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関元聡

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 物理キーを叩く感触は、いつもピアノを奏でるように心地よい。

 流れるようなタッチでコマンドラインを入力しながら、中村慎一博士は小さく笑みを浮かべた。脳波入力の仮想キーボードでは弾いている気がしないのだ。でもそれは仕方がない。いつまでたっても最新のガジェットに慣れないのは、たぶんファシルのせいだ。それとも、僕がもう三十過ぎのおっさんだからか。

 宇宙船ダンデライオン号の扇形のブリッジを模した実物大シミュレーターの中だった。慎一はエンターキーを勢いよく叩いてから、長い吐息とともに座席の背にもたれかかった。まくっていたブルースーツの袖を戻しながら左手首のGショックをちらりと見る。これから大急ぎでパサデナに戻れば、午後から予定されている量子エンジンの稼働テストにも立ち会えるはずだ。あれも制御プログラムの微調整にかなりの時間がかかったが、何とか最終テストまでこぎつけることができた。うまくいけば週明けには自身の訓練時間も確保できるだろう。

「たぶんこれで大丈夫だ。僕はこれからパサデナに飛ぶんでしばらく繋がらないが、問題があればメールを入れておいてくれればいい。夜には対応できると思う」

 そう声をかけると、隣でホログラムモニターを覗き込んでいた若いオペレーターが、ゴーグルを外して「助かったよシンイチ」と疲れた笑みを返してきた。その目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。彼がここ数日ろくに寝ていないのは知っていた。

 慎一はそれに応えて軽く口角を上げ、彼とハイタッチを交わすと、急ぎ足でシミュレーター横の階段を下りた。東向きの窓から見えるヒューストンの青空がまぶしい。もう朝とはいえないほど太陽は高く上がっていた。昨日の未明から今までぶっ通しでデバッグ作業に没頭していたのでさすがに少し眠かったが、ジェットの中で仮眠ぐらいはとれるだろう。シャワーを浴びる時間はあるか、それとも何か腹に入れようかと考えながらロッカールームの前まで来ると、サブインストラクターのジェスが壁に寄りかかって腕を組んでいた。呆れたような顔でこちらを見ている。

「その様子じゃメールは見てねえな。室長から至急の呼び出しだぞ」

 慎一は慌てて四七番の個人ロッカーを開いてポータブルを取り出すと、赤いランプがちかちかと点滅していた。室長からのダイレクトだ。優先レベルは特Aと表示されている。

「ずいぶん急だな。これからすぐパサデナに行かなきゃならんのだが」

「キャンセルするしかないだろうな。でもそろそろ正式任命アサインがくる頃だろう。早く行ったほうがいいんじゃないのか」

 確かに出発まで五年を切っている。今月中にもクルーの発表があるに違いない。でも自分がこの任務にアサインされるのは確実で、だからそれに関する切迫感はあまりなかった。それより訓練予定がこれ以上遅延する方が慎一にとって実害が大きい。

 予定が狂う――そう思うとほんの一瞬、喉の奥が焼けるような苦味と息苦しさを覚えたが、それは感情として表出することなくすぐに意識下に消えた。

「確かに、遅刻のせいで任務から外されたらかなわんよな」

 そう言って慎一はジェスの肩を叩き、爽やかそうに見える笑顔をつくった。


 宇宙飛行士室長室は上級管理職棟三階の突き当たりにある。何度も来たことがあるがいつも緊張する。慎一は扉の前で立ち止まり、ブルースーツの襟を正した。

 腕時計を見ると秒針は五十秒を過ぎたところだった。心の中で舌打ちした。焦りにも似たざわざわとした不快感がこみ上げる。だがもはや一分近く待つ余裕はない。慎一はわざと強く咳払いをして、強引に気持ちをリセットした。

 ノックをすると、中から「入れ」と鋭い声が聞こえた。

 ドアを開くと、ウォルナットのデスクの向こうに窓を背にしてチャン室長が座っていた。横に技術部長のマーカムもいる。経験上、この二人が揃うのは二通りのケースしかない。重要任務への正式なアサインと、降格人事の決定通告だ。アサインの書類は通常デスクごしに取り交わされる。だが室長は立ち上がり、奥の応接セットへと慎一を誘った。こういうケースは経験がなかった。

 チャン室長はコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注いで慎一の前に置いた。

 ルパート・チャン室長は、アメリカの宇宙開発史における伝説的な宇宙飛行士の一人だ。月に二度、火星に一度、若い頃にはISSの長期滞在記録も作った。中華圏にルーツを持つ彼が極度に機密性の高いこの要職に就いていることからもその有能さは推して知れるが、何より慎一が尊敬するのは、彼が決して周囲に敵を作らないことだった。室長の行動は常に合理的で、巧みに関係者と協調しつつも必ず目標達成のための最短距離を選択する。その点は慎一とよく似ていた。だから彼と揉めるのは避けたかった。

「うちのスタッフが世話になってるそうだな」テーブルの向こうのマーカムが神妙な様子で口火を切った。

「いえ、どうせ自分が使うことになるシステムですから」

 慎一はそれが相手に傲慢に聞こえない声色になっていると確信していたが、念のため二人の表情を確認した。だが室長もマーカムも揃って表情が硬く、内心は読みにくかった。

「量子エンジンも実用化の目処がついた。今日の最終稼働テストが成功すれば、予備も含めて三台、競争入札で正式に発注される。だが、少し困ったことがあってね――」

「困ったこと――ですか?」

 慎一は訝しげに声を落とした。

 量子エンジンの基本システムは慎一が大学院時代に関わった基礎研究が根幹になっており、アップデートにも慎一が何らかの形で関わっていた。量子エンジンの開発工程は常に情報共有されており、不具合はすべて把握しているはずだ。

 だからいまNASAに所属している宇宙飛行士の中で、慎一ほど量子エンジンに精通した技術者はいない。ダンデライオン計画に自分が確実にアサインされると慎一が信じる理由もそこにあった。

 そもそもダンデライオン計画自体が、量子エンジンの実用化を前提としているのだ。

 ダンデライオン号は地球から四・三光年離れたアルファ・ケンタウリへ向かう有人探査宇宙船だ。その計画を現実的な時間で可能とするには、新たな高速推進手段として量子エンジンの実用化がどうしても必要だったのだ。

 最新の飛行計画では正式クルーは九人。三名ずつ三班に分かれた当番制で、そのうち二班六名は常に冷凍睡眠状態で過ごす。理論上、光速の二十%まで加速できる量子エンジンならば片道二十年ほどで目的地への到達が可能なので、宇宙飛行士個人の体感では片道七年程度の旅となるはずだ。NASAはこれに耐えられるクルーを探すべく百名あまりの候補生から三十名を選抜し、これまで数々のテストを課してきた。そして五年後の発進を目指し、まもなくバックアップクルーを含めた十八名が発表になるはずだった。

「先日実施した閉鎖環境適応訓練のスコアが出てね」

 室長が口を開いた。マーカムは応接ソファからそっと立ち上がり、窓際の壁に寄りかかったままコーヒーをすすった。

「君のスコアは悪くない。技術的課題解決スコアも共同生活適応度スコアも上位一割以内に入っている。だが――」

 室長は言いにくそうに口籠もった。慎一はコーヒーを置いて室長の言葉を待った。

 閉鎖環境適応訓練とは、ダンデライオン号の居住面積に近い百㎡ほどの円筒形スペースに一定期間閉じ込められてあらゆる課題をこなす訓練のことだ。課題以外にも訓練生どうしの会話や生活態度はすべて監視され数値化されて、個人単位で評価される。つまり宇宙船という究極の閉鎖空間において他のクルーと協調しながら問題なくパフォーマンスが発揮できるかを見極めるテストであり、そのための訓練でもあるのだ。

 しばらくの沈黙のあと、室長は慎一から目をそらして言った。

「――だが、心理スコアがな、あまり思わしくないんだ」

 心理スコアとは、訓練生のストレスレベルを測るために頭部にセンサーをつけて脳波やホルモン濃度を計測した結果だ。ただしこれ自体は参考データであり、評価の対象とはならないと確かガイダンスに記されていたはずだ。

「ですがあれは、ただのバックグラウンドデータのはずでしょう」

「もちろんそうだ。ストレスがかかっていてもそれがパフォーマンスの低下として表面化しなければ何の問題もないともいえる。だがな、それも限度というものがある」

「限度?」

「そうだ」そう言って室長は一冊のデータファイルをテーブルに置いた。

 そのファイルには心理スコアの推移が時系列で示されたグラフが載っていた。訓練生三十名分のデータをまとめてある。

 グラフが示す折れ線の大半は概ね低水準で推移していたが、時々ぐっと上昇し、そのあと緩やかな逆S字曲線を描いてじりじりと平常値に戻っていた。スコアが跳ね上がった場所には赤く印が打ってあり、そこが何らかの課題イベントが発生したタイミングであることを示している。

「平均的な心理スコアは、たいていなだらかな山並みのような線形を示す。長期的には滞在期間の経過にしたがって緩やかな上昇傾向を示し、短期的にはイベントの発生と連動して多かれ少なかれストレスを受け、こんなふうにノコギリの歯のようにギザギザと上下する。つまり、ストレスがあっても普通はそれを何とか押さえ込んで冷静にイベントを処理しているというわけだ。だが君の場合は――」

 室長はグラフの下の方で水平に横たわる一本の線を指さした。

「――君のスコアはほとんど起伏がない。これは一見ストレスを受けていないように見えるが、それは単にこのグラフの表示精度の問題に過ぎない。実際はイベントが生じたタイミングで瞬間的にスコアが跳ね上がり、即座にまた平常値に戻っている。こうした挙動自体も異常だが、問題はそのピーク値が極めて高いということだ」

 確かに、イベント発生時のスコアを参照しているデータセルには異常値を示すアスタリスクが記してある。このタイミングで爆発的なスコアの急変があったことは間違いない。

「ピーク値は平均の十倍以上だ。これはな、一般的にいうパニック状態に近い」

 慎一は無言で顎の先をさすった。自分の心理的挙動が他人と異なることについては思い当たる節があった。でも、だからといって今の自分にできることは何もない。集団の中でパニックを起こすことなど今の自分には考えられない。

