if兄妹

いぬかい

if兄妹

 薄暗い部屋で、ゆらゆらとオレンジ色の炎が揺れている。

 ろうそくが七本、白いホールケーキの上に刺さっている。家族全員が手拍子をとり、薄灯りのテーブルを囲んで誕生日の歌を歌っている。

 僕は大きく息を吸い込み、一息にろうそくの炎を吹き消す。部屋の中が真っ暗になる。周りから拍手と祝福の声が上がり、僕はうれしくて誇らしい気分になる。

 部屋が明るくなって前を見ると、ケーキの向こうで母さんがほほ笑んでいる。お誕生日おめでとうと、はしゃぐような母さんの声。父さんも隣で笑っている。僕はちょっとはにかんで、小さな声でありがとうと答える。

 父さんがリボンのついた青い包みを持ってきて、これは父さんと母さんからだ、と手渡される。包装紙を開いて中を見ると、ずっと欲しかったものが入っている。

 僕は思わず父さんにしがみつき、少しお肉のついたおなかのあたりに顔をうずめる。ほんのわずかに、嗅ぎ慣れた機械油の匂いがする。

――もう一つ、これは、おまけだよ。

 そう言って父さんは、僕の頭にぶかぶかの赤い野球帽をのせる。


                 1

 三十歳の誕生日ケーキは、苺のあいだに大ぶりのシシャモが突き刺さっていた。でっぷりとお腹の膨れた小魚が、まん丸な目を開いてどこか虚空を見つめている。

 怪訝な顔で何よこれと尋ねると、あんたも早く子宝に恵まれますようにってことじゃないと、母が甲高い声でけたけた笑った。私は脱力し、かえす言葉を失って思わず一緒に笑ってしまう。この人は昔からこういう人なのだ。あなただって一人しか産んでないじゃないのと思うものの、面倒だから黙っていることにする。

〝かおるちゃん、おたんじょうびおめでとう〟と書かれたチョコプレートが、シシャモの前にちょこんと乗っていた。かおるというのは私のことだ。母がまだ性別不明だった胎児の私につけた愛称が、そのまま私の名前になった。

 ハッピーバースデーの歌を歌い、大げさな拍手とやけに高いテンションでおめでとうと言われ、私はくすぐったいような気分になって、少し照れながらありがとうとぎこちなく笑顔を作った。母がケーキを切り分けて小皿に取り、残りを冷蔵庫に入れている間に、私はインスタントのコーヒーを二人分、客用のカップに注いだ。

「香もさ、三十の誕生日に子宝どころかカレシもいないとはねえ」

 シシャモの頭をかじりながら母が言った。もう五十代も半ばに近いはずなのに、いつまでも少女のようにふわふわと浮き世離れしている母は、娘にいつも容赦がない。

「質量保存の法則ってのがあんのよ」私は反撃にでることにした。

「氷は溶けると水になるでしょ。水は沸騰すると水蒸気になる。冷やすと元に戻る。それと同じでさ、モノってのは温度が変わると重さはいっしょなのに形だけ変わんのよ」

「はあ」

「だからね、私の彼氏はいないんじゃなくて、今は目に見える形になっていないだけなの。この世界の物質はね、いつも重さが変わらないわけ。いなくなるとか、いきなり出現するなんてことはないの。そんなことは物理的にあり得ないんだから。つまりさ、私の彼氏になる人はどこかにちゃんと存在してるけど、今は目に見えてないだけで、そこに何か熱力学的イベントが加われば、ばっちり知覚できる形になって、ちゃんとお母さんに紹介できるようになるってわけよ」

 そこまで一息にまくし立ててから、私はコーヒーに口をつけ、生徒たちに対するように軽く口角を上げて微笑をつくった。科学でも何でもないただの戯れ言だが、母を煙に巻くには十分だ。

「何のイベントだって?」母がこちらを見ようともせずに片眉だけ上げた。

「そりゃあまあ、燃えるような熱い出来事、とかなんじゃない?」と私。

だが、そんな私の冗談を母はもう聞いていなかった。テーブルに置いたピンクのスマートフォンに気を取られている。

「お父さんからメールが来てる」

 母は着信ランプの点滅しているスマホを取り上げてしばらく画面を見つめると、「来週、帰れそうだってさ」と、満面の笑顔でそれを私に向けた。

 うちの父は雑誌編集者で、以前は都内の本社で文芸誌を担当していた。だがなぜか東北のローカル誌を立ち上げるプロジェクトリーダーに抜擢されて、単身赴任で仙台支店に異動になったのだ。栄転なのか左遷なのか分からんなと笑う父を、母といっしょに東京駅まで見送ったのが今から三年前だ。地域限定の情報誌にも関わらず部数が伸びているらしいから忙しいのは確かなのに、それでも月に一度は帰京してくるのは、生真面目な父らしいなといつも思う。

 母によると、二人は職場結婚だったそうだ。田舎から出てきたばかりの新人事務員と、大学の文学部を出て数年の若手編集者の社内恋愛だ。

 詳しいことは知らないが、若い頃はそれなりに美人だった母を巡って、職場内でちょっとした諍いもあったらしい。でも、家では本ばかり読んでいる大人しい父が、どうやってその競争に勝てたのかには実はちょっとした秘密がある。お父さんには内緒だよと口止めしつつ母が言うには、何人かの候補の中で誰がいいか、実家の富有伯母さんに相談したそうだ。確かにそんなこと、父に言えるわけがない。

「そうそう、香にちょこっとお願いがあるんよ」

 台所のシンクに小皿を浸けた後、母は戸棚から葉書を一枚持ってきた。

 葉書のおもて側に、毛筆で書かれた流れるような達筆で「鈴木夏枝さま」と大書してあるのが目に入った。母の実家、比良木家からの暑中見舞いのようだ。裏には時候の挨拶のあと、八月半ばの数日間がはっきりした楷書体で明記されている。

「今年の例大祭さ、あたしはこの足だから行けんのよ。それで香に頼めんかなって」

 母が子猫のような丸い目でこちらを見た。

「今年の夏休みは暇や言うちょったでしょう。あんた、ずいぶん長いこと本家帰っちょらんし、富有ちゃんもあんたに会いとうとるし、な、頼むわ」

 実家の話になると母は少しばかり訛りが出る。私は顔を強張らせ、それから長いため息を吐いた。要するに葉書の中身は、お祭りと家業で人手が足りないから、休みを使って働きにこいということなのだ。

 確かに、今年はクラス担任も持ってないし、夏季休暇中に開催される教員相手の研修やシンポジウムも特に必須なものはなさそうだった。暇と言われれば確かに暇ではある。

 もちろん母の言い分も分かるのだ。母は春先に自転車で転んで骨折して以来、あまり遠出ができなくなった。骨折自体は完治しているものの、筋力が弱って、長い時間の外出は今も苦痛らしい。必然的に、今年は私が帰省することにならざるを得ないわけだ。

「まあ、いいけどね――」

 私はまたため息をついた。面倒だが仕方がない。比良木家は私にとって、小さい頃から夏休みのたびに帰省していたいわゆる〝おばあちゃんち〟だ。お世話になった恩もある。久しぶりに祖母や伯母の顔も見たい。でも、ひとつ気になることがあった。

 私は廊下の奥――そっちの六畳間は私の部屋だ――に目を向けた。

「――いいけど、花たちの世話はお願いするよ」

 奥の六畳間は、壁沿いに三段重ねのスチールラックが隙間なく並べられ、体を横にしないとベランダにも出られない。そのベランダにも大小さまざまな植木鉢があふれ返っていた。育てているのは入手しやすい洋ランが多いが、サボテンから食虫植物まで色々あり、まるで節操がない。休みの日に花屋を覗いて気に入った適当な鉢植えを購入してくるのだ。

 そもそもこの趣味は、小さい頃に富有伯母さんからもらったサルビアの花が発端だ。上手に育てれば綺麗に咲くよと何かの折に買ってくれたのだ。初心者用にちょうどいいからと半ば強引に押しつけられたものの、子供には少々荷が重かった。結局あれは、水を切らせて枯らしてしまったのだった。

「あの鉢植え全部にちゃんと水やりしてくれるんなら、行って来てもいいよ」

 母はそれには答えず、こちらをちらりと見てすぐに目を逸らすと、ごまかすように台所でいそいそと洗い物を始めた。スポンジに洗剤をつけながら、何だか責任重大だねえと、不安そうにつぶやく。

「何も毎日全部の鉢にやらなくてもいいのよ。今日はこれ、明日はこれって具合にさ、三日ぐらいかけて全部やればいいの。要は、土が乾かなきゃいいんだから」

 母は口をとがらせ、明らかに嫌そうな様子で分かったわよと小さく頷いた。

「だいたいさ、お母さんあの菊だけはやたらと大事にしてるじゃない。あれぐらいきちんと世話してくれるんなら私だって何も文句ないのよ」

 私はリビングの窓際に置いてある小さな鉢植えに目をやった。それは母が唯一自分で世話している鉢で、あれだけは何があっても私に触らせない。日が当たり過ぎず、それでいて暗すぎない、出窓の一番いいところを独占している。

「あれはまあ、おばあちゃんから受け継いだ大切なものだし」

 母が〝菊〟と称しているそれは、5号ぐらいの素焼き鉢に入った多肉質の観葉植物で、つややかな細長い葉が鉢を覆うようにこんもりと丸く密生する姿は、菊というより棘のないアロエの一種のようにも見えた。今までどこの花屋でも見かけたことがないから正式に何という名前なのかは分からない。母が結婚するときお祝いに富有伯母さんからもらったもので、富有伯母さんはやはり結婚するときにおばあちゃんからもらったのだそうだ。

「でも、あれってどう見ても菊じゃないでしょ。菊って普通、葉っぱがもっとギザギザしてるもんじゃない? ていうかそもそも私、あれが咲いてるとこ見たことないんだけど」

「あたしもまだ見たことない。でも確か青い花が咲くらしいよ。ずいぶん前におばあちゃんからそう聞いた」

「どうすれば咲くか、お母さん知ってる?」

 知ってるわけないかと思いながらそう尋ねると、母は水道の蛇口を締め、そうやねえ、と黒目がちな瞳を光らせて笑った。

「あんたに燃えるようなイベントが起きたら、そんとき教えてあげるわよ」


                 *

 風が吹いて、浜辺で白い旗がバタバタと鳴っている。真っ青な海に幾筋かの白波が立ち、真上から太陽が照りつけて、砂はやけどしそうなほど熱い。弓なりの砂浜には大勢の海水浴客がひしめき、波の間にもたくさんの裸の体が見え隠れしている。

