすることがある。それに気づくといつも、なんだか嬉しいような恥ずかしいような、不思議な気持ちに私はなるのだった。

 未来なんて不確定なものだけど、いつか学校を出て、施設の人とも縁を切って、自由になれたら、あの人たちと同じようにあの子と二人で、カフェかなにかお店を開いてもいいなあと、そう思っていた。

 青果店の奥さんは苦手だ。

この人は若いうちに旦那さんに先立たれてしまって、35年間一人で店を切り盛りしてきたらしい。

私たちが店へ入ると、一挙一動をジッと観察してくる。気味が悪い。好奇心と嫌悪の入り混じったその視線に気が付いていないと思っているのだろうか。

その上、お会計をしていると毎回「あんたら、それでいいのかい?」としゃがれた声で囁く。その時、奥さんの目はいつも私でなくて、あの子の顔をまっすぐ見つめていた。

まるで問いかけるように。或いは何かを唆すように。あの人の前世はきっと蛇だ。

ああ、厭だ。気持ちが悪い。商店街のなかでもあそこに行くことだけは、嫌で仕方なかったけれど、青果店はあそこしかないので、どうしようもなかった。

今思えば、野菜や果物を買いたいときには面倒でも、バスでもう15分かけて町の大きなスーパーへあの子を連れていくべきだったのだ。

 食材の買い出しをする日は、寮に戻るとだいたい18時半ごろになっている。


 寮母さんに帰宅を報告し、部屋へ戻ると二人で雑談しながらの料理タイムが始まる。

買い出しがない日は、17時頃には寮に帰って、1、2時間二人でまったりゲームをしたり、購買にあった季節限定のチョコレート菓子を分け合ったり、お互いに本を読み聞かせあったりして、それから夕食の支度だ。

 私たちが一等好んで食すのは、ビーフシチュー。

手間と時間がそこそこかかるから、月に2、3回ほどしか作れないのだけれど。

二人分の野菜――玉ねぎやじゃがいもやにんじんを、まず食べやすい大きさに切って下ごしらえ。

二人で分担して切るのだけれど、どのお野菜も私とあの子、どちらが切ったものなのか分からないくらい、同じような形や大きさで、いつもニヤニヤしてしまう。

しいて違いを挙げるならば、私が切った野菜の方が若干ではあるが、歪な形をしていることだろうか。悲しいことに、手先はあの子の方がほんの少しだけ器用なのだ。

 あの子のこういうところを憎らしいと思う。あとは、苺より桜桃が好きなところとか、同じシャンプーを使っているのに、髪の毛が私より少し猫っ毛なところとか。ぜんぶぜんぶ、なくなってしまえばいい。

 牛肉は腿の部位を一口サイズに切って、塩と胡椒をもみ込んでから、フライパンにのせて、じっくり強火で焼き上げる。

 この時、バターを一緒に熱して溶かすと、後々ソースにコクが出て美味しくなる。それから玉ねぎとにんじんを同じフライパンに投入。玉ねぎが飴色になるまで、中火でじゃあじゃあ音を立てて炒める。

できたものをフライパンからお鍋に移して、水を加え、(ほんとは赤ワインも入れなきゃなんだけど、未成年なので手に入れられない)、今度は弱火で1時間ちょっとじっくりコトコト煮込む。

 その間に大好きなテレビドラマを鑑賞しつつ、二人で付け合わせを作りに取り掛かる。

レタスをちぎってプチトマトとブロッコリーを乗せただけのサラダと、レトルトのオニオンスープ。

ドラマは国内ではかなり有名な作品で、男子高校生が、白血病にかかった恋人の願いを叶えるため、彼女をオーストラリアに連れ出そうとするやつ。結局恋人は空港で倒れ、そのまま意識不明の状態で亡くなるのだけど。

ドラマを一話見終わる頃には、お鍋の中身は煮えている。

じゃがいもとデミグラスソース、それからケチャップを加えて、じゃがいもが柔らかくなるまでかき混ぜつつ、弱火で煮込んで完成。

 それを二人でシールを集めて応募した、食品メーカーのパン祭りキャンペーンで貰った真っ白な平べったい器に入れる。

出来上がったビーフシチューとサラダ、スープ、それに銀のカトラリーをテーブルに持っていく。

食卓として普段使っているのは、檜で出来た小さな丸いテーブル。赤と白のギンガムチェック柄のテーブルクロスが敷かれていて、その真ん中には、陶器製の白い花瓶が置かれていて、中には鮮やかなオレンジ色のマリーゴールドの花が二輪、生けられている。