「僕はいつも冷静です。パニックなど起こしませんよ」

「分かっている。君はどんな環境に置かれても平均以上の成績を残してきた。それは認める。だがこの数値を見た以上、君をクルーとしてアサインすることはできない」

 胸の奥で火花が散った気がした。頬の筋肉がこわばり、攻撃的な感情が血流とともにこみ上げてくる。だがその衝動はまたたく間に消えた。慎一はため息をつき、口元に微笑すら浮かべながら穏やかに反論した。

「僕が激しやすい人間であることは認めます。でもそうした感情は完全にコントロールされています。任務には影響を与えません」

 室長はゆっくりと首を振った。

「リスクのある人物を船に乗せるわけにはいかんのだ」

「では量子エンジンはどうするのです。あれの運用には僕が必要なはずです」

 そこでマーカムが割り込んだ。

「君が乗ったって飛行工程の三分の二は寝ているんだ。いずれにしろ他のクルーにも動かせるようになってもらわなければ困る」

「僕が言っているのは非常時についてです。下手に触ると帰還できなくなりますよ」

「閉鎖環境適応訓練はせいぜい六週間だ。実際に隔離される七年間のあいだに何が起こるかまでは予測できん。もし計画が失敗したら、向こう十年は宇宙計画の予算は議会を通らないだろう。そんなことは許されん」

 室長が片手を上げてマーカムを抑え、慎一に向き直って穏やかに言った。

「さすがに、今は冷静ではいられんか」

「そんなことはありません」

「君のいうとおり、この計画には君の参画と協力が不可欠だ。君を乗せるリスクより乗せないリスクの方が大きいと俺は思っている。だが、だからといってNASAは何の対策もせずにリスクを放置することはしない。だからな――」

 室長は懐から自分の名刺を出して、さらさらと何かを書きつけ、慎一の前に置いた。

「ボストン大学のフカオ博士のところに行け。NASAから正式に依頼を出しておく。その間、君の訓練は無期限に休止する」

 名刺には博士の名前と、ボストン大学医学部精神科学教室のアドレスが記されていた。

「NASAとしては君の診断は彼女に一任することとした。彼女のOKが出たことを条件に訓練を再開することとする。量子エンジンのフィードバックも君の復帰を待ってからということになるだろう」

 慎一は室長の顔を見た。わずかに憔悴の色が浮かんでいる。ヒューストンにきて室長と知り合ってからもう三年近くなるが、これまで見た中でいちばん老け込んでみえた。

「〝困ったこと〟とはこのことですか」

「そうだ」

 慎一は小さくため息をついた。

「僕に精神科のサポートが必要だとは思っていませんが、仮にボストンでの滞在が長びいた場合はどうなるのです」

「ダンデライオン号は計画を大幅に見直す。クルーの任命は来年以降になるな」

 だがもしそうなったら、室長もきっと今の立場を追われることになる。それを覚悟してでも室長は自分と心中しようとしているということだ。慎一は瞬時に思考を巡らせた。発進の延期だけはどうしても避けたかった。むろん日程に余裕はない。だが数ヶ月の遅れならば、集中訓練のインターバルを圧縮すれば何とか取り戻せるかもしれない。

「では二ヶ月以内に戻ります。それで戻らなければ計画は自分抜きで進めてください」

 室長は立ち上がり、険しいような穏やかなような、どこかで見覚えのある不思議な表情を浮かべて慎一を見下ろした。

「よろしい。ではすぐにボストンに行きたまえ。これは命令だ」


                 2

 深尾真奈博士がデスクに据え付けてある端末の電源を入れると、目の前に真っ青なデスクトップ画面が広がった。

 日本にいた頃は娘の写真を壁紙にしていたこともある。でも佳奈と別々に暮らすようになって長い時間がたち、高校の入学祝いが開封もされずに返送されてきたとき以来、このブルーの壁紙に変えた。腰まであった黒髪をばっさり切り、コンタクトから眼鏡に変え、旧姓の深尾に戻し、ついでに都内の研究所を辞めて、この東海岸の大学に籍を移してからもう何年もたつ。別に佳奈や元夫を恨んでいるわけではない。でもそうしないと自分が一歩も進めないことは精神科医である自分自身がよく分かっていた。

 アポイントの時間までもうすぐだった。真奈はチャンから送られてきた資料をプリントアウトして、冒頭の略歴だけもう一度目を通した。


 中村慎一 理学博士 三十二歳 ドイツで生まれ、幼少期を両親の転勤についてヨーロッパ各地で過ごす。十三歳のとき短期間の日本滞在のあと渡米。ハイスクール時代に数学オリンピックのアメリカ代表候補となるが出場辞退。在学中にカリフォルニア工科大学に特待生として早期入学。同大学院修了後にジェット推進研究所に入所。翌年NASA宇宙飛行士選抜試験に合格。


 真奈は苦笑いを浮かべた。なんだこの絵に描いたような天才は。こういう人は宇宙の彼方ではなくて人類のそばで才能を発揮してくれればいいのに。

 時報が鳴ってから少し遅れて、扉を叩く音がした。どうぞと声をかけると、失礼しますと背広姿の小柄な男性が入ってきた。

「中村慎一です。ルパート・チャン博士の紹介で伺いました」

 久しぶりに聞く日本語だった。真奈は立ち上がり、笑顔で握手をかわした。

「チャン博士から話は聞いています。どうぞお掛けください」

 中村博士は有名人だ。メディアを通じて顔は知っていたが、思ったより童顔だった。人懐っこそうな顔が笑えるほどスーツと似合っていない。小柄だが体つきはがっしりしており、デトロイトあたりの工場にいそうな若い肉体労働者のようにも見える。

「こうした場所は初めてですか。つまり、過去に精神科にかかったことは?」

「ありません。NASAのメンタルカウンセラーとは時々飲みますが」

 低く落ち着いた声色だ。相手に好感を持たれる話し方を心得ているのだろう。経験上、宇宙飛行士という人種は総じて対人スキルが高い印象がある。

「チャン博士から、あなたが閉鎖環境での長期滞在に耐えられるか判断して欲しいとの依頼を受けています。そのためにいくつか質問をしたいのですが、宜しいですか?」

「もちろんです」

 真奈はポータブルを立ち上げてチェックリストを表示した。まずは成育履歴の確認からだ。この患者が内包する心理的課題はまだ不明だが、本人が自分自身の育ちをどう認識しているかは正確な診断のために非常に重要だ。

「ドイツでお生まれとか」

「ドレスデンです。親が音楽関係の職業だったので欧州各地を転々としていました」

「幼少時代はどんな子供だったか覚えていますか」

 中村博士は、うーんと唸りながら少し上を向いた。顎に手をやり、目を細めて遠くを眺めるような表情を浮かべている。

「あまり覚えていませんね。普通の子供だったと思いますが」

「友達は多かった? 学校では優等生だったでしょう」

「学校には行ってなかったんです。ずっと自宅で家庭教師について勉強していました。はじめて学校に行ったのは……、確か十三歳で日本にいたときです」

 確かに教科書も学習要領も違う欧州各国を渡り歩いていたなら、転校を繰り返すより専属の家庭教師についた方が学習環境は安定するだろう。だが、特定の家庭教師に教育を一任するのは別の理由がある場合が少なくない。真奈は慎重に質問を重ねた。

「家庭教師はどんな方だったの?」

 中村博士は突然子供のような笑顔を見せた。「僕にとっては親代わりでした。勉強だけでなく生活の全てを教えてもらったんです。確か、元は教師だった方だと聞いています」

「今でも交流があるのかしら」

「僕が高校二年の時にニュージーランドに帰ってしまいました。その頃から僕も一人暮らしをするようになったので、あれからもう長いこと会っていませんね」

 真奈は中村博士の顔色を見ながら尋ねた。「ご両親はどんな方だったの?」

「母からは小さい頃にピアノを教わりました。でも、とても忙しい人たちでした」

 家庭教師の話題の時に比べて、博士の表情はこわばって見えた。この話題を深掘りするのは少し早いかもしれないと思い、真奈は質問を変えた。

「中学生になった時に日本に来たのね」

「そうです」

「学校は楽しかった?」

「通学していたのは九ヶ月だけでした。進級する前に渡米しましたから」

「それもご両親のお仕事の都合?」

「そうだったんだと思います。引っ越しはいつも急に決まるんです」

 だとすれば、親密な友人を作る余裕はなかったかもしれない。少年期の交友関係の成否は大人になってからの社会性の獲得に大きく影響を与えるという。それは深層的な情緒の安定にも深くかかわっていると考えられている。

「学校生活で何か印象に残っていることはある?」

 少し考えて中村博士は言った。「そういえば、数学で面白い授業がありました」

「聞かせてもらえる?」

 中村博士は懐から自分のポータブルを取り出し、「素数ゼミって知ってますか?」と手書きで簡単な表を書いてみせた。

「ある種のセミは、十七年とか十三年とか、素数の周期で発生するそうです。これは、羽化の周期を他の種類との間でなるべく同期させないことで、種間交雑によって生活史が攪乱することを防いでいるからだそうです」

 つまり発生周期が素数どうしであれば、その公倍数は素数でない場合よりも少なく、異なる周期のセミが同じ年に羽化して交配する確率を下げることができるという理屈だ。

 いわゆる十七年ゼミはここボストンにも分布するので、この昆虫の存在を知ってはいた。だが生き物に興味のない真奈は、発生周期の理由までは知らなかった。

「数学はもともと好きでしたが、特に素数に興味を持ったのはその頃からですね。あの授業がきっかけでした」

「リーマン予想だっけ? 素数論の難問。あれにチャレンジしてたんでしょ」

「それは高校生の頃です。あの時はもうロスにいましたからUCLAで聴講してました。けっきょく証明も反証もできませんでしたが、量子エンジンの基本アイデアはその頃に得た着想を発展させたものですから、とても有意義な経験だったと思いますよ」