 少年は父親に手を引かれて、砂浜から海へ入っていく。少年にとってはじめての海。買ったばかりの青い水着には、牙をむく肉食恐竜のイラストが描かれている。

 沖に向かって歩むにつれ、遠浅の海は少しずつ深くなり、やがて少年の腿や腹に冷たい波が打ちつける。少年はそのたびに身をすくめて、父親の手を握り直す。目の前で、父親の太い足に砕かれた海水が水面に白い泡を立てている。浜の方からお母さんの声が聞こえ、振り返ると、こちらに手を振っているのが見える。

「こわいか?」少年に向かって父親が言う。

「こわくない」硬い表情で少年が答える。

「この海はな、太平洋っていうんだ。世界一大きい海なんだぞ」まるで自分の手柄のように父親が言う。

「この先をずーっとまっすぐ行けばアメリカに着くんだ」

 やっと三輪車に乗って近所の公園まで行けるようになった少年には、アメリカと言われてもピンとこない。

「父さんは昔、アメリカに行ったんだ。アメリカはすごいぞ、何もかもがでかい」

 父親は遠い目をして水平線を眺める。けれど海は急に水嵩を増して、もう少年の胸元まで海水が届いている。時折波しぶきが少年の顔を洗っていることに父親は気づかない。

「そろそろ戻ろうよ」耐えきれずに少年は弱音をもらす。

「ああ、そうしよう」そう言いながら、父親は少年の脇の下に両手を入れると、よいしょと持ち上げて自分の肩に乗せる。

「重くなったなあ」父親は嬉しそうに言う。「ほら、あそこに船が見えるぞ」

 父親のさす方向に目をこらすも、船影は見えない。でも視界が急に高くなり、少年はいきなり現れた見慣れぬ光景に目を見張る。

 父親の頭の向こうで、青黒い海面がゆっくりと蠕動している。そして沖に見える水平線は、まるで二人が立つ地球の球体を具現するかのようにわずかに湾曲して見える。少年は思う。あの空と海の隙間に、父さんが行ったアメリカがあるのだろうか。

「どうだ。見えるか」少年の股の下で父親が訊く。

「うん。海が丸く見えるよ」

 それを聞いて父親は微笑む。だが次の瞬間、父親は波を受けてバランスを崩し、軟らかな砂に足を滑らせる。慌てたような声を上げながら、肩の上の息子もろとも海中に沈む。

 私は何も言わず、その様子をじっとそばで眺めている。


                 2

 八月に入って何日か過ぎたある日、私は日本海をのぞむ海辺の空港に降り立った。

 がらがらとキャリーバッグを引いて到着ロビーを出た途端、温室の中のような熱気と湿気でむせ返りそうになった。天気予報が今年一番の暑さになると言っていたと思い出す。額に手をかざして見上げた空には雲一つなく、辺り一面には白い稲穂を垂らし始めた鮮緑色の水田が広がり、蛙の鳴き声だけがやかましい。

 前にここに来たのは確か高校二年の夏だ。あの時は母と一緒だったけど。

唐突に、後ろでクラクションが鳴った。

 振り返ると、道の向こうで白いワゴンが停車しているのが目に入った。側面のドアに、波に跳ねる魚を模した漁協の青いロゴマークがでかでかと描かれてある。

――佐藤さんだ。

 東京を出るとき、母から知り合いが空港まで迎えに来てくれるはずと聞いていた。佐藤家は実家の近所に住んでいる漁師の家で、祖母の代から家族ぐるみで付き合っているそうだ。ご主人の俊哉さんと母とは小中高と同級の幼なじみらしい。

 ワゴン車から、半袖シャツに赤い野球帽をかぶった大柄な男性が下りてきた。ニコニコしながら日に焼けた太い腕を振っている。浅黒い顔に張り付けたような細い一重瞼にはどこかで見覚えがあった。たぶん、この人が俊哉さんだ。私は緊張を抑えて努めて明るい声を出した。

「こんにちは、鈴木香です。夏枝の娘の――」

「おう分かっとるよお、遠いところお疲れやったなあ」

 俊哉さんは目尻に皺を寄せて、よく通る声でそう言った。すぐに後席のスライドドアを開けて私からキャリーバッグを引き取り、軽々とワゴンの荷台に積み込んでくれた。

 車内は冷房が効いて涼しかった。私はもじもじしながら運転席に向かって頭を下げた。

「あの、わざわざお忙しいところありがとうございます」

「なんの、気にせんでええ。それより、俺んこと覚えちょる?」

「すみません。ご無沙汰してしまってて、正直、あんまりよく覚えてないんです」

「せやろうなあ。でも何度か比良木の家で会っちょるんよ。この前はたぶん高校生ぐらいやった思うけど、すっかり大人になって感じ変わっとりよったから、俺も見違えたわ」

 私は恥ずかしくなってうつむいた。不愛想だった高校時代を思い出して、胸の奥がぞわぞわする。

 俊哉さんが太い左腕でギアを入れ替えると、車はそろそろと動き出した。空港のロータリーを出てから、どこまでも続くような水田の中をまっすぐに貫く国道を西進し、やがて海岸に出て左に曲がった。磯には細い白波がたち、その上に点描のような海鳥の群れが舞っていた。海に面したなだらかな山裾には三角垂のような杉の木がびっしりと植栽されていて、花粉の季節でもないのに、鼻がムズムズするような感覚を覚えた。

 私はワゴンの後部座席でホッとしていた。漁師と聞いてもっと怖そうな人だと勝手に想像していたからだ。実際の俊哉さんは、まるで筋肉質な恵比寿さまのようだ。

 道は海岸沿いの長い直線に入っていた。隣の座席の上に、赤いメガホンが転がっているのに気がついた。取り上げてよく見ると、筒の部分にはアタマの大きな野球少年のキャラクターが描かれている。

「あのう、野球、お好きなんですか?」私は運転席に向かって声をかけた。「これって、広島カープの応援グッズですよね」

「好きちゅうか、人生そのもんよ」ルームミラーの中の黒い顔から白い歯がのぞく。「なっちゃんに聞いちょらん? 俺、高校んときエースで四番っちゃよ」

 なっちゃん、という呼び方に引っ掛かるが、少し考えて母のことだと気づく。

「ええまあ、そういえば何となく、聞いたことあるような、ないような……」

「せやろ。甲子園には出れんかったけどな、県大会準優勝や。せやけど、かえって良かったんよ。俺は家を継がなあかんし、目立ってプロに誘われでもしたら面倒でかなわん」

 俊哉さんはそう言ってガハハと笑った。

「俺んとこは子供がおらんからな、少年野球で地元の子らあ教えとるんよ。ほんで、たまにあいつら連れてカープの試合見に行ったりもするっちゃね」

 そういえば、さっき見た後ろの荷台には紙袋の中に大量の赤いメガホンが詰まっていた。きっと子供たち用なのだろう。世話好きの良いコーチなんだろうと想像がつく。

 荷台には他にもいくつか段ボールが積んであり、バットやらグローブやら、大量の野球用品が無造作に詰めてあった。その中に紛れて、クリーニングのビニールに入った白いジャケットが目に入った。金色のラメが散りばめられていて舞台衣装のようにも見える。

「そんで、なっちゃん足折ったゆうてたけど、元気にしとるんか」

「はい。遠出はちょっとまだ無理ですけど、日常生活にはほとんど支障ありませんし、ぜんぜん元気です」

「ほな良かったわ。今年来れないって聞いて、俺、心配じゃったもんね」

「あの人は人を心配させるのが上手いんです。だから気にしなくて良いですよ」

 たしかになあ、と俊哉さんはくすくすと肩を揺らした。思い当たる節でもあるのだろう。俊哉さんの人懐っこい笑い声につられて、少しだけ調子に乗ってみることにした。

「若い頃の母ってどんな感じだったんですか?」

 俊哉さんはうーんと唸った。

「今とあんま変わらんと思うけどなあ、でも男の子からはようモテとったよお」

「ああ、分かる気がします」

「あそこは評判の美人姉妹じゃったもんね。比良木のばあさんも、昔は小町いわれとったほどのべっぴんさんじゃったらしいでね」

 私は頷いた。比良木の美人姉妹とは、長女の富有伯母さんと次女の夏枝、つまり母のことだ。二人はあまり似ていなくて、伯母さんがキリッとした顔立ちなのに対し、母はタヌキみたいな丸顔だ。そして祖母はそのどちらでもない。小学生の頃、祖母に若い時の写真を見せてもらったことがあったが、私には祖母が一番美人に見えた。私もおばあちゃんみたいにキレイに生まれたかったと拗ねてみせると、香はばあちゃんの小さい頃にそっくりだよと、優しく頭をなでてくれたことを覚えている。

「香ちゃんは何となく、比良木のばあさんの若い頃に似てる気がするっちゃねえ」

 俊哉さんが急にそう言ったので、私はまた恥ずかしくなって下を向いた。

 車はさらに西進し、いったん海岸線を離れて、山間をうねるように走った。低い山を一つ超えて、しばらく長い坂を下った先に一面の畑地が広がる平地があり、そこで川沿いに県道を北に向かって進むと、やがて海に面して瓦屋根の木造家屋が並ぶ小さな港町に出た。

 だんだんと見覚えのある風景が増えてきた。私はワゴンの窓に顔をくっつけて、懐かしい町並みに見入っていた。町の詳しい地理こそ分からないが、曲がった角の先に何があるか、おぼろげながら記憶していた。町並みは昔からあまり変わってないが、何となくミニチュアのように見えた。記憶よりも建物や道幅が小さくなったように感じるのは、自分の背丈が高くなったせいだろうか。