入寮の日、二人の部屋に花を飾ろうと言い出したのはあの子だった。

その日から私たちは時折、学院の温室に植えられているマリーゴールドの花を二輪だけ拝借しては、自室へこっそり持ち帰っている。


 二人での食事は、まさに至福の時間。

私が作ったものがあの子の胃に、あの子の作ったものが私の胃に収まって、それがやがて各々の血となり肉となるのを実感できるとき。――思い返すのは、折れた鉄骨の突き刺ささった母のお腹から流れ出ていた赫。アスファルトに強く打ち付けた父の頭から見えたぐにゃぐにゃした薄桃色。

口の中でほろほろ崩れる牛肉が、コクのある濃厚なブラウンソースが、皿に彩を添えるにんじんやブロッコリーが、私やあの子の身体のなかで分解されて、いずれあの尊く美しいものたちの一部へとなっていくさまを空想する瞬間。

 二人で過ごすこの1時間ほどの食事時は、いつも私に“生”というものを強烈に刻み付ける。他のお料理のときもそうなるけれども、ビーフシチューの日は特に。

それはきっと、あの大事故の日の前夜に、両親と食べた一品だからだろう。


 そうして食事を終えた後は、二人で後片付けをし、教師や学友への文句を言いながら次の日までの課題を済ませ、二人で部屋に備え付けのお風呂に入って、真っ白なシーツの敷かれた小さなパイプベッドに、二人で入って手を繋いで寝る。


 そんな二人だけの日常が確かに続いていたのだ。……三年にあがるまでは。


 始まりは、始業式。

 どうせまた同じクラスだろうと、どこか他人事のようにクラス表の名前の羅列をぼんやりと見ていた私は、あの子の「あっ……」という驚きのなかに一抹の喜びの混じったような、何か不自然な声により現実へ引き戻された。

 「なあに?どうかした?」と、問いかける私。

すると戸惑った風に「あれ……」とあの子はクラス表を指さした。


 3年A組の表の上から何番目かにあの子の。草凪杏花の名前。

だが本来そのすぐ下にあるはずの私の、草凪桃花の名はない。戸惑いつつも、目を横に向けるとB組のクラス一覧に私の名前があった。

予想外のできごとに思わず、視界が暗くなりかけた。

そんな……。だって、今まで一度だって、そんなことなかった。クラス決め。

それには常に私たちに対する配慮があって当然で、今回も……高校3年なら尚更、あって然るべきなのだ。なのに、どうして。


 こんなことはおかしい。あるべきでない。

そんな風に私は、教師たちに苦情を言おうと思ったが、あの子はそれには頷かなかった。

 むしろ幼子を宥めるかのような口調で「たまにはいい機会じゃない。私も桃花と離れるのは寂しいし、同級生は嫌いだけど、だって私たちこれから、いつ何時も一緒にいるってわけにはいかないのよ。この1年は、その練習と思えばいいじゃない!それに部屋に戻れば、また二人になれるのだし。」と私を諫める始末。

 あんまりにもあの子が粘るものだから、私は仕方なく折れてあげた。

あの子だってどうせ

1年経てば、まわりとの違いに嫌気がさしてもう二度と、そんなことは言わないだろうという希望的観測もあったけれど。


 だが、私の思惑とは逆に事態は悪化する一方だった。

最初の方こそ新しい環境に慣れず、授業後早々に寮へ戻ってきていたけれど、5月の半ばには、「今度の担任はとてもいい人」だなんて言い出した。

 あの子のクラスを受け持つのは新任の男の先生だ。若くて、まだ二十歳そこそこらしい。男にしては線が細い、黒髪の、よぅく見ると整った顔立ちをした国語教師。

曰く、授業中に隠れてロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を読んでいるのを見つかってしまったけれど、先生はそっと微笑んだのち、何食わぬ顔で授業を再開しただとか。