 その量子エンジンの発案で、中村慎一は世界でもっとも有名な日本人になったのだ。量子エンジンの稼働原理に複素数平面上でのヒッグス粒子の性質を応用しているというのは科学雑誌で読んだことがある。やがて人類を宇宙の果てに連れて行くかもしれない最先端技術の発端が、どこにでもいるセミの発生周期にあったというのは実に興味深い。

「数学オリンピックは、なんで辞退したの?」

 中村博士は少し困惑した表情を見せながら顎の先をさすった――言葉を探す時の癖なのだろうか。やがて軽く口角を上げ、少し間をおいてから小さく言った。

「あの頃は、競争が怖かったんでしょうね」

「競争が怖い?」

「ええ、勝ち負けを決めるということに恐怖心があったんだと思います」

「詳しく聞いてもいいかしら」

 中村博士はかすかに眉根を寄せてまた顎をさすった。「――説明するのがむずかしい」

「勝っても負けても、けっきょく自分が攻撃されているような気がするから?」

「そうかもしれません」軽くうなずいて、中村博士は続けた。

「代表に選ばれて、たぶんうれしかったんだと思います。私は外国人ですから、アメリカ社会に受け入れられたのが栄誉だと感じていたのでしょう。でも、実際に出場して、自分の存在価値を否定されるのが怖かったのかもしれません」

 その感覚は、同じアメリカで働く日本人である真奈にはよく理解できた。私たち外国人は常に社会に対して自分自身の価値を証明し続けなければならない。高校生がそのプレッシャーから逃げたくなるのは当然だ。

「もちろん、今はもう競争が当たり前ですから、そういう気持ちとは無縁ですがね」

「どうしてもダンデライオン号に乗りたいのね」

「はい。そのためには他人を蹴落とさなくてはならない場合もあります」

 真奈はうなずいた。デスク横のファイルボックスから紙のファイルを一冊引き抜き、中村博士に開いて見せた。何本もの折れ線が並ぶグラフだった。

「閉鎖環境適応訓練での心理スコアですね」

「そのとおり。これがチャン博士があなたをここに寄越した理由。で、どう思う?」

「何ともいえません。それはまあ、少しイラッとしたことぐらいならありますが」

「一日中、競争相手と顔を合わせなければいけないのが辛かった、とか?」

 中村博士は肩を揺らしながら愉快そうに笑った。

「まさか、そうであれば、六週間ずっとスコアは高いままのはずです」

 そうなのだ。中村博士のスコアが跳ね上がるのは一瞬で、長くても一秒、たいていはコンマ五秒以下で平常値に回復する。慢性的にストレスを感じていたはずはなかった。

 真奈はグラフの一部を指さした。

「あなたのスコアが上昇するのはたいてい何か課題が与えられたタイミングだけど、課題があってもスコアが上がらない場合もある。この違いはいったい何?」

 中村博士はファイルを手にとり、目をぐっと近づけた。

「たぶん、突発的な課題だとスコアが上昇するのでしょう。そういうことが期間中に何度もありました。あらかじめ告知されていた課題であれば反応は鈍いですから」

「なるほどね、じゃあこの一番高いスコアのときはどうだったの?」

 真奈はページをめくり、訓練期間中の最高スコアを示している箇所を指した。そこでは中村博士だけでなく、他の訓練生のスコアものきなみ上昇していた。

 中村博士はため息をつきながらファイルをデスクに置いた。

「ちょうど四週目の終わりですね。あの訓練は本当は四週間で終わりのはずだったのですが、それが終了間際になって突然二週間延長と通告されたのです。他の連中もぼやいてましたから、きっとそのせいでしょうね」

 宇宙探査ミッションには突発的なトラブルがつきものだ。急な予定変更を余儀なくされることも、まったく想定していない事態に巻き込まれることもあり得る。訓練生たちがそうした事態に対していかに冷静に対応できるかを見極めるために、NASAの教官たちはわざとそう仕組んだに違いない。

「二週間延びたのは辛かった?」

 中村博士はそれには答えず、斜め上を見上げるようにわずかに首をかしげ、眉間にしわを寄せた。その様子はどこか芝居がかった仕草のようにも見えた。

「最後の二週間はね、他の訓練生はやっぱり少し機嫌が悪かったですよ。表面的には仲良くやってましたけど、ぴりぴりした感じは自然にこっちにも伝わってくるもんです。それがまあ、辛いっていえば辛かったですね」

 真奈は息を吐いた。カウンセリングの時間はそろそろ終わりに近づいていた。チェックリストには無難で常識的な回答ばかり並んでいる。何の問題もない。所見を書こうとしても特筆すべき事が見当たらない。

 たぶん彼はとても優秀な人物なのだろう。それは話していてよく分かる。でも真奈は、彼の背後にぼんやりと横たわる妙な違和感を払拭できなかった。

「最近、ご両親とは連絡をとってる?」

 中村博士は無言でポータブルを取り出してメーラーを立ち上げ、十二桁のパーソナル番号が並んだ画面をこちらに向けた。

「たぶん欧州のどこかにいるのでしょう。聞こうと思えばいつでも聞けます」

「どこにいるか知らないのね」

「正式にアサインされたら報告はしますよ。生きてるうちはもう会えませんから」

 そう言って、中村博士は爽やかな笑顔を作って見せた。


 中村博士との最初のカウンセリングを終えてから、真奈は一週間をかけてNASAから送られてきた膨大なメールデータを調べていた。

 メールは技術的な内容に乏しい秘匿性の低いものばかりだが、それでもかなりの量だった。だが内容はあまり関係がない。使用している単語、カーボンコピーを送る相手、受信したメールに対してどのぐらいの時間差やボリュームで返信しているか等々を整理することで、組織の中での彼の立ち位置や繁忙時のストレス反応、そしてどんな相手や課題に対してより自発性や積極性を見せているかをうかがい知ることが出来るのだ。

 だが今のところ、特に変わった傾向は認められなかった。

 どれも業務メールとしては一般的な形式であり、テーマや送信先によって積極性に偏りがあるとも思えない。強いていえば文章表現がやや定型的すぎるぐらいだが、自分を省みてもそれぐらいのことは問題とはいえない。要は内容が相手に正確に伝われば良いのであり、定型的であることは決してマイナスではないのだ。その点中村博士のメールは技術者としてどんな課題にも誠実に対応しており、相手から確かな信頼を得ていることが文面を見るだけで分かった。中村慎一という人間が、NASAの中で高く評価されていることは明白だった。

 カウンセリングでの印象でも、特に病的な印象は受けなかった。幼少期に一般的な学習環境になかったことや、多忙すぎる両親に対する愛着の欠如など特徴的な成育履歴がないわけではないが、何の問題もない人間など世の中に一人もいない。人は誰しも何らかの歪みを抱えながら成長していくものなのだ。

 ――あの違和感の正体はなんだろう。

 真奈は仮説を立てられずにいた。中村博士の真似をして顎をさすってみる。――いったい彼の中で何が起こっているのだ。

 真奈は椅子の背に寄りかかり、上を向いて目をつぶった。しばらくそうしたあと、端末に向き直ると、メール一覧の画面に戻ってざっと目を配った。一覧には送信履歴のタイトルと送信先、そしてタイムスタンプが並んでいる。

 データベースを集計ソフトとリンクさせ、ためしに送信相手ごと、テーマごと、時間帯ごとに整理してみた。やはり明瞭な傾向は検出できない。次にメールの緊急性を示す優先レベルごとに整理したが、これも結果はいまいちだった。

 真奈は口を結んで、優先レベル順の一覧表をスクロールさせた。下にいくほどタイトルが砕けてくるが、おかしな表現は見つからない。真奈はさらにスクロールを続けた。

 ――ん?

 その時、妙な引っかかりを覚えた。送信履歴を何度か並び替え、もう一度注意深く見直しているうちに、やがてその理由が判明した。

 メールの送信時刻が、四七分に集中しているのだ。

 はじめはただの偶然だと思ったが、ためしに集計してみると、レベルC以下の低優先メールにおいて、四七分に送信したタイムスタンプは全体の八割以上に及んでいた。高優先メールについてもどうやら可能な限りその時間に送信しているようだ。相関関係は明らかだった。緊急性が低い、つまりある程度自分の裁量で送信時間を操作できるメールに関して、中村博士はわざわざ四七分になるのを待って送信しているのだ。

 真奈は思わずうめき声を上げた。それはまったく無意味な行動に思えた。だが無視するわけにはいかない。たぶんこれが唯一の手がかりだ。

 仮説を立てるにはもっと証拠が必要だ。真奈はポータブルを取り出して、中村博士から伝えられた彼のパーソナル番号を確認した。思ったとおり、その下二桁は四七だった。そのままメーラーを立ち上げ、チャンにダイレクトを送信した。NASAのサーバを経由しないプライベート通信で中村博士のセキュリティパスワードの下二桁を問い合わせたのだ。しばらくして短い返信があった。予想したとおり、それは四七だった。

 真奈は椅子から立ち上がり、視点が定まらぬまま部屋の中を歩き回った。

 その数字に何の意味があるかは分からない。意味などないのかもしれない。彼の誕生日は4月7日ではないし、彼の両親も同じだった。数字を眺めているうちに、すぐそれが素数だと気がついた。しかし素数など六十までの間に十七個もある。だから中村博士は、この四七という数字自体に何らかの価値を見いだし、それに拘泥しているのだ。

 真奈はデスクに戻り、いつもそうするように椅子の中で背中を丸めて両足を抱えた。

 特定の数字にこだわる性癖自体は、実はさほど珍しくない。日本人なら4や9、キリスト教圏なら13や666といった不吉とされる数字を忌避したり、逆に7や8という縁起の良い数字を好んで使う人は多い。だからこれだけで何かを判断するのは早計だ。ただ、普通そうした数字への好悪は不安定に入れ替わり、これまで嫌悪していた数字をある時期には一転してまったく躊躇なく使う例もよくある。生活の中での優先順位が低いのだ。一方、中村博士の四七への強いこだわりはNASAに入所して以来いっかんしており、その意味ではいわゆる強迫性障害の病徴に似ていた。