 ローカル線の踏切を渡り、郵便局を過ぎて、駅前広場からつらなる商店街を横切った路地のどん詰まりまで来て、ようやくワゴンは停車した。大きな屋敷の前だった。

 私は懐かしさで思わずうめき声を漏らした。十三年ぶりのおばあちゃんの家。昔と何も変わらない比良木の本家だ。母屋は周りの家屋より二回りは大きく、巨木といっていいほどの大きさに育った庭木や立派な生け垣に囲まれている。

 俊哉さんがクラクションを二度鳴らすと、すぐに玄関の引き戸が開いて、見覚えのある水色の着物を着た色白の中年女性が表れた。富有伯母さんだった。そのすぐ後ろに続く眼鏡の男性は確かユタカおじさん、役場に勤めている伯母さんのご主人だ。私は少しばかり緊張しながら、シートベルトを外してワゴンを降りた。

 伯母さんがばたばたと駆け寄ってきて私の手を取った。こちらを見上げて怒っているような困っているような顔をした。少し照れながら私は笑顔を返した。少しだけ白髪が目立つようになったけど、相変わらず綺麗な人だ。やっぱり、あんまり母には似ていない。

「伯母さん、ただいま」

「ほんによお来てくれたねえ、香、元気やったかねえ」

 伯母さんは少し涙ぐんでいた。こんなに喜んでくれるならもっと頻繁に来れば良かった。そう思ったところで、伯母さんの斜め後ろに、小柄な女性が立っているのに気がついた。私の目線に気がついた伯母さんが、そうそうと、後ろを振り向いて彼女を紹介した。

「香ははじめてだったよね、この子はグエン、俊哉のお嫁さん」

「ハジメマシテ、カオルサン」

 グエンと紹介されたその人は、ぺこりと頭を下げて、小動物のような顔でにっこりと笑った。グエンの顔立ちは日本人ではなかった。化粧っ気はないが目鼻立ちがはっきりとして、どこかしら南国の雰囲気がある。

「えっと、こちらこそはじめまして。夏枝の娘で、香です。しばらくお世話になります」

「グエンはベトナムの人なの。一応、日本語分かるから大丈夫」

 片言の日本語と浅黒い肌をしたエキゾチックな顔立ちはたしかにアジア系の外国人っぽい。だが丸い輪郭と笑った顔が少し母に似ているような気がして思わずじっと見てしまい、その失礼に気がついて慌てて目を伏せた。

「さ、暑いから早よううち入んね、ばあちゃんも待ってっから」と、伯母さんが私の袖を引っ張った。


                 *

 表通りから商店街を抜けて踏切を渡ると、駅の反対側に出る。駅前の横断歩道の先には八幡様がある。その隣の児童公園の原っぱには、以前キャッチボールをしに父親とよく来たことを覚えている。でもいつもの散歩でここまで来ることは滅多にないので、桃は少し興奮気味だ。少年はリードを引っ張り、先へ行こうとする桃を抑える。

 八幡様の入り口の石階段に、少年は腰を下ろす。私はその一つ上の段に腰掛ける。

 桃は何やってんだという目でこちらを振り返り、それから戻ってきて少年の横に座る。舌を出して少年の頬を舐めると、首輪の小さな鈴がチリチリと軽い音を立てる。

 桃は元保護犬だ。犬が欲しいとせがむ少年に、父親が保健所まで行って、殺処分寸前だった子犬の桃をもらってきたのだ。人を怖がり、上目使いで部屋の隅にうずくまる桃と、少年は一年かけて友達になったことを私は知っている。

 少年は通りの向こうを眺めて、ため息を一つ吐く。桃が自分の尻尾に噛みつこうとぐるぐる回り、足がリードに絡まって転びそうになる様子をぼんやり眺めている。

 しばらくして少年は「しゃーないな」と言って立ち上がり、ズボンの汚れを払う。通りをまっすぐ歩き、小さなクリーム色のプレハブの前で立ち止まる。中から何かの機械音が聞こえている。少年は意を決してプレハブの引き戸を開く。急に機械の音が大きくなる。学校の教室ぐらいある部屋の中でねずみ色の機械がガシャンガシャンと動いていて、妙に鼻につく刺激臭が漂っている。作業服の人が何人かこちらに顔を向ける。

「おう、よく来たな」

 そう声がして、大きな手で帽子の上から頭をなでられる。振り返ると、いつの間にか父親がそばに立っている。

「なんだ、桃といっしょに来たのか」

 桃が父親の匂いを嗅いで、はあはあと舌を出して褐色の尻尾を振り回す。

「これ、母さんが渡してこいって」

 少年は上着のポケットから茶封筒を出して父親に渡す。何が入っているかは聞いていないが、想像はつく。父親は封筒の中をのぞき、「ああ、助かったよ」と小さく頷く。

 そして封筒を胸ポケットにしまい、少年に笑顔を見せる。

「ジュースでも飲んでくか」

「いいよ、もうすぐ夕飯だし」

 何となく作業服の人達がこっちを気にしているような気がするので、気まずくなって、少年は桃のリードを引っ張って言う。「僕、帰るよ」

「そうか、もう暗いから気をつけて帰れよ」

 父親が少しほっとしたような顔をする。帰ろうとしてきびすを返すと、父親が自分の名前を呼び、少年は振り返る。

「母さん、怒ってたか?」

 そんなこと自分で聞けばいいのにと思いながら、少年は憮然と答える。

「分かんないけど、たぶん、怒ってはいないと思うよ」

 父親はそれを聞いてわずかに顔を歪め、それから笑みを作って、そうかとつぶやく。引き戸の前で少年を見送ると、眉間に皺を寄せて奥の部屋へと消える。

 少年はプレハブを出て、薄暗い駅前通りを家に向かって歩きはじめる。日が落ちて西の空はだいだい色に染まり、街灯の灯りが前をゆく桃の背中を鈍く光らせている。

 お母さんが本当は怒っているかどうかなんて、少年には分からない。でも父親が前の会社を辞めて、このプレハブに通うようになってから、お母さんが以前のように笑わなくなったことに少年は気づいている。


                 3

 伯母さんが私を実の娘のように思ってくれているのは知っていたから、私はまず、長い無沙汰を詫びた。伯母さんは私の手をしっかりと握って離さず、母のことや学校のことを尋ね、「よう来てくれたねえ」としきりに私の二の腕をさすった。

 そうしているうちに緊張もほどけてきた。私が力仕事でも何でもするからね、と言うと、伯母さんは子供の頃のように私の頭を撫で、言ったわねーとにやりと笑った。

 とりあえず着替えてらっしゃいと言われ、奥の八畳間をあてがわれた。荷物を置き、ふうと天井を見上げると、子供の胴ほどもある頑強そうな通し柱が縦横に張り巡らされた梁を支えているのが見えた。漆喰塗りの内壁は見事な扇模様に仕上げられ、欄間には細部まで巧な意匠が施されている。その文様は、何となく花をかかげて祈りを捧げる乙女の姿のようにも見えた。

 比良木家はこの町に昔からある名家で、近くにある比羅神社の氏子総代でもある。もとは隠岐に縁起があるという比羅神社は、この地域の氏神として信仰を集め、社殿の建立は室町後期までさかのぼるという。この屋敷自体はそこまで古くはないものの、宮大工の手になるだろう豪奢な軸組作りは、古民家が多く残るこの辺りでさえ珍しい。

 何もかもが、びっくりするほど変わってない。子供の頃に感じた夏休みの解放感がよみがえり、自然と笑みがこぼれた。

 窓側の壁に、千羽鶴の束が二つ飾ってあるのに気がついた。白い漆喰壁に色鮮やかな折り鶴の羽根色がよく映えている。

 私は目を見張った。あれは私が子供の頃からここにある。一つは昔、子宮の病気で入院したおばあちゃんのために、まだ小さかった母と伯母さんがひと月もかけて折ったものだ。鶴の色は年月を経てくすんでいたが十分美しかった。色使いは多彩だがバラバラではなく、上から赤、黄色、緑、青と、少しずつグラディエーションがつけてあり、子供の手作りにしてはよく出来ていた。

 もう一つは富有伯母さんのものだ。伯母さんに子供がいないのは、若い頃、祖母と同じ子宮の病気にかかったせいだと聞いていた。これは手術のために入院した伯母さんのために、まだ幼い私と母とで必死に折ったものなのだ。

 そうだ、おばあちゃんに挨拶しないと――

 私は大急ぎで着替えて八畳間を出た。祖母は腰が悪いので、いつも離れで生活している。私が高校生の時からそうだった。離れは宴会ができるぐらい広い大広間だが、祖母は部屋の隅に小さなちゃぶ台とテレビを置いて、還暦祝いで母姉妹がおくったという電動のマッサージチェアの上にいつもちんまりと座っているのだ。

 私は伯母さんに一声かけ、台所にいるグエンに頼んでお茶をもらってから離れに向かった。ふすまを開けると、案の定、祖母はテレビの方を向いてぼんやりとお昼のバラエティ番組を見ていた。若いお笑い芸人が早口で何か言っている。私に気づいた祖母はゆっくりと振り向き、何や、かおるやったか――と表情も変えずにぽつりと言った。

「え?」

「そういやあんた、俊哉には会えたんかえ?」

 私は思わず言葉に詰まった。何か様子が変だ。あまりに素っ気なく、どう返せばいいか分からない。十三年ぶりに会ったとは思えない口ぶりだ。

 私はにこりともせずに私を見る祖母に引きつった笑みを返した。それから少し息を整えてちゃぶ台の上に麦茶の入った湯飲みを置きながら、何とか「うん、会えたよ。空港まで迎えに来てくれたから」とだけ答えた。