 その後、職員室にこっそり呼び出されたけれど、「ああいう本は、授業中は読まないようにね。ほら、この学校ってなんていうかお堅いから。」と軽くたしなめられただけだったとか、それどころか、バタイユの『眼球譚』や夢野久作の『少女地獄』を薦められたとか、そんなようなくだらないことを、嬉々とした顔で私に語るようになった。


 杏花、貴女は騙されています。

先生、それも男のせんせいだなんて、碌なものじゃありません。

そいつは、早熟な少女を隙あらば食べてしまおうと企んでいる悪い狼なのです。

施設にいた男の職員も、小学校の男性教師も「そう」だったのに忘れてしまったの?だいたいバタイユも夢野も私たちとっくの昔に読破しちゃってるじゃない。

それにあの男には、悪い噂だってある。まだ教師になって数年なのにどうして、東京なんていう都会から、こんな片田舎のお堅い女学院に転任してきたのか。

東京で女生徒に手を出して左遷されたのだと言う人もいれば、あの男は両刀で、痴情の縺れか質の悪いストーカーから逃げてきたのだという人もいます。いずれにせよ、疚しい事情を抱えてこちらに来たのには違いないのに。


 あの子は、先生の話を頻繁にするようになり、そのうち週に2、3日ほど寮に帰る時間が遅くなる日も出てきた。

理由を聞くと、あの子とあの子のクラスメイト2人、それから顧問に例の先生とで、読書クラブを設立したらしい。

「桃花も来て!とても面白いのよ!」とあの子が言うので、一度だけ放課後にお邪魔したけれども、最悪だった。


 部室は旧校舎の隅っこの日の射さない狭苦しい部屋で、長年掃除されていなかったために、埃っぽくて汚らしい。

あの子以外のクラブメンバー2人も酷いものだ。

一人は、この地域の大地主の家系に生まれ、蝶よ花よと育てられたと豪語する勘違い女。身振りがやたら大袈裟で、声も無駄に大きく、高そうな絹とレースのハンカチを見せびらかすように常に持っている。

あなた程度の金持ちの娘、この学院には掃いて捨てるほどいると思うけど。私とあの子が施設育ちというのは、噂になっているようで、私たちのことを見下した態度で接してくる。

英語が得意なのだと自慢げに『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』の洋書を読んで聞かせようとするのだけど、ところどころつっかえるし、発音も間違えるし、全く流暢じゃない。

あの子がシェリーの英詩を部屋で楽し気に朗読する様子を見せてやりたいと思った。きっとあの女、泡を吹いて卒倒するに違いない。

もちろん、部屋でのあの子は私だけのあの子だから、ひと欠片も見せてやる気はないけれど。あと、ハーフアップにリボンを結ぶ髪型、もう時代遅れだし、そのきつい見た目には似合ってないよと言ってやりたい。  

 もう一人は、分厚いレンズの眼鏡をかけ、低い位置で二つに結んだ枝毛だらけのこげ茶色の髪を前に垂らした地味な女。

よく観察してみると、眼鏡の奥に見える瞳はぱっちりとした二重で、鼻筋がすっきりと通っており、唇は薄く綺麗な形でほっそりとした華奢な身体つきだが、纏う空気はどんよりとしていて、暗い印象。

眼鏡をコンタクトに変えて髪を手入れし、にこやかに振舞うことを意識するだけで、学院でも指折りの美少女に生まれ変わるであろうに。

聞けば、あの子のクラスの級長だという。

この子はさっきの高慢な女とは真逆で、常に他人の顔色を窺っては、何か言いたそうに口をもごもご動かし、かと言って何か主張するでもなく、黙っておどおどしている。

この様子だと級長の役割も自ら立候補したのではなく、クラスメイトから体よく押し付けられたのだろう。

 ただ頭の出来はいいらしく、二年時に県の作文コンクールで、泉鏡花の『夜叉ヶ池』の読書感想文で金賞に輝いたことがあるのだと、あの子の担任の例の胡散臭い教師が、厭な笑みを浮かべ語っていた。