 これほどまでに強固な特定の数字への拘泥は、精神医学にとってなじみの深い、ある先天的な障害を想起させた。

 確証はない。だが、可能性はある。

 真奈はこれまで経験してきたあらゆる症例を思い出し、一つの仮説に辿りついた。

 ――中村博士は、自閉症スペクトラム障害ASDではないか。

 ASDは、コミュニケーションの困難や特定の興味への固執、習慣的・反復的な行動などを特徴とする先天的な発達障害の一種だ。仮にそうだとすれば、彼が小学校に行けなかった理由も肯ける。予期せぬストレスに誘発される爆発的な情動の理由も肯ける。ASDはこだわりの強さから集団行動や想定外行動を不得手とし、周囲との軋轢を生じやすく円滑な人間関係を結べないことが多いからだ。一方で、特定の分野で抜きん出た才能を持つものも多い。アインシュタインやエジソンのような天才たちがASDだったというのは有名な話だ。その意味では慎一のもつ数学の才能も、偉大な先人たちの系譜につらなるほどの恩恵を人類にもたらしたといっても過言ではないはずだ。

 だが、それだけでは証拠にならない。ASDは症状の程度も種類も千差万別で診断が難しい。特に中村博士はかなり特殊なケースといえる。だから確定診断にはもっと詳しく成育履歴を調べ、かつ更に綿密な心理テストを繰り返す必要があるのだ。

 それに、よく誤解されるがASDは病気ではない。誰しもが多少なりとも持っている因子が色濃く表れた単なる〝個性〟だともいえる。個性は治すことができない。したがって一般的な意味での治療はできない。幼少期からの周囲の手厚いサポートと根気強い学習によって、少しずつ〝社会と折り合う〟しかないのだ。

 しかし今の彼の社交的なパーソナリティからは、とても発達障害を示唆する特徴は見出せなかった。むしろ提供された心理データを見る限り、標準以上に高い社会適合性が認められた。真奈は分からなかった。中村博士にはふだん表出している人格とは別の人格が隠されているのだろうか。だが人格の入れ替わりがない以上、いわゆる多重人格とは異なる。だとすれば、彼が本来有する自閉的性質は、何らかの方策によって後天的に糊塗されたということだろうか。――でも、どうやって。

 そのとき、真奈は半世紀以上前に精神医学界に発表されたあるひとつの方法を思い出し、まさかというように強く首を振った。


                 3

 地下鉄千代田線綾瀬駅から南におよそ十五分歩いた六畳一間のアパートの一室で、安井正人はむっくりと布団から起き上がり、ぼりぼりと首の後ろをかいた。

 立ち上がろうとすると頭の芯がずきりと痛んだ。二日酔いだ。時計を見ると朝の九時。だが休日だから慌てて起きる必要はない。正人はもう一度頭を布団に埋めた。

 この部屋は一年中日当たりが悪いが、この季節だけは朝の短い時間だけ微妙に朝日が差し込んでくる。でも日当たりなんてどうでもいい。帰ってくるのは毎日夜中だし、ときには数日戻らないこともある。だから引っ越してきて以来、家財道具の類はほとんど増えていなかった。炬燵と兼用の小さなちゃぶ台と、衣装ケースが三つ、後はバンドスコアが詰まった緑色のカラーボックスが一つあるだけ。高校の時に小遣いを貯めてやっと買った中古のレスポールは、壁の薄いこの部屋ではどうせ鳴らせないからと店のロッカーに預けっぱなしにしてある。

 十年務めた地元の町役場を辞めたのは今から三年前だった。冬の朝の毛布のように体になじみ切った職場を辞めるのはさすがに勇気がいったが、妻も子もない身軽な体だからこそ決断すれば早かった。二十九歳からの転身は遅いといえば遅いし、若いといえば若い。けれどあの日、慎一がアメリカで宇宙飛行士になったというニュースを聞かなければ、あんな気持ちになることはなかっただろう。

 正人は布団から顔を上げた。慎一はたぶん俺を覚えていない。同級生というだけで席が近かったわけでもないし、一緒に遊びに行ったことさえなかったのだ。だから慎一がいつか来日したときも、会いに行こうとは思わなかった。どの面さげて会えばいいのだ。

 慎一はきっと俺のことを覚えていないだろう。むしろ覚えていない方がいい。

 なぜなら、俺はあいつを裏切ったのだから。


 深尾と名乗る女から連絡を受けたのは、ちょうど新作のドラムセットのセッティング作業が終わったときだった。安井正人さんですね、お話を伺いたいので一度お時間を頂けませんか、と電話の向こうでその声は言った。ふだんはこんな怪しい誘いにはまず乗らないのだが、なぜかその日はあまり考えもせずに受けてしまった。そこそこ大きなハコでやる予定のライブチケットが何とか完売して、いつになく気分がよかったせいかもしれない。

 仕事終わりに地下鉄に乗って指定されたホテルに着いた。ロビーの喫茶スペースにその女はいた。ショートカットで眼鏡の女だった。軽く会釈して、女が飲んでいたのと同じホットのブレンドを頼む。促されてソファに座ると、女は名刺を出しながら、ここは適度に広くて適度に騒がしいから内緒話にちょうどいいのよ、とにっこり笑った。

 女は精神科医だという。正人が受け取った名刺はぜんぶ英語で、プロフェッサーという単語だけかろうじて読み取れた。どこかの大学の先生らしい。物腰は柔らかく、眼鏡の奥の眼差しは確かに知性を感じさせた。笑うと目尻にしわがより、栗色に染めた髪には白い物が混じっていた。歳は五十代前半ぐらいだろうか。

 俺のパーソナル番号をどこで知ったのかと聞くと、今でもかろうじて名前を覚えている同級生から聞いたと女は答えた。会う人みんながあなたの名前を出したのよ。中村さんとは一番仲がよかったんでしょ、と女はまた目尻にしわをよせた。

 仲がよかったかと真正面から聞かれると言葉に窮する。あいつの家に行ったこともないし、あいつが俺んちに来たこともない。ただ、中学の頃にあいつ以外に一緒にいたといえるクラスメートがいたかといえば、確かに心許なかった。

「四七という数字に、何か思い当たらない?」

 急に真剣な顔になって女が尋ねた。四七? 何のことだ。思いもよらない質問をされて困惑する。慎一の出席番号だろうか? 覚えていないが、そんなに大人数のクラスではなかったはずだ。たぶん三十数人、多くても四十人を超えることはない。

 都道府県の数ですかねと言いかけて、それも違うことにすぐ気がついた。何年か前に大阪は独立国になったし、鳥取と島根は合併した。だから今はもっと少ないはずだ。しきりに顎をさすりながらそう考えていると。それを見た女は合点がいったような表情を見せて軽く微笑み、分からないならいいの――とコーヒーに口をつけた。

 何でもいいから慎一との思い出を聞かせて欲しいというので、正人は知っていることはぜんぶ話した。忘れていたことも多いが、話しているうちに思い出したこともある。いや、ぜんぶ話したというのは嘘だ。あれから長い時間がたっているけれど、自分の中で消化できていることも、できていないこともある。

 大人になるということは、苦い記憶を時間という水で薄めて飲み込めるようになることだ、と正人は思う。だとすれば、いまだに過去を受け入れられない俺はまだ大人になりきれていないガキで、あの頃とは別人のようにテレビの向こうで笑顔を絶やさない慎一は、きっとちゃんと大人になれたということだろう。

 慎一が転校してきたのが五月だったのは、話しているうちに自然に思い出した。

 入学してすぐの転校生だったから初めからいたような気がしていたのだ。でもそうじゃない。慎一はいつのまにかそこにいた。そして初めから異質だった。

 慎一が優等生だった記憶はないが、小四の弟と同じぐらいの小さな体で、よくしゃべるやつだったことは覚えている。それも小難しい話ばかり。相手が聞いていようがいまいが、自分が話したいことだけを話したいだけ話す。慎一はそういうやつだった。

 でも、最初に話しかけたのは正人の方からだ。

 慎一の席は廊下側の前から三番目。正人の席は窓際の後ろの方だった。うちの中学は制服がない。慎一はいつも同じベージュのジャケットを着ていた。毎日そればかり着ていたから、くたびれてよれよれだったことを覚えている。

 慎一は、休み時間はたいてい自分の席で本を読んでいた。耳にはイヤホンを挿していた。正人もその頃からロックやポップスを好んで聴いていた。自宅にあった親父のギターを勝手に弾いていたのもこの頃だ。だから、教室の反対側でいつも何か聴いている転校生が気になって仕方がなかったのだ。

 ある日、勇気を出してその小学生のような小さな肩を叩いた。何を聴いているか知りたかったのだ。慎一は何も言わずにイヤホンの片割れを差し出してきた。イヤホンを耳に入れると、流れてきたのは外国語の曲だった。洋楽には当時あまり関心がなかったが、言葉が分からなくてもエネルギーが体に流れ込んでくるのを感じた。衝撃に胸が震えた。なにこれ、すんげえいいじゃん――と声を上げると、慎一は本に目を落としたまま、サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド、と早口で言った。声変わりをしていない甲高い声だった。

 正人は、ずいぶん長ったらしい名前のバンドだな、と言った。慎一はそういう名前のアルバムなんだ、と無表情で答えた。そして急にこちらを向いて、一九六七年六月一日に発売されたビートルズ八作目のアルバムで、これはその三曲目の〝ルーシーインザスカイウィズダイヤモンド〟だと言った。

「ルーシーがダイヤをウィズしてインザスカイ?」正人は英語教師の口調を真似してそうおどけた。慎一は不機嫌そうに正人を見上げ、「ふざけないで」と小さくにらんだ。

 しばらくすると、慎一はこの曲にまつわる蘊蓄や豆知識を話しはじめた。使ってる楽器とか、ドラッグの頭文字がどうのって話だ。慎一の話は妙に詳しくて面白かったが、話の途中で急に落ち着きなく体を小刻みに震わせはじめた。そして、ここのメロディを聴きたいから少し黙っててくれないか、と小さな声で冷たく言った。

 慎一はそういうやつだった。

 その日から正人は、休み時間になると慎一の席でイヤホンをねだるようになった。ビートルズが多かったが古い洋楽はいろいろ聴いた。なんでも家庭教師の先生が洋楽好きだったそうだ。聴いている間、慎一は正人の方に目もくれず、いつも何か本を開いていた。たいてい宇宙や科学の本だった。難しい数式ばかりの本を読んでいることもあった。