 急に胸がどきどきした。認知症という言葉がふと頭に浮かんだ。まさか私を誰かと間違えているのだろうか。でも香という私の名前だけはしっかり分かっているようだ。

 すると、祖母は母がいつもするように訝しげに片眉を上げて、不思議そうに私の顔をじっと眺めた。それから何かに気がついたようにはっと顔色を変えて、慌てて目を泳がせた。

「ああ、香やったか、かんにんな」

 そう言ってまた前を向くと、黙ったままテレビの音量を上げた。


                 *

 それが本当はいつ頃から始まったのか、少年は知らない。はじめは少年の目には触れなかったし、お母さんも少年には何も言わなかったから。

 だから腹の立つことはあっても、少年は父親を信じていた。家族が壊れるのは一瞬で、壊れたらもう元には戻らない。でもまだ子供だった少年には、そんなことは分からない。

 夕食後のダイニングで、テーブルに少年と父親が座っている。お母さんは背を向けて洗いものをしている。テレビはニュース番組を流しているが、だれも見ていない。

 少年は父親に、何か大事な話をしている。自分の進路のことだろうか。父親は黙ってそれを聞きながら、紙パックの安酒をコップに注いでいる。

 少年は背が高く、お母さんの身長をとうに追い越している。野球をやっているので以前より筋肉がついているが、父親を前にして、少年は少し萎縮しているように見える。少年は顔を紅潮させて、自分の思いを説明しようと懸命に言葉を絞り出している。父親はときおり無言で頷き、無言で首を横に振る。

 少年は忍耐強く言葉をつなぐ。だが父親はかたくなに持論を曲げない。それが理屈に合わないと感じ、少年はつい感情的になって、今まで言ったことのない強い言葉を発する。

 その途端、父親の顔が強張り、席を蹴るように立ち上がる。コップの酒が揺れてテーブルにこぼれる。お母さんが振り返って少年に何か言い、それから父親をとりなす。

 少年が声を荒げる。父親はそれを無視し、お母さんに近づき大声で叱責する。お母さんは父親を見つめ、ゆっくりと諭すように言葉を返す。父親は一瞬言葉に詰まり、顔色が真っ赤に変わる。それから右手を高く上げて、すごい勢いでお母さんの顔に振り下ろす。お母さんは小さく悲鳴を上げる。父親はもう一度お母さんを殴り、お母さんは顔を押さえて台所の床にうずくまる。

「オメエが俺を馬鹿にすっからだ――」と、父親が声を張り上げる。衝動的に、少年は父親の体につかみかかる。体の大きさは、もうあまり変わらない。だが思い切り力を入れているはずなのに、少年の手は簡単に振り払われ、代わりに分厚い平手が少年の頬に破裂する。少年の体はテーブルにぶつかり、食器がいくつか床に落ちて音を立てて割れる。もうやめて――とお母さんが叫ぶ。

「どいつもこいつも俺をなめおって」

 かすれ声で父親がどなる。斜めにずれたテーブルを乱暴に蹴飛ばす。食器がまたいくつか落ちて大きな音が響く。掃き出し窓の向こうで、桃が何事かとこちらを見ている。

 父親は憤然としてコップ酒をつかみ、思い切り床に叩きつける。ガラスが割れる甲高い音が響く。父親はこちらに振り向き、目を血走らせ、失敗作だお前は――と吐き捨てるように言ってダイニングを出ていく。

 少年はみぞおちをナイフで抉られたような気持ちになり、顔を歪めて涙をこらえる。しばらくしてお母さんは起き上がり、何も言わずに割れた食器を拾い集める。少年も黙ってそれを手伝う。頬の痛みはとうに消えているが、心の奥でさっきの言葉が鳴り響き、破片を拾う手が震える。ごめんね――とお母さんの声を聞き、少年は思わず嗚咽を漏らす。

 隣の仏壇で線香の煙が揺れている。テレビが明日の天気予報を伝えている。私は何もできず、ただ涙を流している。


                 4

 まさか、本当に力仕事をするとは思っていなかった。私はぜいぜいと弾む息を整えようと、道の途中で足を止めてそうぼやいた。

 今日もやっぱり真夏日で、額や首筋から汗が滝のように流れた。セミの声がわんわんと耳に響く。思うように動かない足腰に、自分が確かに三十路であるという現実を見た気がしてテンションが上がらない。力仕事でも何でもやりますからなんて、勢いにまかせてあんなこと言わなきゃよかったと少し後悔していた。

 ここに来て今日で三日目だ。私が仰せつかった本日の仕事は、おばあちゃんのお世話と、比羅神社でお祭りの準備をしている漁協の人たちへのお弁当とお茶の支度だった。

 伯母さんは朝から着物を着て、旅館の方に出かけて行った。伯母さんの本業は老舗旅館の女将だから、お客さんのある日はいくら暑くても欠かさずに着物を着て出るのだ。さほど有名な観光地でもないのでいつもは数人の従業員だけで事足りるのだが、例大祭前のこの時期だけは毎年それなりに混むのだという。平日なのでユタカさんは職場の町役場に行ってしまい家にいない。だから基本、家のことは私一人で全てやらなければならなかった。

 午前中だけ手伝いに来てくれるグエンと十人分のお弁当を急いで作ると、お茶と一緒に保冷パックに包んで帆布の手提げバッグ二つに分けて入れた。それを両手に下げ、ひいふうと喘ぎながら、海岸に通じるでこぼこの路地を這うようにして歩いていた。

 比良木家から海岸に出る路地は樹林わきの狭い農道だ。舗装の上のひび割れから夏草が乱雑に生えていた。弁当が重くてすぐに両腕がしびれ、顔を上げると汗が目に入った。それを袖で拭うと、海風に交じって濃い潮の香りがした。

 暑さと重さで気を失いそうになりながら、どうにかこうにか海岸まで辿り着くと、ちょうど漁港の目の前だった。そこからワニの頭のような形の緑の半島が見えた。比羅神社はそのワニの鼻先に位置する。神社に至る道は半島の稜線を伝う細い歩道が一本あるだけだ。あそこまでの遠い道のりを思い、私はどっと疲れを覚えて深いため息を一つ吐いた。

 後ろから軽いエンジン音が聞こえてきた。紫色の原付が私の右側を通り過ぎたと思ったら、数メートル先で停まった。

「おう、香ちゃんやないか」乗っていたのは俊哉さんだった。ヘルメットもせずに赤い野球帽をかぶっている。

「俊哉さん」思わず声がうわずった。「神社にいらしたんじゃなかったんですか」

「ちっと、先代を病院送ってきたんやわ。んで、これから重役出勤」

「お父さま、どこかお悪いんですか?」

「心臓やね」俊哉さんは天気の話でもするように飄々と答えた。「もうずっと前からよ。持病だから、しゃーない」

 俊哉さんはスクーターを降りてしばらく押して歩いた後、漁協のバイク置き場に停めた。

「香ちゃん、神社行くんやろ、船出すから乗ってけばええ」

「え? あそこって船で行けるんですか?」

「半島の先っぽにちっこい船着き場があってな、そっから神社まで直に上がれるんや」

 俊哉さんはそう言うと急に早足になった。真昼の桟橋は静かで船はほとんど出払っていたが、岸壁の隅に小さな赤いボートが一艘だけ係留してあり、俊哉さんはそれに飛び乗った。手慣れた様子でエンジンを始動し、係留ロープをほどきながらこちらを見上げると、エンジン音に負けないよう「はよ乗んね」と声を張った。

 私が乗るとボートはすぐ出船した。

 防波堤を抜けて外海に出た。海は凪いでいたが風は強かった。スピードが上がると船首から白波が上がり、行く手に緑に覆われた半島がぐんぐん近づいて来る。潮風が顔に当たって額の汗があっという間に引いていく。

 半島の木立の隙間から、いぶし銀のような瓦屋根がちらりと見えた。たぶんあれが比羅神社だろう。海側から見るのは初めてだ。

 ボートが半島を回り込むと、海風が真横から顔に吹き付けてきた。途端に髪の毛が舞い上がり、手で押さえてもあらぬ方向に乱れて顔にまとわりついた。

 船尾で操船している俊哉さんがその様子に気がつき、からからと笑いながらこれでも被ってればいいと自分の野球帽を貸してくれた。手を伸ばして受け取ると、その帽子はツバの縁がところどころ破れて、額のところの白いCマークは端っこが剥がれていた。内心苦笑しながらもお礼を言い、帽子の中に乱れた髪をむりやり押し込んだ。

 しばらくしてボートはスピードを落とした。前方に、傾いた桟橋が一つあるだけの粗末な船着き場が見えた。岩陰に入ったので風は静かだった。船着き場の周りは岩がゴロゴロして、背後にはほとんど垂直に見える黄土色の岩崖がそそり立っていた。きっとあの岩壁を登るのだ。私は背筋を伸ばし、深呼吸を一つした。タオルで顔を拭き、借りていた野球帽を脱いで手で髪を整えると、ふと、帽子の後頭部にあたるところに、ひらがなで薄く「かおる」と書いてあるのに気がついた。元は油性ペンで書かれていたらしいが、薄くて今にも消えそうな字だ。

「――この帽子って」

 あーそれなあ、と俊哉さんが小さく笑った。「高校卒業するときだったかな、ダチにもらったんよ。かおるってのはそいつの名前や」

「私と同じ名前なんですね」

「まあ漢字は違うし、そもそもあいつは男だけどな」

 俊哉さんは真剣な顔で舵をちょこちょこ動かし、やがてボートは桟橋の横に滑り込んだ。「それ、カープの帽子やと思うたやろ、でもちゃうんや。真っ赤やからよう似とるけど、レッズの帽子なんやで。知っとっか、シンシナティ・レッズ。メジャーリーグの球団や。あいつ、アメリカにでも行っとったんかもしれんな」

 船着き場につくと、俊哉さんはロープを出して手早くボートを係留した。傍には同じようなボートがもう二艘並んでいる。

 桟橋を下りたすぐのところに、崖にへばりつくように細いはしごがあった。見上げるとはしごの先は岩の向こうに消えている。赤さびの浮いた鉄製の手すりと木製の踏み板がついていたが、とても丈夫そうには見えない。私は唾をのみ込んだ。

 二人一度には登れそうにないので、俊哉さんに先に登ってもらった。弁当はほとんど俊哉さんが持ってくれた。

 えーよーと上から声が聞こえた。私はもう一度深呼吸をしてから、残りの弁当が入った手提げ袋の持ち手に腕を突っ込んで、意を決して錆びた手すりをつかんだ。決して下を見ないよう、一つ上の踏み板だけを見つめながら無心で腕と足を動かした。落ちたら只では済まない高さにいることは感覚で分かった。時々、俊哉さんが上から声をかけてくれた。もうちょっとや、焦らなくてええと言われたが、気持ちが萎えないうちにと急いで登った。