もっとも、当の本人は私がクラブに訪れている間、終始黙りこくったままであったが。

自分の自慢話を一方的にべらべら話す自称お嬢様と、黙りこくったままの級長、どうにか会話を成立させようと、相槌を打ったり、級長へ話題をふるあの子、それを微笑ましそうに眺める教師。

 それは、さながら地獄絵図のような様相を呈していた。

 私はその空間に私はたった1時間で耐えきれなくなり、「ごめんなさい。体調が悪いから先に戻ってるね」とあの子に声を掛け、逃げるように部室を後にしたのだった。

 あの子は帰ってきてすぐ「今日はごめんね。でも普段はあんなじゃなくて、もっと本のお話で盛り上がって楽しいの。

だからまたいつでも遊びにきて」と弁明した。あの子があの場所を楽しんでいない、それどころか辟易していたのは明らかだったのに。

この一件は、学年があがった頃から発生した私のなかのあの子への“違和感”をより印象づけた出来事であった。


 それから、あの子の言動はますます不可解になっていくばかり。

休み時間に教室を訪ねると3、4人の女の子達と群れていたり、昼食は「晴れた日は屋上、雨の日は空き教室で、2人だけでとる」と決めているのに、例の級長や他のクラスメイトを連れてきたり。

私は時折それらの裏切りについて、あの子を詰った。

その度にあの子は「だって、どうしてもって言うものだから。でも彼女、案外面白い子だったでしょう?桃花も偶には同級生と仲良くしてみたら?馬の合う子が見つかるかもよ」なんて、困ったように笑って言うのだ。


 ある時などは、前々から放課後は買い出しに行こうと約束していたにも関わらず、当日になっていきなり「クラスメイトと受験勉強をすることになってしまったから、悪いけれど今日は桃花だけで行ってもらえないかな?」と言われ、1人で商店街まで出る羽目になった。

よく顔を合わせるバスの運転手が私を見て「おや?」とでも言いたげな表情になった。いつも座っている、後ろから2列目の二人掛けのシートに腰を下ろし、普段のお喋りの代わりに、15分もの間、代わり映えしない景色をぼんやり眺めていた。

目的地に到着し、バスを降りると、普段からバス停でたむろしている近所の住人たちが、これまた「おや?」という表情でこちらに視線を向けたのが分かった。

たった1人であの賑やかな場所を歩くことの惨めさたるや、中学校の頃、休み時間に意地悪な上級生たちの手により、2人女子トイレの個室に閉じ込められ、上から大量の水を浴びせられた時の比ではなかった。

 いつもの肉屋の店主の「今日は桃花ちゃんだけ?喧嘩でもしたのかい?」という気遣いの言葉がより一層私を惨めな存在にさせる。肉屋で買い物をしたあとは、お豆腐屋さんと魚屋へ。やっぱり変な目で見られる。

 その後は例の青果店へ。あの嫌な奥さんは、私が買い物をしている間、じっとこちらを見つめていた。

その視線に気付かないふりをしながら、買い物を続ける。気を反らそうと、頭のなかで購入メモを広げる。

ソテーにするにんじんとほうれん草、さっき肉屋で買ったひき肉を詰めるピーマン、ポテトサラダに入れる林檎、食後のデザート用の桃、エトセトラ、エトセトラ……。

普段の倍近くの時間をかけて、品物をかごに入れ、レジに向かった。もくもくと商品のバーコードをスキャンしていく奥さんをキッと睨み付けてやる。

すると奥さんは唐突に商品から目線をあげ、私をまっすぐ見つめてきた。その眼差しの強さに一瞬だけたじろぐ。

女は言った。

「焦らなくても大丈夫さね。あの子だって悩んでいるところなんだから、ゆっくり待っていてあげな。」


 うるさい。うるさい。うるさい。

赤の他人のお前なんかに私たちの何が分かる。私たちの、私たちだけの世界に入ってくるな。黙れ。お前なんか死んでしまえ。この淫売!蛇!