 ある日、慎一はミュージックチップを持ってきて、お前にやるよと正人に渡した。ビートルズの最後のアルバムだった。チップをポータブルに挿すと、画面にアルバムジャケットが映し出された。横断歩道をメンバー四人がわたっているあの有名な写真だ。

「この写真は好きじゃない」と、ジャケット写真を見て慎一がつぶやいた。「横断歩道をわたる時は手を上げなければいけない」

 正人は苦笑いを浮かべて、「お前の言うとおりだな」と言った。

 正人は翌日、お返しのつもりで自分の好きな邦楽のチップを持ってきたが、慎一の趣味には合わない気がして、結局渡さなかった。慎一は気にもしていないようだった。

 中村さんはあなたを友達だと思ってたのね――と、テーブルの向こうで女が言った。正人は答えなかった。自分と慎一とのつながりはそれだけで、音楽以外でまともに言葉を交わすことはなかったからだ。

 ある日こんなことがあった。確か国語の授業中だった。先生は順々に教科書を朗読させていて、やがて慎一が当てられた。慎一は読めなかった。別に日本語が読めなかったわけじゃない。どこを読めばいいのか分からなかっただけだ。いつもうわの空のあいつはそういうことが時々あった。困ってもじもじしている慎一に先生はしびれを切らして、もういいから座れと、あいつを座らせようとした。でも慎一は座らなかった。

「そのとき、慎一は何て言ったと思う?」

 正人の問いに、女は首をかしげた。

「さっきの数学の授業で分からなかったことがあるから、教室を出て聞いてきていいですか? って、国語の先生に向かって言ったんだよ。つまりあいつが読めなかったのは、そもそも今が国語の授業中だってことすら気にしちゃいなかったからなんだよね」

 慎一はそういうマイペースなところがあった。授業中に先生が言った何気ない言葉に反応して、それについて延々と質問を繰り返して授業をストップさせたこともあった。だからクラスのみんなは慎一にうんざりしてた。でもそれだけならまだいい。変なやつと思われて済んだだけだ。でもあるとき、あいつはクラス全員を敵に回したんだ。

 秋の合唱コンクールのことだ。それはクラスごとに合唱曲を披露して順位を競う学校の恒例行事だった。基本的には全員参加だが、慎一は本番どころか練習にも参加しなかった。先生がいうには、中村君は聴覚が敏感すぎて、近くで大声を出されるのが耐えられないからだという。だから本番の日、慎一は体育館の後ろでクラスメートが歌うのを座って見ていたのだ。

「結果は二位だったんだ。俺たちにとっちゃ上出来だったよ」

「すごいじゃない」

「でもね、あいつは教室に戻ってきた俺たちにダメ出ししたのさ。ブレスのタイミングがバラバラだとか、そもそも音程がとれてないとか。どこが悪かったのか、どうすれば良かったのか、頭を掻きむしりながらいちいち解説してくれたよ。ピアノで伴奏した女子なんか、基礎がなってないとか言われて、ショックで泣いちゃってたからね」

 女は何も言わず、ただ悲しそうに眉根を寄せた。

 今なら、慎一に悪気がなかったことは分かる。あいつなりにクラスの役に立とうとしたのだろう。でもクラスメートたちは許さなかった。そのとき以来、慎一への拒否反応がはじまった。それはすぐにクラス全体に広がり、男子も女子もがタッグを組んだクラスの共同作業になった。無視や陰口に始まった陰湿ないじめは、やがて具体的な暴力に発展した。ノートや教科書は無残に破られ、体には目立たない痣や傷ができた。それをクラス全員が止めもせず、むしろ娯楽を楽しむようにあざ笑った。

 ある日、誰かが慎一の背後にそっと近づき、耳元でわっと大声を出した。驚いた慎一は口から泡を吹いて泣き叫び、逃げるように教室を飛び出して戻らなかった。それから一週間学校を休んだ。たぶんその頃から、慎一はクラスで言葉を発しなくなったのだと思う。

 もし慎一が転校生でなければ、あんな目に遭うことはなかっただろうか。たぶん結果は同じだっただろう。あの時期の子供にとって、クラスという閉鎖されたコミュニティの中で目立つことは大人が考える以上にリスクが大きい。思春期に育まれる仲間意識は排他意識と表裏一体だ。そして慎一はいつも異質だった。空気も読めなかった。慎一が標的になるのは必然だったのだ。

 あなたはどうしたの? と女が訊いた。あなたも中村さんをいじめたの? 

 しばらくの沈黙のあと、正人は言った。俺は――傍観者だったんだ。

 言い訳したいわけじゃない。俺だって同罪だ。でも俺が積極的に加担することはなかった。――というか、できなかったんだ。正人はかすれた声でつぶやいた。

 なぜなら、俺もそのときクラスで浮いていたからだ。友達がいなかったんだよ。それは小学校の頃からずっと続いていて、中学に入ってからも変わらない日常だった。俺は慎一と会うずっと前からそんなふうだった。だから慎一が転校してきて、あいつが音楽が好きだと知ったときは友達になれるかもしれないと思った。でもあいつがクラスであんなことになってから、関わらない方がいいと思った。俺はあいつを裏切ったんだ。でも子供の残酷さは甘くない。慎一へのいじめが始まって、俺があいつから距離を置いても、それで俺がクラスの仲間になれるわけじゃなかった。

 正人がうつむいて話す言葉を、女はただ黙って聞いていた。

 正人はトイレに立ち、顔を洗い、戻ってきて二杯目のコーヒーを注文してから、体を折るようにしてずっと黙っていた。しばらくして運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、正人はようやく、あれは確か社会科の授業中だった――と独り言のように言った。

「一月か二月か、まだ道端に雪の残る季節だった。日本人の平均寿命が八十八歳を超えたというニュースがあって、それについて、先生が授業中に話をしたことがあった」

 女は軽くうなずいた。正人は続けた。

「長い人生をどう幸せに生きるかとか、仲間を大事にだとか、そういう背中がかゆくなるような説教じみた話を先生はしてた。俺は退屈であくびをかみ殺してたよ」

「中学の先生が言いそうなことね」

「先生が黒板に向かって〝米〟という字を書いた。そして説明を始めたんだ。八十八歳は日本では米寿というお祝いの年齢だ。漢字を分解すると八十八になるだろう、と」

 正人は覚えていた。あの時クラスにざわめきが走った。くすくすと笑う声も聞こえた。

「米寿という言葉に反応したんだよ」正人は目を伏せた。「ベージュという言葉に」

 女は少し考えて、ようやく意味が分かったようだった。

「その先生は中年の男性教師で、わりと生徒に人気があったやつだ。俺はあんまり接点がなかったけどね、いわゆる熱血系とでもいうか」正人はそこで言葉を切り、コーヒーをもう一口すすった。女は正人の言葉を待った。

「先生は、クラスで笑いが起こっていることに気づいて、不思議そうに教壇からクラスを見渡してた。原因はすぐ分かったはずだ。クラス中の視線が一人に集中してたからね。たぶんあのとき先生は、気の利いたジョークを思いついたつもりだったんだろう。慎一を指さして、笑いながらこう言ったんだ」

 ――中村、お前は八十八歳までそのベージュのジャケットを着ているつもりか?

「ひどいね」女は悲しそうに眉間を歪ませた。

「あの頃、慎一にはあだ名がつけられてた。いやなあだ名だったよ。体が小さくていつも薄茶色のジャケットを着てたから、つまり、その……」その後の言葉が続かず、何とか小声を絞り出した。「つまり、そういう色の虫みたいなやつという意味のあだ名だよ」

「言わなくていい。分かるから」

「クラス中が爆笑してた。先生はご機嫌だったよ。でも慎一の顔は引きつって、何かを抑えつけるように小刻みに背中を震わせてた。俺はどうしたらいいか分からなくて、もうそれから慎一の方を見ることができなかった。そのとき突然一人の生徒が、先生、と手を上げて立ち上がった。背の高いやつだった。興奮してたせいか顔が真っ赤だった。名前は忘れた。でも俺や慎一を真っ先にからかってたやつだ」

 正人は嘘をついていた。あいつの名前を忘れるわけがない。でも今はまだ口に出す勇気が持てなかった。十三歳のあの教室の雰囲気を思い出して空気が耐えがたい苦みを帯び、喉の奥がひりひりと痛んだ。忘れかけていた言葉が頭の中でもう一度鮮明なかたちをとり、鋭い刃物のようにまた自分の心をえぐるのが分かった。

 それはあの時、自分以上に慎一の心をえぐったはずの言葉だった。あいつは慎一の方を見ずに、先生の方すら見ずに、吐き捨てるように言ったのだ。それはまるで呪いの言葉だった。生まれてはじめて触れた人間の純粋な悪意だった。

 それを聞いたとき、正人は何も言えなかった。そして何かを言う機会は二度と来なかった。あの日を最後に、慎一は学校を辞めて自分たちの元を去ったのだ。

 深尾さん、あいつはこう言ったんです。

 ――先生、中村は八十八歳までなんてとても生きられませんよ。そんなに長生きなんてできるわけがない。こいつには友達も仲間もいません。誰もこいつを助けてなんてくれません。だから先生、こいつはきっと六十歳ぐらいで死ぬんです。じじいになって、暗くて誰もいない場所で、一人っきりでのたうち回って死ぬんです。それが、こいつみたいな芋虫野郎にはお似合いの運命なんですよ――


                 4

 ルパート・チャン室長は、深尾博士からの要請を受けてすぐ、管理用サーバを探って慎一のセキュリティパスワードを調べ、その結果をダイレクトで返信した。何のための要請かは尋ねなかった。だが、深尾先生にはすべて話しておくべきだろうな、とは思った。

〝四七〟という数字は、そういえば慎一が所属する草野球チームでの彼の背番号でもある。クドウとかいう日本のプロ野球で活躍した有名な投手の背番号なのだそうだ。あのチームは自由に背番号を選べるから、投手でもないのに背中にエースナンバーをつけた選手が何人もいる。クエスチョンマークをつけたふざけたやつもいた。