 やがて頭上から、金属を叩く音と大勢の人の声が聞こえてきた。その声に鼓舞されるように息を切らせてようやく登りきると、木立ちの隙間から明るい広場が見えた。

 そこにあるものを見て、私は思わず声を上げた。

 社殿正面の砂利敷きに、屋根付きのステージが作られていた。基礎を打ってないのであくまで仮設だが、外観はお堂のような格好の正方形のあずまやで、四隅には大人の胴ほどもある太い丸柱が立ち、それよりも少し細いだけの筋交いが三方の柱どうしを斜めにつないでいた。舞台の上には本物の無垢板が張ってあり、社殿と同じような緩いカーブを描く切妻屋根には、模造とはいえ瓦が張られている。田舎神社の夏祭りで二日間だけ使うとは思えないほど、大きくて立派なステージだった。

 ここは毎年例大祭が執り行われる祭りのメイン会場だ。たしか以前に来た時は、初日は子供たちの奉納相撲があり、二日目は神事のあと、老若男女が夜中まで歌って踊るという気の遠くなる催しがあったはずだ。

「立派なもんやろう。比羅権現は漁師の守り神やで、土建屋なんぞには任せられんのや」

 俊哉さんは自慢げにそう言いながら、弁当の入った手提げ袋を社殿の石階段の上に置いた。それが合図にでもなったらしく、ステージ周りのそこかしこから、まるでかくれんぼを終えた子供のようにわらわらと作業員が湧いて現れた。揃いのベージュの作業服を着ているが、みんな顔が真っ黒に焼けている。元は海の男なのだ。めしだめしだと口々に言いつつ群がってくる彼らに労いの言葉をかけながら、私は弁当とペットボトルを配った。

 男たちは玉砂利の上にブルーシートを敷いて腰を下ろし、車座になって弁当を開いた。皆、いただきますを言うが早いか一心不乱に白飯を掻き込みはじめた。

 俊哉さんはゆっくりと焼き玉子を箸でつつきながら、そういえば、とぼそりと呟いた。

「香ちゃんて、何の先生なんだっけ」

「あ、はい、えっと一応、中学で理科を教えてます」

 すると、斜め前に座る髪を金色に染めた若い作業員が、すっげ、アタマいいんすねーと、冷やかすように口を挟んだ。

「いえ、そういう訳じゃなくて。ただ、他にやれそうなこともなかったから」

 それは本当のことだ。大学で理学部に入ったのは単にそこしか受からなかったからだし、教職についたのも、就活が面倒だったことと、他より安定していると思ったからだ。

「でも物理とかおもろいやん。俺、高校んときはけっこう得意科目やったよ」

 俊哉さんがおどけたようにそう言うと、誰かが、保健体育の間違いでしょーとからかい、一同がどっと笑った。そのうち俊哉さんよりだいぶ年上に見える禿頭の作業員が、でも支部長、船のエンジン弄ったりするの好きだったですもんね、と納得するように頷いた。

「なんて言いましたっけ、あの外資系の工作機械メーカー。たしか内定出とったでしょう。あそこ入っとったら、今頃えろうなって背広着て外人相手にちゃきちゃき商売しとったんかもしれんし、ほんとはちょっと後悔しとるんやないですか?」

「アホなこと言わんといてくれノブさん、後悔なんぞしちょらんわい。俺あ、ここで漁師しとるんが向いとるんや」

 鮭の切り身をほぐしながら、俊哉さんは言い訳をするようにぼそぼそと続けた。「あんときは先代もまだ元気やったし、いずれ戻って漁師継ぐにしろ、しばらく東京で働いてみようかと思ったんよ。俺もガキやったしな、若気の至りってやつや。でもまあ世の中にはな、仕方のないことだってあるんや」

「何言うとんのですか。あんなかいらしい奥さんもろうといて、ええ人生やないですか」

 ノブさんと呼ばれた年配の作業員がそう言って梅干しの種を吐き出すと、俊哉さんは無言で肩をすくめた。

「つうか、支部長がサラリーマンとかありえないっしょ」

 上っ調子な声がして後ろを振り向くと、早々と弁当を食べ終えたさっきの金髪の若者が車座から少し離れた石段の上で大股を開き、煙草を吸っていた。

「支部長みたいな人が海から上がってオカで仕事したって、一年と持たんでしょ。そんなん絶対無理に決まってますやん。だって俺、漁協の机に支部長が座ってるところ1回も見たことないですもん」

 そりゃあ、お前が事務所に来ないからだ、と俊哉さんは静かな声で愉快そうに肩を揺らした。若者の生意気な発言を咎めないのは部外者の私がいるからだろうか。でも俊哉さんは笑みを浮かべてペットボトルを飲み干すと、冬眠開けの熊のようにのっそりと立ち上がり、金髪に向かって地の底から響くような低い声でこう続けた。

「――それにな、俺かていつも金の計算ぐらいしちょるんや。それが支部長の努めやからな。あったり前やろう。お前ら責任もって食わすってのはそういうこっちゃ。分かったらいつまでも下らねえこと言ってねえで、とっととメットかぶって作業にもどっぞ」

 それを聞いて、金髪は顔を強張らせながら慌てて煙草の火をもみ消した。


                 *

 誰もいない廊下をふわふわと歩く。父親はもう長いこと帰ってきていない。静まりかえった家の中を、どこからか月明かりが射し込んで足元を青白く照らしている。何かに惹きつけられるように、少年の足は自然と台所へ向く。

 珠暖簾の向こうで、台所の出窓から射し込む月光をバックにして黒い人影が見える。それがお母さんの姿だとすぐに分かるが、何をしているのかまでは分からない。まるで息をしていないかのように、お母さんはテーブルのそばに静かに立っている。

 お母さんは何かを持ってうつむいている。その影がわずかに動き、手の辺りが月明かりの反射できらりと光り、輪郭が浮き上がって、ようやくお母さんが持っているものが何なのか分かる。それは、いつもベランダに置いてある鉢植えに見える。お母さんが大切にしているあの菊――それは根鉢を外したらしく、丸い球根には土がついている。

 なぜそんなことをするのだろうと考える。でも答えは思いつかない。

 空気は張り詰めているのに、霞がかかったように台所全体がどんよりとぼやけている。お母さんは手の中のものをそっとさすっている。見てはいけないものを見ている気がして心臓が高鳴り、ぐにゃりと視界がゆがむ。ふと、いつか見た伯母さんのなんとも言えない表情を思い出す。

――この子が女の子だったら、サルビアの花でも買ってあげたのに――

 声をかけられずにいると、お母さんは少年の視線に気がついて、ハッとしたようにこちらに顔を向ける。月の光が台所に満ちあふれて、少年は一瞬目がくらむ。

 ごめんね、起こしちゃったわね――と、遠くの方から細く低い声が聞こえてくる。その声がわずかにうわずっていることに私は気づく。


                 5

「もしもし、お母さん、私だけど」

「ああ、香? はいはい、お母さんですよ」

「月曜日に帰るけど、花の世話、してくれてるよね」

「え? えーと、まあ、ぼちぼち」

「……お母さん、やってないでしょ」

「やってるって。この子はまったく、親が信用できないのかしら」

「信用したいからこうやって確認の電話してんじゃない。ほんとにもう、ちゃんとやってよね、お願いだから」

「分かったからそう喚かないで。あんたこそ、そっちでちゃんとやってるんでしょうね。後で笑われるのはお母さんなんだからね」

「人をいくつだと思ってんのよ。私はしっかり仕事してますから。心配ご無用よ」

「そうならいいけど。それで、おばあちゃんは元気なの?」

「あー、それなんだけどね、おばあちゃん少しボケちゃってるかもしれない。こないだも私のことを誰かと間違えてたし」

「あらまあ大変。でもあんたに会うのが久しぶりだったからじゃないの?」

「どうだろ。でも私が香だってことは分かってるみたいなのよ。私のこと『かおる』って呼んでたし。でも誰か違う人だと勘違いしてたみたいな」

「何だかよく分かんないけど、確かにちょっと心配だねえ。ああいうのって急にくるっていうし、私も足治ったら一度帰るようにするよ」

「うん、そうして。あ、それからさ、昨日、佐藤さんと話ししたよ」

「佐藤さんてどの佐藤さん?」

「俊哉さん」

「ああ、あいつね」

「何? 優しそうな人じゃない」

「優しいっちゃ優しいけど、野球のことしか頭にないよ、あれ」

「まあ、確かにそういうところはあるかも」

「俊哉がどうかしたの」

「話した時にちょっと聞いたんだけど、何かね、若い時に東京行きたかったらしいよ。漁師の仕事継ぐ前に、機械メーカーの会社に入りたかったみたい」

「ああ、何か聞いたことある、その話。ああ見えてけっこう理系科目は得意だったし」

「うん、機械いじり好きだったって言ってた」

「東京行って大きな会社で自分を試したかったんだろうね、でも確かおじさんの心臓の具合が悪くて、すぐ後を継がなきゃいけないから地元に残ることにしたって聞いたよ」

「あー、そういうことだったのね」

「あたしは会ったことないけど、何か高校の時に知り合った友達が俊哉の家に遊びに来たとき、おじさんの顔を一目見て、心臓悪いのズバリ言い当ててくれたんだって。早期発見だから大したことなくて済んだみたいだけど、半年遅れてたらヤバかったみたい」

「へー、すごいねそれ、お医者さんの息子か何かなの? そのお友達」

「さあ、でも身内に似たような症状の人がいると分かっちゃうんじゃないの」

「そっかあ、なるほどねえ」

「どしたの? 神妙な声だして」

「いや、なんかさ、俊哉さんのああいう話を聞いてるとさ、私なんか東京で生まれて東京で育ったけど、なんか適当に生きてるなーなんて思うわけよ。継がなくちゃいけない家業もないし、親は好きな学校行けって言ってくれるのに、特にやりたいこともなくて、ろくに勉強もしないで、何となく行けそうな大学いって就職しましたとか、人生なめてるなとか思うわけですよ」