思いつく限りの罵詈雑言が私の脳内を飛び交う。それらの言葉を喉から発するすんでで飲み込み、私は相手を睨みつつ言った。

「私たちのことは放っておいて下さい。」

そうするとあの女は、何故だか私を憐れむような、悲し気な表情を一瞬だけ見せた。

言うべきことを言っただけなのに、私は自分が悪いことをしでかしたような気分になり、商品の入れられたレジ袋を持って、早急にその場を後にしたのだった。


そして、今日。


 耳に入ってきた、鈴がなるような、柔らかなそれでいてどこか蠱惑的な笑い声に、私は飛び上がりそうなくらい驚き、そして川にかけられている鉄筋コンクリート製の橋の、太くて頑丈な柱に、慌てて身を隠した。

 河原にいたのは2人。間に人1人が入れないほどの距離感で、向かい合って立っている。

例の似非教師と――あの子。

それは、「教師とその教え子が“たまたま”道中で会って、何気ない世間話をしている」だとか、そんな微笑ましい類の風景などではなかった。

そういう関係性を大きく越えた、例えば飼っていた昆虫をうっかり握りつぶしてしまい、罪悪感でいっぱいになりながら、公園に小さな墓をつくった友人同士や、三角関係の果てに殺めた男の死体を、共に誰も来ない山中の土のなかに埋めた女たちのような、そういう誰にも知られてはならない秘め事を共有している間柄の者が醸し出す雰囲気のそれ。

声を潜めて喋っているのか、2人の話し声は私の隠れている場所までは届かない。

けれども、場の空気で分かる。今、この人たちは極めて重要な、そして秘匿すべき「何か」について語っている。

柱についた手のひらに汗がじわりと滲む。高熱に侵された時のように、頭が上手く回らない。


 次の瞬間、あの子がつま先立ちになり、男へ自分の顔を寄せていくのが見えた。強い風が吹き、制服のスカートが揺れる。

そして――2人の距離がゼロになり、唇が重なった。

一瞬。ほんの数秒で唇同士は離れ、焦げ茶色のローファーを履いたあの子の足が地についた。


 私は、数秒の間、自分の見ているところで起こった出来事について、まるで理解が出来なかった。

否、理解はできていたが、それを事実として処理することを脳内が拒んでいたのだ。

あの杏花が。あの、他人の汗や涙やらの体液どころか肌が触れ合うことすら嫌がる潔癖のあの子が、私以外の人間に自ら触れに行ったなんて。

そんなの嘘だ。夏の暑さが見せた幻に決まっている。

ああ、でもやっぱりあそこにいるのは、あの子だ。私の魂の片割れ。お互いの唯一無二の理解者。

あの子は驚いて間抜け面になっている男を見て、悪戯が成功した子供のような無邪気な、でもどこか背徳的な笑みを湛えていた。

 それを見た瞬間、私は視界がグラグラ廻って気持ち悪くなり、それから、これまでの人生で経験したことがないほど、頭がカァッと熱くなって、その場急いでから立ち去った。


 あの子が帰ってきたのは、それから1時間ほど経った頃だった。


「桃花、ただいまぁ」

そう言うあの子の声の調子は普段と全く変わらない。

……嘘つき。私に黙って男の人と、それも学校の先生なんかと交際しているくせに。潔癖の皮を被った売女。汚らわしい。

 ――本当は、もう少しだけ見過ごしてあげようと思っていた。

つまらない倶楽部活動、クラスメートとの付き合い、一緒に帰寮することの減った日々、部屋で1人食べるご飯……。

一年。たった一年だけ我慢すれば、こんな孤独な日常は終わりを迎える。

両親がいなくなってから、2人で過ごした数年に比べれば、ほんの僅かな時間だ。だからもうちょっとだけ頑張ろう。

そう思ってきたのに、あの子のらしくない行動の数々が全てあの教師に起因していたのだと考えると、そしてそれをずっと私に隠してきたのだと考えるともう駄目だった。


 私は部屋のドアの裏側に隠れ、その時を待っていた。あの子が、帰宅して扉を開ける瞬間を。

そして帰ってきたあの子がドアを開け、部屋に入って瞬間にその背後に立ち、後頭部を目掛け思いっきり花瓶を叩きつけた。

いつもテーブルの真ん中に置かれていた、あの白い陶器の花瓶だ。

それに普段生けていた二輪のマリーゴールドの花は、ここ2、3週間取り換える機会がなく、すっかり枯れてしまっていて、私は昨日1人で花を流しに捨てたのだった。それも、私の脳裏に芽生えた衝動を後押ししたのかもしれない。