 チャンは椅子をくるりと回して、窓からヒューストンの夕焼け空を眺めた。

 慎一と初めて会ったのはUCLAのキャンパスだった。慎一はおそらく覚えていないだろう。もう十五年ぐらい前になる。チャンが宇宙飛行士としてようやくベテランと呼ばれはじめた頃だった。

 航空工学のイトウ教授は学生時代の一年先輩で、その関係でUCLAの研究室にはたびたび出入りしていた。一年後に予定されていた二回目の月面探査に向けて教授に相談ごとがあり、その帰りにふと立ち寄った図書館前のベンチに座っていたのが慎一だった。

 UCLAに東洋人は珍しくない。イトウ教授のような日本人の教官は多いし、中国やコリアン系を含めて学生の三割程度は東洋人が占めている。だがキャンパスの中で子供が一人でいることは珍しいし、特に小学生ぐらいの男の子が、体を折り曲げるように旧式のノートパソコンを抱え込んでいる様子は少し異様だった。

 あの時、何と声をかけたのかは覚えていない。ゲームでもしていると思ったのだろう。でもベンチの隣に座って覗き見た画面に映っていたのは、奇妙なドット模様だった。一昔前のQRコードにも見えたが、よく見ると、磁石に吸い寄せられた紙の上の砂鉄のように、ドットの分布にはぼんやりとした規則性があった。ドットは特定の方向に連続した直線を作り、それが縦横や斜めに走って、漠然とした格子模様を描き出していた。

「ウラムの螺旋だね」チャンはにこやかな口調でその少年に話しかけた。慎一は隣に座る知らない大人を訝しげに見上げ、すぐまたパソコンに目を戻した。

 ウラムの螺旋とは、自然数の数列を方形の渦巻き状に並べ、素数にのみ印をつけたものだ。この渦巻きの中で、素数はある特定の方向に連続して出現し疑似的な直線を作ることが視覚的に確認できる。この方向の意味が素数の分布傾向を推定する何らかの手掛かりになるとして、前世紀以来多くの数学者たちの興味を惹き、また悩ませてきた。

 素数論は当時、量子物理学との密接な関連が明らかにされつつある分野だった。素数を利用した量子空間への干渉技術は恒星間航行への応用が可能だ。だからその関係で、チャンもこの図形を目にする機会があったのだ。

「ブレンダに教えてもらったんだ」慎一は図形を見つめ、寝癖だらけの頭を掻きむしった。そして、「形は見えているのに、最後のピースが見つからない」と小さく言って、それっきり固く口を閉じた。

 図書館前の不思議な少年の正体を教えてくれたのは、イトウ教授の助手をしていたあるポスドクだった。彼は数学科にも籍があり、その関係で慎一を知っていたのだ。

 彼は慎一の名前と、実は高校生であること、ブレンダという専属の家庭教師がいること、そしてたぐいまれな数学の才能の持ち主であることを教えてくれた。

 聴講生である慎一は定期考査を受けることはできなかったが、課題は自由に提出することができた。その提出物はたいていルーズリーフに書かれた手書きの数式や幾何図形で、数学を知らないものにとっては意味不明ないたずら書きのように見えた。そして数学を知るものにとっても、それは論理展開の飛躍と省略が著しく、とても評価に値するものではなかった。でも論理のミッシングリンクを埋める想像力のあるものにとっては、それは驚くべきいたずら書きだった。結論は常に完璧であり、論理展開は独創性に富み、かつ誰よりもエレガントだったからである。

 ポスドクは言った――中村君は天才です。でも彼の才能が社会に認められるには、非常に高いハードルが待っていることでしょう。なぜなら、彼は他人と円滑なコミュニケーションをとることができないからです。優れたアイデアも、他人に伝わらなくては何の意味もありません。彼の数式は彼の頭の中だけにあります。彼は受け手のことを考えてロジックを記述することができません。数式を証明順に並べることすらできないのです。彼はたぶん、何らかの発達障害を抱えているに違いありません。

 それは、チャンにとって十分納得のいく意見だった。

 慎一と二度目に会ったのは、それから数ヶ月後のことだ。

 自分がなすべきことは分かっていた。チャンは、慎一を知る数論の教授たち何人かに話を聞き、NASAの局長や懇意にしている議員と非公式に会談を持ち、ザルツブルグに飛んで慎一の両親に許可を得たあと、脳神経科医であり発達心理学者でもある知人と連絡をとって、彼にとっての第二の被験者を紹介した。

 チャンは、慎一の才能が自分の仕事におおいに役立つことは分かっていたし、それを期待していたけれど、それが彼の人生にどんな影響を及ぼすかまでは考えていなかった。ただ、〝ファシル〟が慎一にとって彼と社会とをつなぐたった一つの窓であり、そこから飛び出していくための翼になることだけは確信していた。

 君は生まれ変わるのだ――怯えた目で自分を見上げる慎一に向かってチャンは言った。

 ――かつて、わたし自身がそうだったように。


                 5

 悪夢を見ていた記憶があった。

 喉をかきむしるような息苦しさ。叫ぼうとして声が出ないことに気づき、自分が夢を見ていたことが分かる。次の瞬間、不安と焦燥が引き潮のように消えていく。かわりに少しずつ再構築されるいつもの自分。

 そして、繭の中に丸太のように横たわっている身体の存在を認識する。四肢は氷のように冷たく、まるで外骨格をまとっているように硬い。血流が回復するにつれ全身がじんじんと痺れはじめ、指先だけがわずかに動く。周囲から照射されるフルスペクトルライトがまぶしく、まぶたの隙間から涙がにじむ。乾ききった喉に舌が張りつき、胸の奥が熱い。ぶーん、とどこか遠くからかすかな機械音が聞こえる。とつぜん目の焦点が合った。真っ白な天井、カプセルヘッドの横にオレンジ色に光るデジタル表示、その向こうに見たことのある髭づら――

「やあシンイチ、久しぶり」髭づらが右手を軽く挙げる。

「覚醒プロセスはオールクリア。バイタルも正常。三十分あれば全力疾走もできるぜ」

 声を聞いて誰だか分かった。ぼんやりと自分が置かれている状況を思い出す。

 ついたのか――と言おうとするが、声がかすれてうまく発音できない。それに、頭蓋骨を砕かれるようなひどい頭痛。

 体位固定ベットの上半身部分がゆっくりと起き上がり、慎一は強制的に座った姿勢になった。強い吐き気がした。酩酊した時のように目の前の景色がぐるぐると回転する。

 髭の男がストローの口を慎一の前に差し出した。慎一はむさぼるようにそれを飲んだ。喉の渇きが収まると、視界が少し落ち着いてきた気がした。

 その男――スチュは、閉鎖環境適応訓練で同組だった男だ。医師であり、航空電子工学の博士号も持つ。慎一とは訓練生時代の同期で付き合いも長かったが、髭づらを見るのは初めてだった。

 地球を出てから十七年ほど経過したところだ――とスチュは言った。往路工程の八割強。スチュたち第三班の担当飛行期間がようやく半ばを迎えたあたりだという。それを聞いて、何があったのかだいたい察しがついた。

 慎一は、カプセルの中で自分の身体をチェックした。

 冷凍睡眠は出発前にやった短期テストで経験済みだが、あの時よりも体の負担は大きく感じた。――少なくとも体感上は。筋力維持剤を使っているから任務の遂行に支障はないはずだが、せめてこの頭痛が治まるまで休ませて欲しい。

「悪いが緊急事態でね、規則でアイドリングタイムは十二時間しか与えられないんだ」慎一の顔を見て、スチュがすまなそうに言った。

「昨日から量子エンジンの保守点検プログラムに警報が出ている。現時点での緊急対応レベルはBの2。一応、君を起こさずに済むように努力したんだが、どうしてもリカバリーできなかった。このままだと早くて二日以内にレベルAに昇格するだろう」

 慎一は無言でうなずいた。

 エンジントラブルの際に慎一を起こすのはマニュアルにも定められている。量子エンジンの不具合はその緊急性の判断が難しい上、放置すればミッションの成否に関わる。そして、慎一はそのための技術スタッフとして特別にアサインされたクルーだった。

 慎一はカプセルから降りて、ゆっくりと屈伸運動をはじめた。膝の間接がボキボキと鳴る。まだ体がうまく動かない。

「まずはデータを見せてくれ。それから打ち合わせをしよう」


 ダンデライオン号は宇宙空間で建造されたから、実物を見たことのある人間は極めて限られている。だがその姿を見た人は誰しも、船の名前が何に由来しているかをすぐに理解できるはずだ。真っ白に輝く細い船体は、まさにタンポポのタネそのものだからだ。

 綿毛に相当する部分は放射状に伸びる無数の弾性糸状体群で、それは傘のような半球を構成し、全体の直径は百メートルに及んだ。綿毛の結束部に当たる半球の中心部にエンジンの機関部本体があり、さらにそこから後方に、五百メートルもの長さの円筒形のメインシャフトが伸びていた。シャフトの途中にはラグビーボールのような紡錘形の膨らみがいくつかあるが、種子に当たる最後端の膨らみが最も大きく、そこにブリッジを含むクルーの居住区や観測モジュールがあった。

 船体前部に展開している無数の糸状体の先端には、それぞれ直径二メートルほどの銀白色の球体が付属していた。ヒッグス場除去装置HFRと呼ばれる量子干渉体である。それは空間にあまねく存在し万物に質量を与えるというヒッグス場に干渉し、それを一時的に排除することで、船体を構成する素粒子の質量を擬似的にキャンセルするシステムだった。ヒッグス場を完全に除去して質量ゼロを実現すれば理論上光の速さでの移動が可能となるが、現在の技術では全体のごく一部しか除去できず、実効速度は光速の二十%程度にとどまっていた。量子エンジン技術はまだ揺籃期だ。だがそれでも人類の活動範囲を飛躍的に拡大させる今世紀最大のブレイクスルーといえた。

 覚醒から十二時間後、船長のブライアンと航宙士のピートを含めた四人でブリーフィングを済ませてから、慎一は耐放射線スーツに着替えた。量子エンジンの周辺はもともと放射線レベルが高いのと、万が一の放射線漏れに備えてのことだ。だがアーカイブされている警報発生時からのデータログは、その危険性を否定していた。