「そうだね、香は人生なめてる」

「ちょっと何それ」

「まああんまり思いつめなさんな。手伝いで忙しくて疲れちゃってんじゃないの」

「そうかもしんない。そういえば最近さ、変な夢見んのよ。それに俊哉さんが出てきたような気がするんだよね」

「あらら、ダメよおあんた。あいつまだ新婚さんなんだから」

「やめてよマジで」

「それで、どんな内容なの」

「何が?」

「だからその夢」

「ああ、覚えてない。イメージだけ。でもあんまりいい夢じゃなかった気がする」

「まあ、夢ってそんなもんよね」

「あのさ、俊哉さんって、子供いないよね」

「そのはず。結婚したの遅かったし、なんで?」

「わかんないけど、その夢に俊哉さんの子供が出てきたような気がするんだよ」

「あのねえ、あんた、不倫はダメだからね」

「だから違うっちゅうのに」

「ははは。そういえばさ、あいつ昔言ってたよ」

「何を?」

「将来、自分に子供ができたら、いっしょにキャッチボールがしたいんだってさ」


                 6

 夜明けまで降っていた雨も朝には止んでいた。透きとおるような夏空に、祭り囃しがこだましている。おもて通りには午後の早いうちから屋台がならび始め、浴衣姿の人々が海の方に向かって歩いていくのが窓から見えた。

 祖母が奉納相撲を見たいというので、私は急いで用事を済ませると、ユタカさんに頼んで車を出してもらった。祖母には藍染めの浴衣を着せて、介添えしながらゆっくりと車椅子に乗せ、車の後席に運んだ。

 半島前の駐車場で車を降り、車椅子を押してやっと神社につくと、もう奉納相撲は始まっていた。仮設ステージはすっかり完成していて、軒先から四方に向けて提灯飾りが伸びていた。ステージ上には簡単な土俵が作られ、小学生らしき子供がまわし姿で相撲を取っている。その周りは子供たちや大人たちが幾重にも囲み、歓声を上げて応援していた。土俵のすぐ脇に、赤い野球帽をかぶった俊哉さんの姿も見えた。

 車椅子には日除けのフードがついていないので、少しでも暑さを避けようと、私は境内に立つ大きな黄心樹オガタマノキの下に涼を求めた。この木は子供のころから知っている。本当かどうか知らないが、比羅神社が創建された頃からあるという伝説の木だ。

 私は水筒の蓋をコップ替わりにして冷えた麦茶を注ぎ、祖母に「飲む?」と訊いた。祖母は「ん」と言ってそれを受け取り、口をつけた。

 突然、大きな歓声が聞こえた。見ると小学生とは思えないほど体格のいい子供が二人、土俵中央でがっぷりと四つに組んでいた。その周りをコスプレのように行司の恰好をした大人が、のこったのこったと言いながら細かく動き回っている。

「かおる」

 祖母が、コップを私に返しながら何か言った。祭り囃しと歓声に紛れて良く聞こえないので、私は祖母の口元に耳を寄せた。

「香、あんた、大事ないかえ?」

 誰かと私を間違えている様子はないが、現実をどこまで理解しているかは分からない。

「大丈夫よ。私もお母さんも、何にも心配いらないから」

 祖母は土俵から目を逸らさずに小さく頷いた。車椅子の中にすっぽり収まっている祖母を見て、小さくなっちゃったな、と思った。

「あんたは、比良木の女なんやから」

「え」

 祖母は皺だらけの手を、宝物に触れるようにそっと私の手に重ねた。

「あんたは比良木の女なんやから、きつかったらいつでもやり直せばええんや。ほいで、いつでもこっちに戻ってきてええんよ」

「うん、そうするよ」

 私がそう答えると、祖母の目尻に深く皺が寄った。

 やり直せばいい、か――

 私にはきっとその言葉の本当の切実さは分からないのだろう。祖母が若い頃に味わった辛苦は母からことあるごとに聞いて知っていた。祖母は跡継ぎの男子を産まないことで婚家との関係がうまくいかず、夫を早くに亡くした後も、周囲からの苛烈ないびりに耐えながらほとんど女手ひとつで子供二人を育てたのだ。私は急にたまらない気持ちになり、祖母の手を握り、顔と顔を近づけて、女友達と秘密を共有するようにそっとささやいた。

「おばあちゃんはさ、つらい時、やり直したかった?」

 祖母はわずかに身じろぎし、「どうやったかなあ」と、小さなため息を一つ吐いた。それから少し時間を置いて、「そないな昔のこと、忘れてもうたなあ」と言った。

 急に歓声が大きくなった。一人の子供が砂まみれになって土俵に仰向けになっている。コスプレ行司がもう一人の子供に軍配を指し、勝ち名乗りを上げた。

「うちはな、お菊さんにお願いしたんや。やり直さんでええから、男の子を授けてくださいってな」祖母はつぶやくようにそう言った。

「でもしゃあない。いくらお菊さんでも、できることとできないことがあるでなあ」

 それから、祖母は目を閉じて、ふうーと深く長いため息を漏らした。私はもうそれ以上何も訊かず、ただ祖母の乾いた手を握っていると、やがて車椅子の中から静かな寝息が聞こえ始めた。

 土俵の方から、ひときわ大きな歓声が沸いた。

 太陽が動き、木陰の位置が少しずれて車椅子に陽が当たりはじめたのに気づき、私は祖母を起こさないように、ゆっくりと車椅子を動かした。


                 *

 古いアルバムをめくり、少年は思い出を心に焼き付ける。最後のページから、時間をさかのぼるように逆にたどっていく。

 黒い学生服を着た少年が、お母さんと並んで校門の横に立っている。少年の顔は固く、緊張している様子が見てとれる。校庭には散り始めの桜が写っている。

 少年はゆっくりとページをめくる。少年野球のユニフォームを着た少年が、バットを肩にかけてピースサインをしている。試合の後なのだろう。ユニフォームの膝が土埃で汚れている。隣の父親が誇らしげな様子で少年の肩を抱いている。

 またページをめくると、浴衣を着た少年がホテルの窓際の椅子に座り、黄色いジュースを飲んでいる姿が目にとまる。少年の顔はさっきより幼い。たぶん草津温泉だ。少年が小学生の頃、家族旅行で訪れた淡い記憶がある。

 誕生日の写真もある。ろうそくの消えたバースデーケーキの前に座り、隣にはお母さんがいて、少年と顔を寄せ合っている。二人とも笑っている。少年の頭には、父親にもらったばかりのぶかぶかの赤い野球帽が乗っている。

 そして、海水浴場の写真で少年は手をとめる。どこの海かは覚えていない。水平線をバックに、膝まで海水につかった父親の肩の上に乗る幼児の後ろ姿が写っている。たぶんあの時、浜辺からお母さんが撮ったのだろう。

 なぜお母さんがあの父親と結婚したのか、少年は伯母から聞いて知っている。高校を卒業して上京したお母さんを、田舎から父親が追いかけてきたのだそうだ。小さい頃から野球ばかりやっていた背の高い一重瞼の同級生。知り合いが誰もいない東京で、お母さんにとって幼馴染みの存在はさぞかし心強かったはずだ。

 少年は目を伏せて、そっとアルバムを閉じる。

 失った過去を探しても、意外と涙が出ないものだと少年は思う。けれどもすぐ、そんな時期はもうとうに過ぎていることに気づき悄然とする。

――かおる。

 私はたまらなくなって声をかける。少年はハッとしたように顔を上げ、後ろを振り向いて辺りを探る。けれど少年の目は絶望の色に深く沈み、何も見えていない。

 僕が失敗作だから母さんが苦しむんだ――そんな感情が私の心に流れ込んでくる。それは違うよと私は叫ぶが、その声は少年には届かない。


                 7

 例大祭の二日目は午前中に神事があるので、伯母さんとユタカさんは支度をして朝早くに出ていった。私は家に残って祖母の食事の世話をし、のんびり庭木の手入れをしていると、ユタカさんだけが戻ってきた。お昼の少し後だった。

 宴会が始まったので逃げてきたのだそうだ。ユタカさんはお酒が飲めない。その言い訳に、祖母を病院に連れていくのでと言って抜けてきたらしい。

「だから香ちゃんもお祭り行っておいでよ」と、紋付きの襟を緩めながらユタカさんが言った。私は曖昧に頷いた。確かに、家に誰もいなくなるのに私だけ残るのも変だ。

 私はユタカさんのために簡単な昼食を作ると、小奇麗な格好に着替え、軽く化粧をしてから家を出た。行っておいでと言われても遊びに行くわけではない。祭りの世話役である富有伯母さんを手伝ってあれこれと雑用をすることになることは分かっている。

 道すがら、どん、どどんと太鼓の音が聞こえた。ワニの背中をつたって比羅神社につくと、境内は町の人口が全て集まったかのように賑わっていた。ステージの上にはカラオケ機が置かれ、どこかのオバチャンが古い演歌を歌っている。境内の一角に生成色のテントがいくつか張ってあり、パイプ椅子に座った年寄りたちが談笑しながら酒を飲んでいた。

 伯母さんはいつもの水色の着物姿だった。テントの陰でスマホをいじっている。駆け寄って声をかけようとした瞬間、私のポケットの中で着信音が鳴った。

 その音に気づいた伯母さんがこちらを振り向き、私の姿を見てにんまり喜色を浮かべた。

「ちょうど良かった。今あんたを呼ぼうとしてたところなんよ」

 伯母さんは既にやり手女将の目になっていた。一瞬で私の格好を確認し、軽く頷くと、早口でまくし立てた。「鳥居のところにお料理が届いてるから、グエンと一緒に配膳を手伝って頂戴。社務所に紅白饅頭が用意してあるんでそれと一緒にね。あとビールも」

 その他にいくつか用事を指示すると、「うちはちょっと議員の先生を送ってくる。戻ったら、年寄りの面倒はうちが見るから」と言って、バタバタといなくなった。

 境内にはグエンの他にも幾人もの女性たちがいたが、明らかに手が足りなかった。

 私は言われた通りに料理と饅頭を配り、ビールを運んだ。人で溢れる境内を移動するのはどうしても時間がかかる。私は盆を落とさないよう人混みを縫ってそろそろと歩いた。

 言われるままにテントからテントに飛び回り、空いたビール瓶を片付け、次から次へと出てくる料理を運んだ。予想以上の人出で境内はごった返しており、なかなか配膳が終わらない。それでもビールはあらかた行き渡り、既に一升瓶を抱えて真っ赤な顔をしている一群もちらほら見られた。こんな昼間からすっかり出来上がって嬌声を上げている。確かにこの状況は下戸で大人しい性格のユタカさんには苦痛だろう。

