雨の音楽

「今日、夕方から音符雨に変わるのか……」


家を出る前、スマホで天気予報を見ていた私は思わず呟いた。

だから黒くやけに細い傘を手に取り家を出た。会社までの道中、普通の雨は降らず折り畳み傘は鞄で熟睡。

でも丁度、会社に着いたところで窓には激しく雨粒が打ち付けられていた。


「タイミングいいじゃん」


私は微笑みを浮かべそう呟くと少し良い気分で仕事へと取り掛かった。

それからいつも通り働いて、いつも通り仕事を終えた私は会社を出た所で足を止めた。


「おっ! 降ってる降ってる」


知らない色のように綺麗な青のどこまでも続く澄み切った蒼穹。そこからは一つ、また一つと音符が降り注いでいた。八分音符に四分休符、全休符や全音符。様々な音符が辺り一面で振っている。

私は手を出しその音符を掌で受け止めてみた。雨粒が当たるような感覚と共に音符は弾け消えていくが、濡れては無い。

でも弾ける際に軽やかな一音の雨音を鳴らした。とても小さく気にしなければ聞こえないような音。


「んふふ。いいじゃん」


満足気に喜色を浮かべ私は持って来ていた傘を広げた。

それは、五本の黒線が伸びた五線譜の傘。既に心躍らせながらイヤホンを取り出しハンドル部分にある穴へ繋げる。

そして私は五線譜を差しながら音符雨の中へと足を進めた。傘に当たり弾けていく雨音が私の耳へと流れ込む。耳元では瞬く間に聞いた事も無い音楽が流れ始めた。

それは仕事で疲れ切った体を軽やかに、ゆっくりしたい心でさえ軽快に躍り出すような素敵な音楽。聞いた瞬間、モノクロだった世界へ一瞬にして色が塗られ色鮮やかになったような感覚に襲われ、行き交う人々や鳥に虫、木や花でさえ一緒になって歌い踊り出してしまいそうな魅力を秘めたそんな音楽だった。

私はあっという間に夢中になり仕事帰りだと言うのに上機嫌で歩いていた。それはもう段々とスキップ交じりの足取りになり、勝手に口角が上がってしまう程に。

そんな気分がそうさせたんだろう、いつもより帰り道が楽しくてついつい遠回りして帰ろうと知らない道を進む。


「あれ?」


でもまだ途中だと言うのに、雨は上がってしまった。あの春先のような雨音もすっかり消えてしまった。


「家までまだあるのに」


私は一人、肩を落としながら呟くと渋々五線譜の傘を閉じた。

そして少しだけ重くなった足取りで家へと歩き出すが、その足はすぐに立ち止まる。


「折角だし、ちょっと休憩して行こっと」


たまたま目に留まったカフェ。個人でやっているのか小さく、でも外観は結構おしゃれ。

私は早速、店内へ足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ」


入口だと言うのに私はつい。足を止めてしまった。

私の双眸の先に居たのは、カウンター越しに私へ向け笑みを浮かべる男性。その声、その容姿、その笑顔。

私の心は、雨音も消えたというのに再び軽快に踊り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る