 安全装備と補修キットを用意し、シャフト内を移動するエレベーターに乗った。ゆっくりとエンジン機関部に向かう。五百メートルの距離をたっぷり三十分かけて移動するあいだ、慎一はもう一度軽く屈伸運動をした。さっきより膝が曲がるようになっていた。体調は万全ではないが、頭痛はだいぶ治まっている。慎一は深呼吸をひとつした。

 左手首には、見慣れない腕時計が巻かれていた。

 いつものGショックではなく、緑の文字盤のセイコーで、レディースらしくサイズがやや小さかった。確か正式にアサインが決まったときにあの女医にもらったものだ。なぜにレディースかと問うと、あなたは小柄だからちょうどいいと思ってね、と女医は冗談なのか本気なのか分からない顔で答えたことを覚えている。

 腕時計はエレベーター内のデジタル時計とまったく同じ時刻を示していた。文字盤にセシウムを内蔵しており、百年は電池交換なしで正確な時刻を刻むのだという。高かっただろうと訊くと、女医は「手切れ金だと思えば安いものよ」とうそぶくように微笑み、それから「気に入らなかったら宇宙に棄ててくれてもいいから」と目をそらした。

 エンジン機関部に到着したらしく空気圧の音と軽い衝撃があった。扉が開き、機関部にふわりと歩み入ると、入室に感応して室内照明が点灯し、軽やかな電子音を立ててコンソールパネルが起動した。

 ブリーフィングでのデータから、警報の原因はおおかた予想がついていた。おそらく単純なシステム上のバグだろう。このバグは開発当初から認識していた。だが別に放置していたわけではない。実際に宇宙空間で運用してからでないと適切な対応方法が分からなかったのだ。

 慎一はコンソールパネルのキーを叩き、HFRの一次データを閲覧した。その後データ処理に関連するプログラムを呼び出した。予想どおりだった。素数変換プロセスに論理エラーが生じている。その他いくつかのシステムファイルの稼働履歴を参照して、慎一はなるほどね、と軽く息をついた。

 ブリッジに状況を報告し、バッチファイルの作成にとりかかった。ひな形はサーバに保存されているからたいした作業ではない。スクリプトに変数をいくつか入力し、負荷バランスを微調整しながらシミュレーションを繰り返した。問題がないことを確認し、バックアップをとった後、駆動システムの管理プログラムにバッチをインストールした。

 すると、いきなりブザー音が鳴り響いた。ディスプレイに警報表示が出ている。慎一は首をひねった。バグは確実に修正されている。アルゴリズムに問題はないはずだ。念のため、もう一度一次データを呼び出した。それをマニュアルで素数変換し、理論値と照合してみる。慎重にグラフを眺めているうちに、ほんのわずかではあるが、HFRに誤差範囲から外れているデータがあることに気がついた。

「スチュ、聞こえてるか」慎一はインカムに向けて声を上げた。「四七番がおかしい」

「こちらでも確認した。いま精度チェック中」

 回答を待つ間、四七番糸状体の位置を確認する。左舷前方斜め上十一時の方向だった。進行ベクトルに近く、看過しがたい位置だ。データの乖離には規則性があった。おそらくセンサーの物理不良だろう。宇宙服を着ておいた方が良いかもしれない。

「おい、シンイチ」しばらくして、インカムからスチュの声が聞こえた。「三つあるメインセンサーの一つが動いていない。原因は不明だが、交換が必要になるかもしれん」

「ああ、準備はできている」慎一はヘルメットを装着しながらそう答えた。


 エンジン機関部の奥の通路を抜けると鋼鉄製の二重扉があり、その先がエアロックになっていた。船外作業のプロセスは身についていて、目をつぶっていても体が動く。本番だというのにこんなにも冷静でいられるのはファシルのせいだろうか、それとも何度も繰り返した訓練の賜物だろうか。

 宇宙服の気密性チェックを済ませ、一呼吸したところで、インカムからまた「シンイチ」と声が聞こえた。「酸素供給は二時間が限界だ。三十分前に一度、十五分前にもう一度警報が鳴る。それまでに戻れ」

「分かっている」

「HFRの周りでは無線は使えん。確認することはあるか」

「大丈夫だ。エアロックを開けてくれ」

 エアロックルームから空気が排出されていることを示すシューッという音がはじまり、やがてその音が聞こえなくなった。壁のオレンジランプが点灯し、エアロック外壁のドアが重々しくスライドすると、目の前には真っ黒な闇が広がっていた。慎一はエアロックの縁に立った。もう一度宇宙服と船を接続するケーブルを確認し、深呼吸を一つして、思い切って外に踏み出した。

 ヘルメットのライトを点灯し足元を照らす。どちらの太陽からも遠いここは洞窟のように暗かった。慣性が弱いために体位をコントロールするのが難しい。上下感覚が狂ってバランスを失いそうになるが、ときどき立ち止まりながら、バイザーに映し出される方向指示に従ってゆっくりと歩いた。四七番糸状体の接続部まではそう遠くないはずだ。

 慎一はふと笑いがこみ上げた。四七か、よりによって、今このタイミングで――

 ずっと素数を愛してきた。それは自分と同じだから。誰とも交じり合わない孤高の数。中でも四七は特別だった。それは慎一にとって運命の数字だった。

 もし神様のお導きだとしたら――そこで慎一はもう無線はつながっていないことを思い出して、「やっぱりここがゴールということかもな」と口に出して言った。

 糸状体はエンジン機関部から放射方向に無数に伸びていた。カーボンナノチューブ繊維で編まれた直径九十センチの円柱の群れだ。まるで針山の下を歩くように、狭い足場を探しながらよろよろと歩いた。四七番糸状体の接続部にはすぐに到着した。根元に番号が刻まれてあり、バイザーが示す位置表示とも寸分違わず合致していた。慎一は上を見上げた。天空に伸びる糸状体の森の中を、四七番はゆるやかなカーブを描いて吸い込まれるように闇の奥に消えていた。

 ケーブルを根元の安全フックに引っかけて、糸状体の側面に沿って敷設された手すり状のパイプにしがみついた。ここではスラスターは使えない。五十メートル先のHFRまで糸状体を伝って人力で移動するしかない。

 慎一は両手でパイプにつかまり、両足をしっかり糸状体の表面につけて、少しずつ登り始めた。でも登るという感覚はすぐに体から消えた。暗闇に向かって伸びていく糸状体は、まるで宇宙空間に架かる一本の吊り橋のようだった。恐怖は感じなかった。ただ夢を見ているようだった。

 慎一はふと思い出した。自分は今とてつもないスピードでぶっ飛んでいる。秒速約六万キロ、地球から月までをたったの七秒弱で移動する速度だ。想像も実感もできず、頭がくらくらした。それでも糸状体の表面を這う自分の歩みはあくまで遅かった。

 まるで芋虫みたいだな――と慎一は思った。

 そう、僕は亜光速で這う芋虫だ。銀色の宇宙服を着た芋虫野郎。この巨大なタンポポの綿毛の上で、僕はもぞもぞとうごめいている。慎一は声を上げて笑った。人生のすべてを賭けて目指してきたこの場所に、いま僕は辿り着いた。慎一はこれまでに感じたことのない鳥肌が立つような高揚感と達成感に震えていた。

 体調は万全とは言いがたかった。目はかすみ、息は切れ、頭痛はまだ少し残っていた。それでも慎一は確実に歩みを進めていた。ファシルを頭に埋め込んで以来、こんなに気分が良かったことがあっただろうか。

 僕はあらゆる犠牲を払ってここにきた。あの日僕が覚醒したことで、大好きだったブレンダは去り、親たちには見限られ、いつの間にかピアノも弾けなくなっていた。それでもここに来ることだけを考えてきた。そのために自分自身さえも売り払ったのだ。

 高校二年のあの日に何があったのか、慎一はすべて知っていた。それは禁じられた技術だった。脳にナノマシンを埋め込まれ、神経ネットワークを再編成されたのだ。

 Friendly and Adaptual Communication-assistance with Involuntary Linkage《不随意神経接続による友好的適応的対人関係機能補助》

 それがファシルだ。ファシルは自動的に対人関係を構築する。誰からも好かれるように、社会に受け入れられるように、そして何より、もう自分の心が傷つかないように。

 その機能は柔軟性と学習性に優れ、関わり合う他者との関係を驚くほど円滑化する。たとえそれが自分の本意ではなかったとしても、相手の言動の真意や状況をすばやく察知して社会的に適切な応答を返すのだ。それはほとんど条件反射に近い。だから慎一の言葉や行動はあくまでファシルのものだ。すべてプログラムされたものなのだ。


 慎一が顔を上げると、ライトの灯りの中に見えていた糸状体の円柱は途切れ、代わりに銀色の球体がぼうっと浮かび上がった。それは巨大なこけしの頭のようなHFRの本体で、そこが糸状体の末端だった。

 慎一は足場を確保してHFRの基部を探り、緊急用と書かれた小さなハッチを開いた。バイザーに回路図が表示される。まずは診断だ。本体の電源がオフになっていることを確認し、物理ロックを解除したあと、セントラルモジュールに腕を突っ込んで故障しているセンサーを探り出した。指先を軽く当てて触診。ゼリーのような形状のヒッグスセンサーは軽く熱を放っていた。少しだけサンプリングして目視で確認するとやはりわずかに濁りが見えた。純度チェッカーの値も思わしくなかった。だがまだ十分な粘性と透過性を備えていて、交換の必要はなさそうだった。デリケートなゼリー状センサーは使用状況によっては機能障害を起こす場合があるが、可塑性が高く、早期に適切な処理をすれば復元は早いはずだ。

 慎一はウエストジッパーを開いていくつか補修カプセルをつまむと、またモジュールに腕を入れてシリンダーの中に投入した。五分だけ待ち、もう一度触診するともう熱は引いていた。チェッカーの値も許容範囲内まで回復している。これで大丈夫だ。