 時々私にも酔った老人が何か絡んできたが、訛りがひどく、何を言っているのか半分も分からなかった。私ははいはいと言いながら適当に流していたが、グエンはしっかり聞き取れているようで、配膳しながら時々彼らと談笑して盛り上がっていた。

 しばらくして、二つ向こうのテーブルでお酌して回っている伯母さんと目が合った。このテントの配膳はあらかた済んでいたので、私もビール瓶を持って酌を手伝った。そのうちグエンも合流し、一応、全員のお酌が終わったところで、キガエテクル――と言ってグエンはばたばたとテントを出て行った。

 何とか修羅場は過ぎたようだった。一人になった途端どっと疲れを感じ、ぐうとお腹が鳴った。そういえばまだお昼を食べていなかった。私はそばのパイプ椅子に座り、目の前にある皿から唐揚げを一つつまんだ。

 しばらくの間、ぼんやりとステージ上でポップスを歌う若者を見ていると、ビール瓶を持った伯母さんに肩を叩かれた。

「お疲れさま」伯母さんは隣に座り、紙コップにビールを注いだ。

「だいたいみんな出来上がってきとるし、もう十分でしょ。こっちも適当にやりましょ」

 伯母さんの頬はほんのり色づいていた。お酒のせいか表情もいつもより柔らかく、口調も少し艶っぽい。

「ほら、香ちゃんも飲みなさいな」

 伯母さんはそばの紙袋から紙コップをもう一つ取り出してビールを注ぎ、ぎりぎり泡があふれない塩梅にして、私の手元に置いた。「あんたのおかげで助かったわ」と、自分のコップを私のコップに軽くあてた。

 私は礼を言い、コップを持ってほんの少し口をつけた。あまり得意でない種類の苦みが口に広がる。お酒が飲めないわけではないが、コップに半分も飲むと顔が真っ赤になってしまうのは父親譲りだ。

「明日帰るの?」

「はい、さすがに母が心配ですから」

 もちろん、本当に心配なのは花たちの方だ。伯母さんはカンパチの刺身を紙皿に取ると私の前に置いた。獲れたてらしく身が艶々と輝いている。私はちょこんと頭を下げ、体を伯母さんの方に向き直した。自宅の花も心配だが、もっと気になるのは祖母のことだ。帰る前に、やはりちゃんと言っておいた方がいいだろう。

「おばあちゃんのことなんですけど――」私は言葉を選びながらおずおずと口を開いた。「この前、私を誰かと間違えたみたいなんです」

「あらやだ。まさか、ボケが始まっちゃったんかしら」

「そこまでは分かりません。でも、私のことをずっとここにいる人みたいな言い方で、あんた、俊哉とは会えたのかって」

 すると、伯母さんは急に息を止めたような顔になった。しばらくの間、考え込むように斜め下を向き、それから何か言おうとして、少し口籠もった。

何かまずいことを言っただろうか。私は慌てて、あの――と、取りなすように続けた。祖母が私を誰と間違えたか、何となく見当はついていたからだ。

「あの――かおるさんって、俊哉さんの古いお友達の方ですよね」

 伯母さんはますます苦笑いのような顔になった。そしてうんうんと大きく頷くと、帯の間からスマホを取り出して手書き入力画面を立ち上げ、大きく〝薫〟と書いた。

「そやね、でも、あんたとは字が違うのよ」

 その字には見覚えがあった。そして身に覚えがあった。それは母が私を名付ける際に最後まで迷っていたという字だ。子供の頃から知っている特別な漢字。もし私がこの字を名付けられていたとしたら、どんな人生を送っていただろうと考えたことが何度もある。

「俊哉さんから、その方がきっかけで地元に残ることになったって聞きました」

 そう――と伯母さんは声を落とした。「薫くんがここに来なかったら、俊哉はきっと東京には行っとらんかったやろね」

 その頃、東京には母がいたはずだ。俄に喉の渇きを感じ、私はビールを喉に流し込んだ。

「あの子はね、ただの観光客だったんよ」

 伯母さんは私のコップにビールを注ぎ足した。私は慌てて両手を添えた。

「どこから来たのかは知らんけど、ある日突然、ふらりとこの町に現れてね、佐藤俊哉とキャッチボールしに来たっていうんよ。まあ俊哉はちょっとは野球で有名だったからファンの一人かと思うたら、そういう訳でもないみたいで。でも俊哉も俊哉でね、約束もなくいきなりやってきた初対面の薫くんと、すぐによっしゃってキャッチボール始めんのよ」

 私は思わず吹き出してしまった。

「変な人ですね、薫くんも、俊哉さんも」

「せやろ? でもね、俊哉のやつ、その時から薫くんのことたいそう気に入ってね、性格とか、野球のセンスとか、俺はキャッチボールするとすぐ分かるんや、あいつは優秀な指導者にきちんと仕込まれた真っ当な野球少年や、ってね、そう言うの。それで親友みたいに仲良くなって、毎日軽トラで連れ回しとったわ。あたしも何だか他人みたいな気がせんでね、旅館の仕事を手伝わせるかわりに、しばらくうちに泊めとったんよ。薫くん、顔立ちがどことなくおばあちゃんに似てたし」

「おばあちゃんに似てたって、それって――」

 そのとき突然、リズミカルなマラカスとドラムの音が響きわたった。一瞬の沈黙のあと、続けて境内全体が爆発したような大歓声が沸き起こった。

 参道の奥から、佐藤夫妻が腕を組み、ステージに向かってゆっくりと歩いて来るのが見えた。俊哉さんはラメ入りの白いタキシードを、グエンはエメラルドグリーンのアオザイを着ていた。二人とも髪をきっちりセットし、濃い舞台化粧をしていた。ステージ周りはまるで映画スターを迎えたかのように盛り上がり、そこかしこから、支部長! 奥様! と冷やかすような掛け声がかかった。声援に応えて二人は笑って手を振り、気取った様子で体を揺すりながら花道を歩いていた。

 二人は手を取り合ってステージに上がると、背筋を伸ばして向かい合い、見つめ合った。聞こえるのは軽快なラテンのリズムだ。タイトルは知らないが聞いたことがある曲だった。次の瞬間、二人はその曲に合わせて踊りはじめた。色とりどりのライトの中で切れのあるステップを刻み、激しく体をひねり、跳躍し、からみ合った。衣装の裾をなびかせて派手なスピンを決めると、割れんばかりの拍手が巻き起こり、会場はおおいに沸いた。

「あの二人、去年から社交ダンス始めたんよ。大会にも出てるんやって」

 呆然としてステージに見入っている私の耳元に口を寄せて、伯母さんは静かに言った。

「薫くんはね、たぶん菊を使ったんやと思う」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。私は伯母さんの顔をじっと見つめた。「菊って、母のあの鉢植えのことですか」

「そう」

 伯母さんは手酌で自分のコップにビールを注いだ。

「夏枝からまだ何も聞いちょらんのね」 伯母さんは言葉を探して黙り込む私の答えも待たず、わずかに口角を上げて、まあいっかと微笑した。

「菊いうんはね、世界中のどの図鑑にも載っとらん花やの。正式な名前さえついてないから、とりあえずうちらは“菊”と呼んどる。元々は比羅神社がまだ隠岐にあった時に、宮司の妻が比良木の家に嫁ぐ娘に秘かに渡したもんらしいんやけど、それが比良木の女たちに代々受け継がれとるんのね」

 伯母さんはそこまで言って目を伏せ、ビールを一口、ごくりと飲んだ。私は周りから聞こえてくる歓声で声が聞こえにくいので、椅子を少し伯母さんの方へ寄せた。

「あれの根っこはね、タマネギみたいになっちょるの。たくさんの皮に包まれた球根ね。でもタマネギと違うのは、栄養じゃなくて時間を貯めとるいうこと。タマネギの皮みたいに、時間を少しずつ巻き付けながら生長しちょるってことなんよ」

 私は息を呑んだ。何かの比喩かと思ったが、そういう訳でもないようだった。伯母さんは今、何か突拍子もないことを言っている。でもふざけているようには見えなかった。ステージからはまだラテンのリズムが鳴り響いているが、もう耳には入らなかった。

「昔も今も、生きてれば必ず辛いことがある。こんな田舎で女に生まれて育ったならなおさら。だからね、菊の持ち主が、どうしても人生に耐えられんようになったら――」

 それから伯母さんは私に耳に口を寄せて、これ以上ないぐらい小さな声でささやいた。

「――人生がどうしても辛かったら、菊を鉢からはずして、その球根の皮を剥いでね、剥いだ皮をそのまま噛まずに呑み込むの。そうすれば、貯まっていた時間が体にしみこんで、その分だけ体は時間を取り戻すことができる。失った人生をやり直すことができる――」

 頭がくらくらした。やり直すという言葉を、昨日祖母からも聞いた気がする。

「タイム……マシンみたいなもの、ってことですか」

「まあ、そういうこと」

 伯母さんはもうひとくちビールをあおり、ふうと息を漏らした。かすかに酒の匂いが漂ってくるが、受け答えはしっかりしていた。酩酊しているようには見えなかった。

 信じがたい話だが、伯母さんを相手に〝迷信〟という言葉だけは使いたくなかった。私は生徒たちの進路の相談にのる時のように、慎重に言葉を選んだ。

「植物は体内に様々な化学物質を持っているそうです。例えば、タマネギを切ると自然と涙が出たりするみたいに、そういう物質が人間の体に勝手に作用してしまうこともあるのだと思います。だから、もしあの花の球根を食べて過去に戻れたと思ったなら、そういうふうに脳に感じさせる何かが球根の中に含まれているのかもしれません」

「そうやね、うん――」伯母さんはこちらを見てわずかに頬を緩めた。

「たぶん、香ちゃんの言う通りなんよ、きっと。でもね、こんなところで何十年も昔ながらの生活を続けとると、たとえ迷信でも、それが本当やと思ってしまうもんやの。夏枝が東京であんたみたいな可愛い娘に恵まれて、俊哉もあんなふうに笑って踊っていられるのはきっと菊のおかげ。うちはね、そう信じちょるんよ」