 華奢で繊細なあの子の身体は、たった3、4回の打撲であっけなく壊れてしまった。 気がついた時には、頭の傷口からあの日見たのと同じ真っ赤で美しいものが大量に流れ出していて、呼吸は殆ど止まっていた。

私は、その状態のあの子をキッチンへと引きずっていく。意識のない人間の身体ってこんなに重いんだと頭の片隅でぼんやり思った。


 あの子の身体を壁にもたれ掛けさせて、私は冷蔵庫から野菜を取り出した。

玉ねぎ、じゃがいも、それににんじん。それらをまな板に乗せた時、ふと気づく。これじゃあ2人分だ。慌てて野菜室に半分の量を戻す。

皮をピーラーで剥いた後、包丁で野菜を一口大にカットしていく。じゃがいもとにんじんは乱切りに。玉ねぎはくし形に切る。

慣れた作業のはずなのに、何故だか指先が震えて、いつもの倍は時間がかかった。

作業を終えたときには、あの子はもう息をしていなかった。


 やり方はおおよそ分かっていた。

何度かあの子と豚の屠殺映像を観ていたから。身体を床に横たえ、まずは肉切り包丁で首を真一文字に切って、血抜きをする。そして開いたそこから食道を取り出す。

次は胴を裂いて、内容物が出ないように慎重に、なかのものを出した。

あとは簡単で、刃物を滑らせ皮を取ったあと、パーツごとに切り分ける。ここまで行くともういつもの肉屋に置いてある食肉とさして変わらなくなった。

 どこを使うか迷ったけれど、いつもビーフシチューに使っている腿とそれからあばらの辺りを使うことにした。

残りは冷凍庫に一旦保管。あとは、普段のレシピを脳内で思い浮かべて料理するだけだった。お肉とお野菜をフライパンで焼いたのち、お鍋に移して煮込む。

時間をかけて、じっくり煮えたらデミグラスソースとケチャップを加えてまたしばらく待機。たったそれだけ。


 

 草凪杏花は、朦朧とする意識のなか、考えていた。

薄れゆく視界に映るのは、自分がこの世で最も愛する双子の妹が、何かに取りつかれたような形相で陶器の花瓶を振り上げる姿。

 「どうして、こんなことになっているのだろう。」

 離そうとしたのが、駄目だったのだろうか。あの時、先生の顔に唇を寄せたのは、桃花がいることに気付いていたからだ。

あの子以外の身体に、特に唇に触れるだなんて気持ち悪いから、実際は触れ合う1cmくらい寸前で止めていたのだけれど。

先生は私と同じ種類の人間だった。愛してはいけない人を愛してしまった人。罪の意識から逃げてきた人。

 新学期、クラスの教壇に立ったその瞬間に、私はあの人と自分が同類だと見抜いてしまった。だから、利用するとにしたのだ。

私の気持ちが抑えきれなくなって、一線を越えてしまわないように。

だってあの子が抱いている執着は、あくまで「家族」に対するそれだから。

先生の方もすぐに私の歪な執着に気付いたようだった。だから、倶楽部やら学科の手伝いやらあの手この手で私をあの子から引き離そうとしたのだろう。

 でも、それがまさかこんな事態を引き起こすなんて。

……いよいよ意識が落ちそうになってきた。あの子は、私のそんな様子を見て凶器を振り上げる手を止めた。そして私の身体をどこかへ引きずってゆく。

――キッチン。

それに気付いた私は、全てを理解する。そっか。私たち、一緒になれるのね。それなら悪くない。


 「桃花、愛してる。」


 もう声も出ないけれど、心の中であの子に向けて呟く。そして、視界は真っ暗になった。


 

 真夜中、一人きりになった部屋で、私はシチューを口にした。

濃厚なブラウンソース、彩を添えるお野菜、それから、口のなかでほろほろ崩れるあの子の身体。

 今まで食べたどんな料理よりもそれは、美味しかった。何故だか両目から涙が一筋こぼれる。


 「ずうっと一緒だよ。」


 私は杏花にそう囁いた。


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お砂糖、スパイス、それから貴女。 @yomi_hebihukurou

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