 各部を点検して他に異常がないことを確かめ、ハッチを閉じたところで、ヘルメットの中で警報が鳴った。酸素残量計は、ちょうど残り三十分を示していた。

 慎一は興味がなさそうに手動で警報を解除した。それから上を向いて、目の前の球体の表面にしがみついた。小さなフックを探りながら何とか球体の頂上まで体を持ち上げ、あぐらをかくようにそこに座り込んだ。そしてヘルメットのライトを消灯した。

 顔を上げた慎一の目の前に、虹が浮かんでいた。

 船の進行方向に星々が集中し、その周りで虹が輪を描き、渦を巻いていた。よく見ると、星の光がぼやけて虹色に分解しているのだと分かった。虹の渦は宝石のような星を散りばめながら七色に重なり合い、淡い光を放っていた。内側は青く、外側は赤く、それはまるで遊園地のトンネルのようだった。あまりの美しさに息を呑んだ。自分が宇宙船そのものになって、光のトンネルに向かって疾走しているような錯覚を覚えた。

 これが星虹スターボウか、と慎一は声を漏らした。

 光のトンネルの真ん中に、ひときわ明るい星があった。それが目指すアルファ・ケンタウリだとすぐに分かった。あそこを目指して旅をしてきた。まだ誰も足を踏み入れていない場所。人類が誰もいない場所。もう間もなく、僕はあそこに到着する。

 慎一は後ろを振り返り、白く小さい太陽の姿を認めた。あの方向に地球がある。人類は遙か彼方に遠ざかり、五百メートル後ろにわずか八名を残すのみだ。彼らでさえ、今の僕とは言葉を交わすことすらできない。そう考えると慎一は痛快な気分になった。

 ――あなたの訓練再開を許可します。と、あの女医は言った。約束の二ヶ月まであとわずかとなったある暑い夜のことだった。

「あなたは自分を殺せない。ファシルにとってそれは反社会的な行動だから」

 慎一は一瞬目を見開いて驚きの表情を見せたあと、女医を小さくにらみ、かすかな笑みを浮かべて「さあ、どうでしょうかね」とつぶやいた。

 女医は眼鏡を外して慎一を射貫くように目を細め、椅子をくるりと回して横を向いた。その横顔が何となくブレンダに似ていることに、慎一は気づいた。

「あなたの人生はあなただけのもの。だからそうしたいならすればいい。私には正解は分からない。ただ、あなたの助けにはなれるかもしれない」

 女医の声は、静かな部屋によく響いて聞こえた。

 あの時、どんな言葉を発するべきだったのだろう。慎一は自問した。僕は助けて欲しかったのだろうか。ファシルに捕らえられた自分を解放して欲しかったのだろうか。

 まだ十三歳だったあの日に、僕は宣告されたのだ。お前は六十歳までしか生きられぬと。あと四七年の命だと。それはつまり、それまでは生きていても良いということだ。

 あの言葉がすべてだった。人生の目的だった。それは呪いだったのか、それとも啓示だったのか、大人になり、たくさんの人に関わった今でさえ、慎一には分からなかった。なぜなら、それは自分が望んだことでもあったからだ。僕がこの世で生きるための理由。時間制限のある最重要ミッション。そのためにファシルを受け入れ、量子エンジンを作り、苦労を重ねてやっとここまで辿り着いたのだ。

 誰もいない真っ暗な場所で、芋虫のように死ぬために――

「中村さん」女医はこちらに向き直り、笑みを浮かべる慎一をじっと見つめて、その心の奥底にまで届けるようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「もしあなたが望むのなら、私はファシルを外すことができる」

 慎一がまた口を開く前に、女医は続けた。

「ファシルがあなたから何を奪って何を与えたのか、私には分からない。もしかしたらあなた自身にも分からないのかもしれない。でもね、ファシルがどんなにあなたを変えたとしても、あなたは何も失ってなどいない。未来も、過去も、いつだって取り戻せるし、棄てることだってできるの。あなたは選ぶことができるのよ。だから船に乗って四七年で人生を終えたければそうすればいい。あなた自身がどうしてもそうしたいならね。けれど、ファシルとずっと過ごしてきたあなたならもう分かっているはず――他人が自分をどう思うかなんて、本当はとても下らないことなんだって」

 慎一は笑顔を固めたまま、震える唇から小さくかすれた声を絞り出した。

「僕は船に乗ります。そのためにはファシルが必要なのです」

「そう思うならそれでもいいの。大切なのは自分自身で選択するということ。そうでなければ宇宙の果てには手は届かない。私はそう思う。だからもし、あなたが自分の声で誰かと話したくなったら、いつでもここに戻ってくればいいのよ」

 薄暗い部屋の中で真っ青なディスプレイの灯りを頬に浴びながら、女医はかすかな笑みを浮かべた。慎一は迷うように目を泳がせたあと、ぎこちなく口の端を歪めてつぶやいた。

「戻ってくるのは四十年後ですよ。あなたはその頃、幾つだと思ってるんですか」

 女医はからからと笑った。目尻に美しいしわが寄るのはブレンダと同じだった。

「平均寿命をちょっと超えるだけじゃない。どうってことないわよ」


 慎一はひとつ深呼吸をして、両手をついて球体の上に立ち上がった。宇宙服の安全フックからそっとケーブルを外した。それから後ろを振り向いて、最後にもう一度ふるさとの光を浴びてから、ふうっと長い息を吐き出した。

 さっきから、耳元で音楽が聞こえていた。遙か昔に聴いた懐かしいメロディだった。

 指でリズムをとり、体を揺らした。音楽の揺らぎに身を任せているうちに、慎一は自分が歌っていることに気がついた。真空のはずなのに、虹の向こうから絶え間なく風が吹いていた。慎一は翼のように両手を広げて、その風を全身で受けとめた。だんだんと、自分の体が透明になっていくのが分かった。

 星の虹は音楽に合わせてオーロラのようにゆらゆらと形を変えながら、静かに慎一を包み込もうとしていた。

 正人、オレはいまユニバースをアクロスしているぜ、と慎一は喉を震わせた。

 その時、二度目の警報が鳴った。

 きらめく螺旋の向こう側に、最後のピースを見つけたような気がした。


                 6

 医師であり航空電子工学の専門家でもあるスチュワート・サティクリフ博士は、冷凍睡眠カプセルに入っているクルーのバイタルチェックを終えたところだった。

 自分たちも十四年ほど眠っていたカプセルだ。三年半後にアルファ・ケンタウリに到着したら、全員を叩き起こして総動員で観測態勢に入ることになる。だがまだ先は長い。ミッション全体の半分も終わっていないのだ。まるで修行僧のように長く伸びた頬髭を撫でながら、スチュワートはデスクのコーヒーカップからゆらぐ湯気を眺めた。

 軽い音を立てて睡眠室のドアが開き、船長のブライアンが入ってきた。睡眠中のクルーのバイタルチェック結果を報告するよう求められたので、スチュワートはチェックリストに従って淡々と報告した。ブライアンは満足げにうなずいた。

「幸せそうに寝てやがって」

 ブライアンは睡眠室の床にマグロのように並ぶ冷凍睡眠カプセルを見回って、ひとつずつ中を覗き込んだ。いちばん左端のカプセルの前で足を止めた。それは慎一が眠っているカプセルだった。

「中村博士がどうかしましたか?」

「いや、たいしたことじゃないんだ」ブライアンはカプセルに顔を近づけたまま言った。

「量子エンジンのリモートメンテナンスマニュアルのインデックスが見つからなくてね。まあ今さらなんだが、寝る前に訊いておけばよかったと思ったのさ」

「ライブラリに問い合わせたらどうでしょう」

「ライブラリが中村博士のパーソナルフォルダにあるって言ったんだよ」

 パーソナルフォルダは個人情報保護の観点から外部からの検索はできない。船長権限で閲覧だけなら可能だが、フォルダ構成は数百のサブフォルダに分割されており、ひとつひとつ中身を開いて調べなければならないのは確かに面倒だ。

「コピーがあるから運用上は困らないんだが、あいつのオリジナルは書き込みが多くて何かと重宝するんだよ。だから共有ファイルのリストに入れておきたくてね」

 スチュワートは少し考えてから「四七番のフォルダを調べて見てください」と言った。

「重要ファイルはおそらく、その中にまとめてあると思います」

「なぜ分かる」

「友人ですから」

 本当かよとつぶやきながら、ブライアンは睡眠室の端末からパーソナルフォルダを呼び出し、管理用パスワードを入力して、四七番のサブフォルダを開いた。

 目当てのファイルはすぐ見つかった。ブライアンは「まじか」と声を漏らした。呆れたような表情をして、端末の横に立つスチュワートの髭づらを見上げた。

「あいつは何でも四七なんですよ。理由は私も最近知ったんですけどね」

「いったい何の意味があるんだ、その数字に」

 スチュワートはくすくすと笑った。

「クイズだと思って考えてみてください。正解は地球に帰ったら教えてあげます」

 ブライアンは何か言いかけたが、口をつぐみ、まあいいやと睡眠室を出て行った。

 スチュワートはその後ろ姿を見送りながら、冷めかけたコーヒーに口をつけた。たったの四七光年だ――と、先月、慎一が眠りに入る前に言った言葉を思い出す。

 ――スチュ、ダンデライオン計画が成功したら、NASAの次の目標はグリーゼ・ヤーライス1214らしいぞ。知らないか? へびつかい座にある赤色矮星だよ。

 今世紀のはじめ、そこに地球型惑星の存在が確認されたんだ。その惑星は公転軌道が地球と同程度のハビタブルゾーンにあることが分かっている。表面組成の四分の三が液体の水で占められていて、十分な濃度の大気があることも確実視されてるんだ。あそこはな、太陽系の近傍では生命が存在する可能性が極めて高いと評価されている惑星なのさ――


 なあ慎一、この旅から戻ったら、お前はまた船に乗ってそこに行くつもりなのか? その頃、お前はいったい自分が幾つになってると思ってるんだよ。四七光年先のあの惑星まで、ダンデライオン号でさえ二百年以上はかかるんだぜ。

 それとも慎一、お前まさか、光の速さを超える方法を思いついたとでもいうのかい? 〈了〉

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47 関元聡 @skmt3104n

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