 伯母さんはきっぱりとそう言うと、手元のビールを一気に飲み干した。

 佐藤夫妻の社交ダンスは、いつのまにか三拍子の優雅な曲調に変わっていた。軽やかなメロディにのって二人はステージ上を人形のようにくるくると回っていた。俊哉さんは優しくグエンをリードし、グエンはそれに応えて滑るようにステップを踏んでいる。鮮やかな民族衣装に身を包んだグエンは、まるでステージを舞うエメラルド色の蝶のようだった。

「菊はね、世界中にたった一つしかない。それが代々、比良木の女に受け継がれとる。男たちは菊の正体を知らない。知られてはいけん。知られたら、きっと奪われてしまうから。そやからうちらはずっと守ってきた。それやのに、あの日、薫くんがやってきた。枯れた菊を持って――」

 伯母さんは空のコップを両手で弄んでいた。瞳はじっとステージを見つめている。提灯の明かりに照らされたその横顔はつるりとした陶器のように見え、血の気がなかった。

「薫くんが本当は何者やったんか、あの子の将来に、もしかしたら夏枝の将来に何があったんかは分からん。でも薫くんは菊の秘密を知って、何かを変えたくてここに来たはず。うちは怖くて、結局あの子に何も訊けんかったけど、俊哉やあんたたちの顔を見てたら、これでよかったんや、きっとあの子の望みは叶うたんやって、そう思ってしまうんよ」

 伯母さんはそこまで言うと、コップをテーブルに置いて大きく息を吐いた。私は高鳴る鼓動を気取られまいと、裏返りそうになる声を何とか抑えながら、小さく訊いた。

「伯母さんは……使おうと思わなかったんですか? 昔、辛かったときに」

「菊なんか使わんでも、うちはいつだってやり直せるんや」

 伯母さんは悪戯っぽい顔でそう言い、それから椅子の背にもたれて、それに――と、低くはっきりとした口調でこう続けた。

「薫くんがいなくなる前の日にね、あの子、うちにこう言うたんよ。ここに来れたのは、あなたのおかげですって。母もばあちゃんも、誰も教えてくれんかったから、僕はあなたに教わったんですって、あの子はそう言うたんよ。だから、秘密を漏らしたうちにはあんたたちを見届ける責任がある。うちはな、そんなふうに思うとるんよ――」


 日はすっかり傾いて、境内は提灯の灯りに照らされていた。伯母さんはやはり少し足元がふらついていたので、ユタカさんに頼んで迎えに来てもらった。ステージ上には、聞いたことのない外国の歌を並んで歌うグエンと俊哉さんの姿があった。私は食器を片付ける手を止めて、少しの間、その姿に見入っていた。

 ひとつだけ、私は嘘をついていた。

〝薫〟を、私は知っていた――自分と同じ呼び名を名付けられた少年のことを、私と良く似た顔立ちの少年のことを、ここに来るずっと前から。

 現実だとは思っていなかった。でもそれが夢の中の出来事なのか、遠い昔に聞いた誰かの物語なのかは分からなかった。

 でもそれは、鮮明に私の記憶に残っていた。その中で私たちは確かに一つだった。あの少年と共有した苦しみと痛みは、今もなお私の内奥に深く濃く沈殿している。それほどまでにリアルな感覚だったのだ――とても信じられないほどに。

――今でも、信じることなどできない。それでも、理解することはできた。

 おそらく、薫がここに来た結果として母は父を選び、私はこの世に生を受けたのだ。

 その選択の果てに今がある。けれど薫にとって、それは大きな賭けだったはずだ。目の前の現実から逃れても、もっと重苦しい未来が待っているかもしれなかったのだから。

 だがもう私には分かっていた。薫はいつも赤い帽子をかぶっていた。かつて若き日の俊哉さんがアメリカで手に入れ、まだ幼い薫に贈ったのだろうシンシナティ・レッズの野球帽。薫にとってそれはきっと、家族がまだ幸せだった日々の残滓だったに違いない。

 だからこそ薫は、父親と別れを告げるためにここに来たのだ。菊を使い、父親から逃れ、母の人生をやり直すために。そして、あの帽子を父親に返すために。

――けれど、それだけだろうか。

 それだけではなかったのかもしれない、と私は気づいた。

 薫はただ、昔のように父親とキャッチボールがしたかったのではないか。そしてその思いを共有するために、私は薫と出会ったのではないか――


 社殿の向こうの夕空は深い菫色に染まり、雲の隙間にわずかに欠けた月が浮かんでいた。小さなコウモリが数羽、ひらひらと羽ばたいて森の奥へと飛んでいった。心地よい海風が頬をなで、前髪を小さく揺らした。宴はいまだ終わる気配がなく、祭り囃子とカラオケの音が入り交じり、派手な浴衣を着た人々が次々と訪れては消えていった。

 いったい薫は、今、どこにいるのだろう。彼には帰る場所などないはずなのに。

 私は急に息が苦しくなって、胸に手を当て、きつく目を閉じ、唇をかんだ。この世界にはもう彼の存在は許されない。未来を変えたことで、きっと彼は消えてしまったはずだ。母の人生を取り戻すために、彼は自分自身という代償を払ったのだから。

 その時、ひとつの考えがひらめいた。

 それはバカバカしい冗談のような、それでもなお消えない希望のような想像だった。脳裏に、誕生日の夜にした母との会話が浮かんだ。


――質量保存の法則ってのがあんのよ。


 そうだ――全ての質量は必ずどこかに保存されている。突然消えてしまうことなど決してない。見えないのはただ、姿かたちを変えているからに過ぎない。

 私は大きく息を吐き、やっとのことで瞼を開いた。もう一度空を見上げ、月明かりが目に入ると、わずかに世界が滲んで見えた。

 ふと、赤い野球帽の少年とキャッチボールをしている少女の姿が思い浮かんだ。それは母のようでもあり、私自身のようでもあった。

 私たちは異父兄妹――あり得たかもしれないもう一人の自分だ。けれどもかつて分流した二つの川は、質量を失うことなく形を変え、時を超えて、いつかまた一つに合流するかもしれない。

 それは予測できない化学変化の連鎖の果てに、たった一滴したたり落ちるかもしれない可能性という名の小さなしずくだ。でももう答えは出ているはずだ。きっと、自分が望んだとおりに――母ならそう言って笑うだろう。私には、それがとても愉快な考えに思えた。

 だから私も、声を出さずに笑った。そしてその水を両の手のひらでそっとすくい、いつかどこかで、本当にそうなりますようにと、心の中で菊に祈った。


                 8

 まどろみから覚めると、どこからか笑い声が聞こえた。もしかしたら僕には姉がいるのかもしれないと、ぼんやりと思う。

 かろうじて保っていたかすかな記憶が少しずつ解像度を失い、僕はすがるようにそれを手繰り寄せた。自分が消える感覚を思い出す。時のはざまに落ちたあの瞬間、目の前が暗くなり、肉体の感覚がなくなり、そして――

――ここはどこだろう。

 見覚えのある、でもどこかが違う天井だった。広い畳の部屋の真ん中で、僕は布団に寝かされている。胸には柔らかなタオルケットの感触。左側の窓から午後の日射が室内に差し込んでいるが、ここまで届いていないのでまぶしくは感じない。

 窓の横の白壁には、立派な千羽鶴がひと束架かっていた。そして窓辺の収納棚の上に、小さな鉢植えが置かれていた。見たことのない青い花が咲いている。

 たくさんの花弁が重なりあう様子は菊の花に似ていた。窓からの光線で花は燦然と輝き、幾重にも反射し透過した光が花弁から周りに放射して、壁や天井を鮮やかな青や緑に染め上げていた。涼やかな芳香が辺りを漂う。僕はため息をついた。その美しさに見惚れているうちに、胸の奥底に固く凝結していた何かが、ゆっくりとほぐれていくのを感じた。

――祝福されている、と思った。誰かの人生が今、祝福されている。

 部屋は静かだが、近くに人の気配があった。

 周りを見回そうと体をよじるも、まるで夢の中にいるようにうまくいかない。手足を思いきり動かすと、その反動で体が半分だけ右を向いた。ふと、右腕が目に入った。柔らかな産毛の生えたそれは、太く短く、関節は輪ゴムをはめたように深くくびれている。その先に紅葉のような小さな手。

 僕はその手を見て小さく息を呑み、少しのあいだ、その意味するところを考えた。それから体の向きを直し、もう一度天井を仰いだ。

 しばらくして、畳を踏む足音と、チリンチリンという小さな鈴の音が聞こえてきた。はあはあと早い息遣いも感じる。それは次第に近づき、突然、眼前に黒く濡れた鼻先が現れた。一瞬、それと目が合った。それは興奮した様子で僕に覆いかぶさると、大きな口を開けて長くざらつく舌を出し、僕の顔を一心に舐めはじめた。部屋中に鈴の音が軽快に響き、顔中に熱い息が吹きかかっても、不思議と恐怖は感じなかった。

 この感覚は覚えていた。生温かい唾液にまみれながら、僕はようやく理解した。

 そうかお前も、あの時僕と一緒に消えたのか。お前は僕の犬なのだから。そして時をめぐり、場所を変えて、お前はまた僕の犬になったのか。

 加速するようにこぼれ落ちていく記憶の欠片を懸命に拾い集めながら、僕はその名前を呼ぼうとした。だが言葉にはならなかった。僕は短い手をいっぱいに伸ばし、太陽の匂いのする褐色の体毛をそっと撫ぜた。

 かつての記憶は、もはやその輪郭を失おうとしていた。もう自分の名前すら思い出せなかった。その時どこからか、なつえ――と呼ぶ大人の声が聞こえた。

 窓の外で、幼い声がそれに応えた。

 聞き覚えのあるその甲高い笑い声を聞きながら、僕はゆっくりと瞼を閉じた。そして、きっと僕には母のような姉がいるのかもしれないと、最後にもう一度だけ思った。 〈了〉

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if兄妹 いぬかい @skmt3104n

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